第87話 お姫様がチキンレースを開催しています
「あれ、双葉?」
「あ、草薙君」
翔が電車に乗り込むと、扉の向こうに彩花の姿があった。
ずっとそうだったはずなのに、名字で呼び合うことに、少しだけ違和感がある。
「おはよう。文化祭準備?」
「おう。今日も暑いな」
「もうこれが手放せないよ」
彩花が携帯用扇風機を掲げる。
スマホにセットでついてくるのかと思うほど、女子高校生のほとんどが所持しているアイテムだ。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
振動に合わせて、彩花がすっと距離を詰めてきた。そして、涼しい顔で囁く。
「なかなか演技うまいね——翔君」
「お、おいっ」
翔は反射的に周囲を見回した。
「大丈夫だよ。うちの学生っぽい人は近くにいないから」
彩花は涼しげな表情で、扇風機の風を自分の頬に当てている。
その余裕そうな表情が、少しだけ悔しい。
「……チキンレースなら一人でやってくれ」
「相変わらず慎重だね。チキンレースと言うよりはヘタレレースだ」
「それならヘタレースでいいだろ」
「お、とうとう認めたんだ?」
「前から割と認めてたつもりなんだけど」
「確かに」
彩花がおかしそうに肩を震わせる。
(……ヘタレではあっても、チキンにはならないようにしないとな)
翔はそう心の中でつぶやきながら、短く息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「——あれれ、珍しい二人組じゃん」
並んで教室に入ると、近くにいた美波が大袈裟に驚いて見せた。
その背後で、声にならないざわめきが広がり、翔と彩花に注目が集まる。
しかし彩花はそれらの気配を気にするそぶりは見せずに、無言で美波を見据えた。
「ごめんごめん、冗談だって」
美波の口調は軽い。
一ミリも悪いと思ってなさそうなその様子に、彩花はやれやれというように首を振った。
しかし、口元はわずかに弧を描いている。
本当に怒っているわけではないのだろう。
「でも、帰るのはともかく、一緒に来るのは本当に珍しいじゃん。もしかして——」
「違うからな」
翔が即答すると、美波は面白がるように目を細めた。
「おぉ、ここ最近にしては珍しく反応がいいね、草薙君。——何か良いことでもあった?」
「っ……クラスメートと仲直りできたら、嬉しいのは当然だろ」
「まぁね」
美波が片方の口角のみを吊り上げる。
(絶対、言葉通りに受け取ってないよな)
翔は眉を寄せた。
それでも、美波は余裕の表情を崩さない。
むしろ、まっすぐこちらを射抜くその眼差しに、自分自身も把握していない全てを見透かされそうで、翔は思わず顔を背けた。
「たまたま電車で会ったから、一緒に来たんだよ」
彩花が横から口を挟む。
美波は「そっかそっか」と頷いてから、彩花のほうへ歩み寄り、ポンポンと肩を叩いた。
「まあなんにせよ、元通りになってよかったよ。これでまた、遠慮なく二人をおもちゃに……二人と仲良くできるから」
「——こんなこと言いながら、普通に心配してたけどね、二人のこと」
「美波はツンデレの極み」
被せるように茶々を入れてきたのは、案の定、葵と小春だった。
「そりゃ、親友の……ねぇ?」
美波が頬をさすりながら、彩花に向かって眉を上げてみせる。
「……なに」
「えっ、言ってほしいの? じゃあ、遠慮なく——」
「ぜ、絶対ダメ!」
彩花が慌てて美波の口をふさぎにかかる。
「そりゃまあ、言われたくはないよね」
美波は拘束を逃れながら、声を押し殺して笑う。
「そうじゃなくて、美波はすぐに曲解するからダメなのっ」
「えー、洞察力には自信あるんだけどな」
「妄想力の間違いでしょ。草薙君。美波は放っておいて、私たちも動き出そう。文化祭準備のために来たんだから」
「だな」
完全に空気と化していた翔は、素直に従うことにした。
彩花と美波のやり取りの意味を理解するのは、すでに諦めていた。
◇ ◇ ◇
「次、そっちのテープ取ってくれる? 端、少しだけ余らせたいんだ」
「了解」
教室の一角で、翔と彩花は並んで作業をしていた。
一人でやっていたここ数日より、二倍も三倍も捗っている感覚がある。
「これくらいでいいか?」
「うん、ちょうどいい感じ。そしたら、そこ押さえてて」
「俺の得意分野だ」
「絶妙に頼りにならなそう」
彩花の目線は、相変わらず翔の鼻のあたりまでしか登ってこない。
だが、背中を向けられることに比べれば、全然気にならなかった。
「ん?」
彩花の指示通りに動きながら、翔はふと、横顔に何かが刺さったような感覚を覚えた。
振り向くと、そこにいた男子——将暉は、すぐに手元の作業を再開した。
(……なんか、睨まれてた?)
