第88話 お姫様のプチパニックと、ピクニック前の違和感
「……う、嘘だろ……?」
翔はそろそろとシェイカーに鼻を近づけた。
鼻腔に入ってきたのは、野菜と果物の匂い。
「名字で呼んじゃっただけで……?」
「そ、それだけじゃないよ。これまでの積み重ねの結果で、さっきのは最後の一滴だっただけ」
「それでシェイカーなみなみの青汁スムージーかよ——ん?」
翔はふと気づく。
彩花のシェイカーの中身も、同じように緑だ。
「……なんで彩花も?」
「生徒の失態はプロデューサーの失態だから」
「でも、青汁はマジで苦手って言ってなかったか?」
「そ、そうだけど……」
彩花は髪の毛をくるくるいじった。瞳は泳ぎ、耳のあたりもうっすら熱を持っている。
どこか恥ずかしがっているようだ。
翔の頭にふと、一つの可能性が浮かんだ。
「……もしかして、俺のを作ってから申し訳なくなったとか?」
「ち、違うよっ。ちょっと多めに作りすぎちゃっただけ!」
彩花が勢いよく立ち上がった。
そのせいでベンチが揺れ、翔が傍に置いていたシェイカーがぐらりと傾く。
「うわっ」
翔は反射的に手を伸ばして支えた。
幸い、中身が一気に漏れ出すことはなかったが、傾いた分だけ緑色の液体が流れ、手の甲を伝っていく。
(思った以上にドロドロしてるな……)
翔は思わず眉を寄せた。
プロテイン、野菜、果物が混じっているのだから仕方のないことだ。
「あ、ご、ごめん! えっと、ハンカチ——あっ」
彩花が慌ててポケットを探り、今度は定期入れを落としそうになる。
両手でなんとかキャッチした拍子に、ウサギのキーホルダーがぶらんと揺れた。
目がばっちり合って、翔は思わず口を開いた。
「ごめんな。おっちょこちょいなご主人様を選んじゃって」
「な、なに言ってんのっ」
彩花がささっと定期入れをポケットにしまう。
(はやっ……というか、そもそもなんで定期入れを持ってるんだ?)
疑問は浮かんだが、それより手が気持ち悪い。
翔は器具の脇に置かれている紙のフキンを数枚取った。
「そんなにこぼれてないし、紙でいいよ」
自分の手、シェイカー、ベンチを順に拭いていく。
「彩花、数枚アルコールで濡らしておいてくれるか?」
「あ、うん」
彩花がすぐに動く。少し落ち着いてきたらしい。
「サンキュー」
「ううん、私が拭くよ」
翔が手を差し出すと、彩花は首を振り、シェイカーを拭き始めた。
「そうか。じゃあ、よろしく」
翔もあえて、自分がやるとは言わなかった。
彩花は慎重な手つきでベンチまで拭き直すと、おずおずと翔を見上げた。
「どうした?」
「……翔君の手も?」
「い、いや、俺はいいよ」
「そ、そっか」
彩花がほっと息を吐く。
(彩花の罪悪感が暴走しなくてよかった……)
翔は胸を撫で下ろした。
同級生の女の子に手を拭いてもらった日には、確実にいたたまれない気持ちになるだろう。
「その……迷惑かけてごめんなさい」
一段落した後、彩花が若干しょんぼりしたまま言う。
翔はシェイカーを軽く揺らしつつ——もちろんしっかりと蓋をしている——苦笑した。
「気にすんな。飲む量が減ったと思えば、むしろありがたいし」
「それはそれで微妙に複雑なんだけど……一応、私が作ったんだからね」
「もちろん感謝はしてるよ。たっぷり二杯分も、作ってくれたんだから」
「ねぇ、絶対皮肉でしょ」
「そんなことないって」
口では否定してみせるが、自分が意地悪な表情になっていることを、翔は自覚していた。
もしも多めに作りすぎたというのが本当なら、まるで実家に帰ったときのおばあちゃんだ。
「にしても、前にちゃんと分量を測って作ってるって豪語してた気がするのは、俺の勘違いか」
「っ……」
翔がつぶやくと、彩花がぴたりと固まった。
——次の瞬間、緑色が翔の視界で揺れた。
「お望みならおかわりしていいよ」
「望んでないから、遠慮しておく」
翔は鼻先に出現した緑色に染まった容器を、そっと手で退けた。
「男らしくないなぁ」
「うるさい。——じゃあ、いただきます」
彩花から視線を逸らすと、深呼吸をしてから、意を決してシェイカーに口をつけた。
「……ん?」
「あ……さすがに、不味かった?」
彩花が不安げに眉を下げる。
「そうじゃなくて……意外といけるかも」
「えっ⁉︎」
愕然としたような彩花の声を聞きながら、翔は二口目を含んでみた。
まぶたを閉じて、味わうように口の中で液体を転がす。
「……うん。どろっとした感覚は気になるけど、味自体は嫌いじゃないな」
