第91話 ピクニック③ —翔の失言—
「ふぅ、お腹いっぱいだ」
しばらくして、琴葉がふいに箸を置いた。
彩花がその弁当を覗き込み、首をかしげる。
「あれ、琴葉。もういいの?」
「うん。ちょっと多すぎたみたい」
琴葉が照れたように鼻の下をこする。
彼女の弁当箱は、潤のものと同じ大きさだ。
「緑川君と同じ量にしちゃうなんて、琴葉もかわいいとこあるね」
「そ、そういうわけじゃないよ。作りすぎちゃったから、詰めてきただけ」
「そっかそっか」
彩花は琴葉の反論を取り合わず、ニコニコしている。
琴葉はむすっとしたが、言い返そうとはしない。自分が追い込まれるだけなのはわかっているのだろう。
(にしても、彩花が攻める側なのは珍しいな)
それだけ打ち解けてきた、ということだろうか。
「琴葉。要らねーなら、残りもらっていいか?」
「うん——あっ」
その瞬間、琴葉が彩花を見ながら、イタズラを思いついた子供のようにニヤリと口角を上げた。
そして、箸で肉をつまむと——おもむろに潤の口元に運んだ。
「……えっ?」
彩花が固まる中、潤は躊躇いもなくそれを咥え込み、「うめえ!」と声を上げた。
「っ、あ……!」
彩花の肩がびくっと震え、その反動で、箸先に乗っていたミニトマトがぽろっと落ちた。
彼女が焦った声を上げる中、それはまるで意志を持ったように、翔の背後の地面をコロコロと転がっていく。
「そんなにまじまじ見られると恥ずかしいなぁ」
そう言いつつも、琴葉に照れている様子はない。
むしろ、面白がるように瞳を細めている。狙い通り、と言ったところなのだろう。
「そ、そんな見てないよ……っ」
逆に彩花は、ちらちらと潤と琴葉を窺っては、気恥ずかしそうに身を縮こまらせていた。
存外ウブなところのある彼女には、いわゆる「あーん」は刺激が強すぎたらしい。
もっとも、翔も他人のことは言えない。最初に見せられたときは、今の彩花のように固まった記憶がある。
そのときも確か、琴葉を揶揄った後だったはずだ。
(意外と負けず嫌いなんだよな、琴葉も)
翔は苦笑しつつ、遠ざかっていく赤い球体をティッシュでそっと捕まえた。
「あ……翔君、ありがと」
「おう」
どうせ食べられる状態ではないので、わざわざ彩花に返すこともないだろう。
自分の弁当箱の空いているスペースに収めておく。
「翔、代わりに一個あげれば?」
「そうだな」
潤の声に、翔は即座に同意した。
元々、彩花が作ってくれた弁当だ。
「彩花、一個でも二個でも好きに——」
「翔、違うよ」
琴葉の声が鋭く割り込んだ。
「えっと……なにが?」
「翔は今、何を見てたの?」
琴葉の視線が翔の箸先、続いて彩花の鼻の下——唇へ向けられる。
翔は頬を引きつらせた。
「いや、絶対しないからな?」
「でも、私たちだけ見せ物にされるのは不公平だと思うけどな」
「カップルが勝手にイチャついただけだろ」
食べさせるのは正真正銘、恋人同士の戯れだ。
名前呼びや手作り弁当とは訳が違う。
いくら背中を蹴られても、そこの一線を越えるつもりはなかった。
「まあ、それはそうだね」
琴葉はあっさり引いた。
最初から本気で迫る気はなかったのだろう。
「そしたら、今日のところは見逃してあげよう。二人にはまだ早いだろうし」
「今後も一生やらないけどな」
「なら、私たちが代わりにやってあげなきゃ。ね、潤」
琴葉はまた平然と、箸を潤の顔の前に持っていく。
「おう。くれるもんはもらうぞ」
潤にも拒むそぶりはない。
彼の場合は言葉通り、食べ物がもらえるから喜んでいるのだろうが、
「っ……」
隣で息を呑む気配を感じ取り、翔はため息混じりに言った。
「そんなノルマないし、彩花が耐えきれなさそうだからやめてやってくれ」
「わ、私は別に大丈夫だよ」
「鏡の中の自分にもそう言えるか?」
「……ばか」
彩花は耳まで赤くなりながら、伏し目がちにぽすっと翔の膝を叩いた。
(っ……なんだよ、それ)
決して痛くはなかった。
そのはずなのに、翔の体がじんわり熱を帯びる。
「くぅ……っ、本当にお腹がいっぱいだ」
琴葉は身悶えしつつ、箸先でつまんだトマトをひょいと潤の口——ではなく、彩花の弁当箱へ放り込んだ。
「えっ……琴葉?」
「あげる。よかったら食べて」
「ああ、うん……ありがと」
彩花は戸惑いを見せながらも、返却しようとはしなかった。
一口噛んだ瞬間、その目元が和らぐ。
「ん、甘いね」
「でしょ? うち、農家もやってるんだ」
「えっ、そうなの?」
「そうじゃないよ」
「なんだ、びっくりした」
琴葉と笑い合う彩花の頬は、いつも通りの健康的な白さを取り戻している。
しかし、翔の鼓動は未だにペースが戻らない。
(……今の、一応は間接キス、だよな)
女子同士なのだから、気にすることはない。
翔だって、男友達が箸やスプーンをつけたかどうかなど気にしない。
それなのに、妙に意識してしまった。
彩花が自分が常用するシェイカーを飲ませようとしてきたこともそうだし、弓弦経由の事故も、そこまで昔の話ではない。
自然とそういう考えが浮かんでもおかしくはないだろう。
ただ、掘り下げるべき思考ではないことも確かだ。
翔は首を横に振り、何の気なしにトマトを一つ挟んだ。
(結局、俺はあげなくていいんだよな?)
そんなことを考えていたからか、口に入れる直前に、つるりと滑り落ちてしまう。
「っ、やば……!」
せっかく作ってくれたのに、申し訳ない——。
咄嗟に浮かんだ思考を汲み取ってくれたのか、宙を舞ったトマトは、見事に彩花の弁当箱の中に着地した。
「ふぅ、危なかった……」
「翔、それは彩花に『あーん』してほしいってこと?」
胸を撫で下ろす翔に、琴葉がぐいっと身を乗り出してきた。
瞳を爛々と輝かせる彼女の隣で、潤もニヤリと笑い、
「ナイス送球だ、翔。今すぐ野球部入れよ」
「狙ってないから。……彩花、ちょっと失礼」
翔が控えめに箸を伸ばすと、彩花は「ふふ」と小さく笑って、弁当箱をわずかに寄せてくる。
「作り手の元に戻ってくるなんて、この子は偉いね」
「さっきのやつはちょっと反抗期だったのかもな」
「じゃあ、ちょうど翔君たちと同い年くらいだ」
「誰が反抗期だ」
翔は頬を緩めながらも、万が一にも他の具材に箸が触れてしまわないよう、慎重に狙いを定めた。
「潤、あんなに腕が震えてるようじゃ、ボールは投げれそうにないよ」
「だな。とんだ期待はずれだったぜ」
「勝手に失望すんな」
翔は顔をしかめながら、今度こそトマトを口に放り込んだ。
◇ ◇ ◇
「美味かった……」
筋トレの影響なのか最近は食欲が増していたが、それでも弁当箱が空になる頃には、ふとお腹をさすってしまうくらいには満たされていた。
「満足してくれたみたいで、よかった。じゃあ、もらっちゃうね」
「いや、洗うのくらいは俺がやるよ」
弁当箱を素早く回収しようとする彩花の手を、翔が制すと、
「ううん。元々うちのだから」
「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えます」
その笑顔にどこか圧を感じて、翔は素直に引いた。
しかし、それならばせめて、感謝はしっかりと伝えるべきだろう。
「けど、ありがとな。マジで美味かったよ」
「お粗末さまでした」
彩花はさらりと答えるが、その口元は緩やかな弧を描いている。
「彩花。こんなに喜んでくれてるんなら、毎日作ってあげなよ」
「いや、それは申し訳なさすぎるし、よくわかんない状況になるだろ」
琴葉の突拍子のない提案に、翔は即座に反論した。
それではもはや、恋人関係も飛び越えて、半同棲状態のようになってしまう。
そもそも今は夏休みで、昼食は普通に家で食べている。
「じゃあ、もし食べられるなら?」
琴葉が食い下がってくる。
彼女の誘導に乗せられるのは悔しいが、あまりはぐらかしすぎるのも、彩花に失礼かもしれない。
「……クラスの男子に夜道で刺されそうだっていうのは置いておいて、食べられるなら毎日でも食べたいけど」
「大袈裟だなぁ」
彩花が困ったように眉を下げた。
(……おだててるわけじゃないんだけどな)
本気で受け取っていない様子に、翔は少しだけ腹が立った。
——だからこそ、つい口が滑ってしまったのかもしれない。
「本当だよ。特に卵焼きとか出汁もよく効いてて、前よりもさらに……あっ」
「か、翔君っ!」
翔は慌てて口元を押さえ、彩花も被せるように声を上げた。
しかし、どちらも後の祭りだった。
「前よりも? ……ふーん」
「その話、詳しく聞かせてもらわねーとなぁ」
琴葉と潤が、獲物を前にした獣のように舌なめずりをしてにじり寄ってくる。
「もう、何してんの……!」
「ごめん。ミスった」
彩花に涙目で睨まれ、翔は天を仰いだ。
第92話は「ピクニック④ —お姫様と突然の……—」です!
潤君と琴葉さんの尋問から解放された翔君と彩花さんは、ひと息吐きながら帰路に着きますが、その途中でとあるハプニングが……?