もともと仲良くしていたわけではないが、ただ関わりがなかっただけで、特にいがみ合っていたわけでもない。
だが、最近は彼の雰囲気が少し鋭いような気がする。
(……でも、俺がどうにかできるもんでもないよな)
それに、これくらいは甘んじて受け入れるべき立場であることは承知している。
「……さて」
小さく気合いを入れ直し、作業を再開すると、美波がスッと寄ってきて、
「草薙君、精が入ってるね。何か良いことでも——」
「美波、うるさい」
「反応早すぎるでしょ」
唐突に飛んできた彩花の声に、美波が肩をすくめた。
そして翔に、ぱちっとウインクを向けてくる。
「……なんだ?」
「ううん、なんでもー」
そうは見えなかったが、美波は話を切り上げるように、「よし、終わった!」と立ち上がった。
「ほら、葵と小春も、作業に戻った戻った」
「はいはーい」
「しゃーなし」
美波に促されると、葵と小春は素直に持ち場に帰っていった。
(意外と従順なんだよな)
さっきももう少しツンデレで美波を揶揄うかと思ったが、あっさり引いていた。葵と小春なりの距離感があるのだろう。
美波と近しい二人が従ったおかげか、他の人もそれぞれ作業に戻り、翔と彩花に対する注目は徐々に薄れていった。
◇ ◇ ◇
「双葉、重りを固定するピンが一本足りないんだけど、どっか別のところに……双葉?」
双葉家のホームジムで、翔は首を傾げた。
彩花は無言のままトレーニングを続けているが、イヤホンをしているわけではない。
「双葉、どうし……あっ」
翔は言葉を切った。これはおそらく——
「……彩花」
呼び直した途端、彩花はトレーニングをやめた。
ガチャン、という金属音が響く。
「復習が足りないみたいだね。この後、場合分けの練習しよっか」
「ごめんって」
学校などでは、面倒を避けたいからという理由で、名字呼びを継続することで意見が一致した。
その影響で、自然と二人きりでも名字で呼んでしまったわけだが、このシステムなら早急に慣れる必要がありそうだ。
(というか、決めた呼び方じゃないと反応しないって、あだ名を気に入った子供みたいだな)
思わず頬が緩む。
彩花としてはただふざけているだけだろうが、子供っぽいことに変わりはない。
「翔君、何か言いたいことある?」
「い、いや、これからは気をつけようって思っただけだよ」
「よろしい」
彩花が腕を組み、大きくうなずく。
「それで、重りを止めるピンだっけ?」
「そう。ここには一本しかなくてさ」
「私が間違えて入れちゃったかも……あ、あった」
彩花が一つ隣の器具からピンを持ってくる。
「これの後に使うことが多いからさ。間違えて、持っていっちゃってたみたい」
「おう、サンキュー」
受け取って器具に戻る。
しかし、彩花はなぜかその場から立ち去らない。
「……どうした?」
「私はちょうどセット終わったから、久しぶりに見てあげようと思って」
彩花が尊大に腕を組む。
翔は考え込むように、顎に手を当てた。
「確かに、最近はなぜか全くチェックしてくれてなかったもんな」
「私、今度はピンじゃなくて、二十キロの重りを持ってきちゃうかも」
「一週間はペンを握れなくなりそうだからやめてくれ」
「それは困るね。今日は、前回の分までみっちりしごいてあげるつもりだから」
覚悟しててね、と言い残し、彩花は別の器具へ移っていった。
トレーニングを見てあげる、というのはただの冗談だったようだ。
前回——二日前の勉強会を「家の用事」とすっぽかされたことをなじってみようかという考えが、翔の頭に浮かぶ。
だが、これ以上は普通に嫌な奴になってしまうだろう。主体的になるのとデリカシーがないのは、また別の話だ。
「距離感、しっかり測っていかないとな」
翔はひとりそうつぶやくと、胸を張るようにして、頭上のバーを一気に引き下ろした。
◇ ◇ ◇
「はい、お疲れ様——草薙君」
トレーニングの後、彩花がわざとらしいくらい丁寧に名字で呼びながら、シェイカーを手渡してきた。
「もう間違えないから」
翔は苦笑しつつ受け取り、いつも通り蓋を開けた。
次の瞬間——
「……えっ?」
蓋をベンチに置くことも忘れて、翔はその場に固まった。
その視線の先では、容器いっぱいの緑色の液体が、たぷたぷ揺れていた。
第88話は「お姫様のプチパニックと、ピクニック前の違和感」です!
シェイカーの中身、ぜひ予想してみてください!




