第9話 特製ドリンクと、これからの予定
「はい、ラスト三!」
「くぅ……!」
彩花のハキハキした声と、翔のうめき声が、二人きりのジムに響く。あの接触以降、彩花はなぜか一段と厳しくなっていた。
側から見れば、トレーナーと生徒にしか見えないだろう。彩花はプロデューサーなので、間違ってはいないかもしれない。
「頑張って、あと二回!」
「ぐあ……!」
体中が悲鳴を上げ、腕と胸がプルプルと震える。
「よし、ラスト——」
「も、もう無理!」
バーは胸の上で停滞し、びくとも動かない。
「入会したばかりで、退職させないよ!」
「代行頼んでないって……!」
必死に声を漏らしながら、全身で押し上げるように力を込める。
ギリギリのところでバーが持ち上がり、ラックにカチンと戻った瞬間、翔は全身の力を抜いた。
「……死ぬかと思った」
その場から起き上がることすらできず、天井を見上げて息を荒げる。
「はい。お疲れ様」
「おう、サンキュー……」
タオルを受け取るだけなのに、腕がプルプルと震えてしまった。
「最後、よく頑張ったね……って言いたいところだけど、やればできるんだから、早めに諦めちゃダメだよ」
「ぐっ……」
最後の一回ができてしまったことが、キツさから逃げようとしていた何よりの証拠だった。
翔が言葉を詰まらせてそっぽを向くと、ふっと息を漏らす気配がした。
「まあでも、初日で一通りこなせたのはすごいよ。フォームも悪くなかったし、この調子で続ければそう遠くないうちに効果は出るんじゃないかな」
一応、及第点はもらえたらしい。
「休んでていいよ。すぐ戻ってくるから」
「おう」
彩花は手早く重りを外すと、入り口とは反対側の扉に向かって歩き始めた。
いくら上半身の日だったとはいえ、運動後なのにその足取りは軽やかだ。日々の積み重ねの差を如実に見せつけられている気がした。
とはいえ、気分が落ち込むことはない。
翔はベンチに倒れ込んだまま、じんわりとした達成感に包まれていた。体育の授業後には味わったことのない、心地よい疲労だ。
しかし、さすがに人様の家で、器具の上とはいえ寝転がったままでは良くないだろう。
重い体を起こして待っていると、しばらくしてから彩花は戻ってきた。
「はい、お疲れさま。プロテイン、持ってきたよ」
差し出されたシェイカーには、ピンク色の不穏な液体が揺れていた。
「ありがたいけど……なんか、色すごくない?」
「特製スムージーだよ?」
ニヤリ、と彩花が口角を上げる。かわいいはずのその笑みが、今だけは妙に恐ろしく見えた。
翔の背中を冷たいものが伝った。これはきっと、ただの汗ではない。
「い、いただきます」
意を決して一口飲み——思わずつぶやいていた。
「うま……」
甘酸っぱくて、とても飲みやすかった。
「ふふっ、でしょ? ちゃんと栄養バランスも考えてあるんだから。でも、ちょっとでもサボったら、青汁ベースに切り替えるけどね」
「……なんか、俺で遊んでない?」
「そんなことないよ? プロデューサーからの愛のムチってやつだから」
彩花がぱちっとウインクを決める。
「……そうか」
「そうなの。それより、飲み終わったらシャワー入ってきたほうがいいよ。風邪引いちゃうし」
「悪いな、助かる」
申し訳ないとは思いつつも、ここで汗だくのまま家に上がるほうがよほど迷惑だろう。素直に好意を受け取ることにした。
シャワー室に案内してもらうと、彩花は自らもタオルを手に取った。
「待たせちゃうかもけど、私も浴びてくるね。今後の日程とか決めたいから、適当に待ってて」
「おう」
手を振るだけでも徒労感がある。でも、それは決して不快なものではなかった。
熱いシャワーを頭から浴びていると、思わずふー、と息が漏れる。今後は、暇なときにランニングなどをしてみても良いかもしれない。
「お待たせー」
シャワー室のドアが開き、彩花が出てきた。
ダボっとしたTシャツにショートパンツという姿で、翔の隣に腰を下ろすと、ほんのり甘い香りが漂ってきた。シャンプーだろうか。
(意外と距離感近いんだよな……)
決して悪い気分ではないが、どこか落ち着かない。
しかし、当の本人は気にしていない様子で、「じゃあ、ちゃっちゃと決めよっか」とスマホを取り出すので、翔も慌ててカレンダーアプリを起動させた。
部位は大きく上半身と下半身に分けて、週四日で二回ずつ行う取り決めとなった。
彩花がそのようにしていたので、合わせた形だ。
「私が見張るから、サボらせないよ」
「う、うす」
ピシャリと言われ、自然と背筋が伸びる。
すっかり上下関係が出来上がってしまっていた。
「ま、そんなこと言ってるけど、私も一人だとサボっちゃうから。一緒にやってくれる人がいるとありがたいんだよね」
「吉良とはやらないのか?」
「前に声かけたんだけど、キツそうだからって遠慮された。軽めでもいいって言ったんだけどね」
彩花は苦笑しているが、少しだけ寂しそうだ。
「まあ、高校生じゃ普通尻込みするよな。逆に、一人でもやってた双葉がすごいよ」
「もったいない精神もあるけどね。それに、草薙君だって他人事じゃないよ? 男の子なんだから、私より重量は上がっていくでしょ」
「わかってるよ」
週四日のトレーニングをずっとこなしていくなら、どの同級生よりも、彩花と長くいることになるだろう。
翔は構わない。元々友達は多くないし、遊ぶとしても潤とたまにゲームをしたりする程度だ。
でも、彩花はどうなのだろうか。
「つきっきりでやってくれんのはマジでありがたいけど、俺にそんな時間とってもらっていいのか?」
「元からこのスケジュールでやってるし、一緒に頑張れる人って、貴重じゃない? そういうのバカにする風潮あるし」
「まあ、それは確かにな」
「それに、草薙君といるのは気楽だしね」
彩花は髪の毛を整えながら、なんでもないように付け足した。
(やっぱり、ただの無害な男として見られてるな)
それに、翔の前ではお姫様を演じなくていい、という部分もあるのかもしれない。
「全然気を遣ってもらわなくていいからな。双葉の家なんだし、ありのままでいてくれればいいから」
「えっ……」
彩花は驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。
「うん、わかった。とは言っても、草薙君に対しては最初から結構素だったかもしれないけど」
「確かに。出会い頭に睨まれたもんな」
「あ、あれはしょうがないじゃん」
「わかってるよ」
苦笑してみせると、頬をふくらませ、恨みがましげに見上げてくる。
「……そっちこそ、私で遊んでるでしょ」
「そんなことないって」
口では否定しつつも、自覚はしていた。
素直な反応をしてくれるので、ついつい揶揄ってしまいたくなるのだ。
「次やったら、全部一セットずつ追加するからね」
「ありのままの双葉は、ゴリゴリの体育会系だったんだな」
「よし、次回覚悟しな」
「ごめんって。もう言わないから」
「仕方ないな……じゃあ、行こっか。弓弦も待ってるだろうし」
彩花は機敏な動きで立ち上がり、スタスタと歩き出した。
シャワーで回復したのか、先程までよりもさらに軽やかな身のこなしだ。翔も慌てて追いかける。
「……ありがと」
「えっ? 今なんか言ったか?」
「ううん、なんでもない」
サラリと答える彩花の口元は、ほんのり緩んでいて、翔も自然と口元をほころばせた。
——このプロデュース、悪くないかもしれない。
次回はいよいよ、双葉家に上がります……!