「——それならいいじゃん」
彩花がチャンスとばかりに、再びシェイカーを差し出してきた。
(……これはもう、お互いのために言うしかないよな)
鼓動が早くなるのを感じながら、翔は意識的にゆっくり口を開いた。
「悪いけど、それは無理だ」
「どうして?」
「……前みたいな事故は、お互い避けたいだろ」
「事故?」
彩花が不思議そうに首を傾げた。
どうやら、本当に心当たりがないらしい。
翔はため息を漏らすと、視線を合わせないまま答えた。
「……自分が常用してるシェイカーを、男に飲ませていいのかよ」
「えっ? あ……っ!」
彩花が息を詰める。間もなくして、その頬にじわじわと朱色が差していく。
翔が頑なに断っていた理由に、ようやく気づいたらしい。
「……毎回ちゃんと洗うし、今日はまだ口つけてないもん」
「そうか。じゃあ、遠慮なく」
翔が無造作に手を伸ばした瞬間、
「ちょ、ちょっと待って!」
彩花がシェイカーを慌てて遠ざけた。
「冗談だよ」
そう弁明しても、彩花は耳の先まで赤くして、シェイカーを抱きかかえて小さくなっている。
どうやら、忠告して正解だったようだ。
(……いや、むしろやりすぎたかも)
意地を張らせないために強引な手法を取ったが、今後は極力控えるべきだろう。
「別の容器とかに移してくれれば、俺が飲むから」
「……これくらい、飲めるもん」
彩花はそう唇を尖らせると、翔を横目で睨むように見つめながら、シェイカーを持ち上げた。
しかし、口の手前で、手がぴたりと止まってしまう。
「……意識を逸らしたいのはわかるけど、ずっとこっち見てると目が痛くなるぞ」
「ふ、普通に睨んでるんだよっ」
反論した勢いのまま、彩花はぐいっと一口あおった。
「っ、まず……!」
味以上に渋い表情だ。
それでも見られない顔にならないことに、翔は密かに感心してしまった。
——それから二人が双葉家に戻るまで、小一時間を要した。
「もう、絶対飲まないから」
「作らなければいいだけだろ」
「っ……そんな熱心に勉強したいんだね。了解」
「彩花、落ち着け。俺が悪かったから」
夏だというのに、翔の背中を冷たい汗が伝った。
◇ ◇ ◇
「明日のお昼なんだけどさ——」
潤と琴葉を含めた四人でピクニックに行く前日、彩花がふと、そう切り出した。
「私と琴葉で考えているんだけど、翔君は何が食べたいとかある? やっぱり、お肉?」
「まあ、そうだな。あと卵料理とかかな」
「卵焼きとか?」
彩花がやや勢い込んで尋ねてくる。
おそらく、カフェでも探してくれるつもりなのだろう。
「スクランブルエッグとか目玉焼きも好きだけどな」
卵焼きは弁当の定番であって、外食だとバイキングくらいにしかないのではないか。
そんな疑問が湧いたが、わざわざ指摘する理由もない。
「わかった。でも、野菜もちゃんと取らなきゃだからね」
「それはそっちに任せるよ。ありがとな」
「う、うん」
彩花はどこか緊張した面持ちだ。
「できれば、男子高校生にとってあんまり敷居が高くないやつで頼む」
「そ、そんなかわいくはしないよ」
彩花はなぜか、不満そうに頬を膨らませた。
(彩花と琴葉の性格的に、女の子っぽいカフェを選ぶとはもともと思ってないんだけど……)
少しだけ、会話が噛み合っていない気がしたが、探してくれるだけでありがたい。
全面的に任せることにして、翔は喉から出かかった言葉を飲み込んだ。
それから程なくして、潤からメッセージが来た。
——お昼のことは聞いたか? 俺たちは飲み物とか準備しよーぜ。
——だな。飲み物は潤、おやつは俺でいいか?
すぐに返すと、送信と同時に既読がつく。
——それでいーぜ。けど、暑さで溶けないやつにしろよ。お昼の前に食べるのは、さすがに失礼だからな。
(潤なら到着した途端に、なんならその道中から食べそうだけどな)
そう思いながら「わかった」と返すと、すぐに再びメッセージが送られてきた。
『お昼、楽しみだな』
潤がわざわざ「ピクニック」ではなく「お昼」と強調したことに、翔はほんのわずかな違和感を覚えた。
(女の子がカフェを選んでくれるから……か?)
だからこそ、おやつを昼食前に食べるのは失礼などと言ってきたのかもしれないが、潤にしては繊細すぎる気もする。
思っているよりも潤がしっかりしていたのか、それとも、翔が気づいていない「何か」があるのだろうか——。
第89話は「名前呼び発表会」です!
学校などでは名字呼びのままと決めた翔君と彩花さんですが、なぜかその情報が漏れていて……?




