第84話 お姫様とのデュエットと、親友の彼女からの提案
「お待たせー」
勢いよくドアが開いて、琴葉が軽やかな足取りで個室に戻ってきた。
そのすぐ後ろから、彩花がそっと姿を見せる。
トイレに行っていた数分間で、なぜか借りてきた猫のようになっていた。
頬も、ほんのりと色づいている。
(……まさか、トイレでイタズラはしないよな)
翔は浮かびかけた思考を、慌てて首を振って追い出した。
彩花はうつむいたまま、翔の隣に座った。
さっきまでと比べると、ほんの数センチだけ、距離が遠い気がする。
まさか、今の思考を読まれたわけではないだろう——。
そう考えつつも、体の奥がじわじわと熱を持ち始める。
「潤。デュエットしない?」
「お、いいぜ」
琴葉の誘いは唐突だったが、潤はすぐに応じて、二人でデンモクを操作し始めた。
触れ合わせた肩から、自然と甘さが漏れ出している。それを見て、彩花がますます身を縮こまらせた。
選ばれたのは、いかにもカップル向けなラブソングだった。
潤は細かくビブラートを効かせ、琴葉もフェイクを入れている。
(統一感も何も、あったものじゃないな)
カップルがラブソングをデュエットしているのに、それぞれがあまりにも好き勝手に楽しんで歌っていて、甘い空気はあまり出ていない。
それにも関わらず、隣の彩花は、小さくなったままだ。
膝の上で握りしめられた指先にも、ほんの少し余計な力が入っているように見える。
(……俺が耐性つけさせられただけで、双葉には刺激が強いのか?)
そう推測してみるものの、確信はない。
翔は首をひねりながら、画面の端に表示されていく採点バーをぼんやりと眺めた。
曲が終わると同時に、得点が派手なエフェクトとともに表示される。
潤と翔より四点、彩花と琴葉よりも二点低かった。
「ちょ、一番低いじゃん。潤、ちゃんとしてよ」
「お前が好き勝手にフェイクとか入れるからじゃね?」
「そうとも言う——じゃあ、はい、彩花」
「翔も、ほれ」
琴葉が不意に彩花にマイクを渡すのと同時に、潤も翔にマイクを押しつけてきた。
「……え?」
翔は反射的に受け取ってしまいながら、間の抜けた声を漏らした。
「さ、次は二人の番だよ!」
琴葉は当然のように言い切ると、デンモクを翔の前に移動させた。
(発声練習とストレッチをしておけっていうのは、やっぱりこういうことだったのか……)
翔は内心で苦々しくつぶやいた。
とはいえ、断るのも彩花に失礼な気がして、
「双葉、どうする?」
「——翔」
「あっ、ハイ」
何気なく問いを口にしたところで、琴葉に鋭く名前を呼ばれた。
翔は反射的に背筋を伸ばした。
「翔はどうしたいの?」
まずは自分の意見を表明しろ、ということだろう。
「あー、そうだな……」
翔も男だ。彩花とデュエットしたい気持ちは、もちろんある。
けど、絶対じゃないし、一緒に歌っている姿を想像すると、胸のあたりがむずむずしてくる。
(……初めて女の子とデュエットするんだから、緊張しないほうが変なんだろうけど)
香澄はそもそも歌うこと自体を恥ずかしがっていたから、女の子とカラオケに来た回数なんて、片手で数えられる。
その点、彩花は美波ともほとんど来ないと言っていたので、翔以上に抵抗があってもおかしくはない。
また変に拗れたりしたらいやだし、今回はやめておくのが無難だろうか。
そう結論づけかけたところで、肌がヒリつくような感覚を覚えた。
琴葉の瞳孔を見開かんばかりの瞳が、こちらに向けられていた。
歌え——。その無言の圧力は、さすがの翔にも伝わってきた。
(……一応、あんな宣言した後だし、琴葉がここまで推すなら、大丈夫だよな)
翔は小さく息を吸い込み、デンモクを彩花のほうへと向けた。
「双葉。その……せっかくだし、一曲だけ歌わないか?」
「っ……」
彩花が息を詰め、パチパチと瞬きをした。
けれどすぐに、いつもの澄ました顔つきに戻って、
「そうだね。二人のも聞かせてもらったわけだし」
とりあえず、嫌がられてはいないようだ。
翔は、胸の奥に溜まっていた空気をそっと外に押し出した。
そこまでビクビクする必要はないと、頭ではわかっている。
ただ、どれだけ主体的になろうと決めたところで、それですぐに自信がつくわけじゃないのだ。
順調だと思っていたのは、自分だけだった——。
そんな滑稽な状況が現実に起こり得ることを、翔は身を持って体験しているのだから。
琴葉が親指をぐっと立ててくる。
よくやった、という副音声が聞こえてきた気がして、翔は苦笑した。
「どれ歌う?」
唐突に、彩花が距離を詰めてきた。
衣服が擦れ合いそうな距離で、デンモクの画面を覗き込む。
「えっと、そうだな……これなんか、どうだ?」
翔は指で画面を示してから、アイドル曲を選んだことに気づいたが、
「いいじゃん。音域もそんな広くないし、男女関係なく歌えそう」
彩花はあまり気負った様子もなく同意した。
アイドルとは言っても、二人組の男性だったからだろう。
「じゃあ、これにしよう」
楽曲を予約すると、潤と琴葉が「あ、これ知ってるぜ」「古き良き時代だ」と声を上げた。
背景は、どうやら十周年記念のライブの映像らしい。
そんなに豪華なものを流されても、歌うほうが少し恐縮してしまう。
「最初は草薙君から歌ってよ。男性の曲だし」
「歌詞は女性目線だけどな」
「そういうのいいから、お願い」
「わかったよ」
幸い、いきなり歌唱が始まるタイプではない。
丁寧に入れば、大きなミスはしないだろう。
「マイクの電源、ちゃんと入ってる?」
「入れないと過去最高点取れるって聞いたけど」
「ねぇ」
「大丈夫。もう入れてるよ」
翔は緑色に輝いている電源を示して見せた。
◇ ◇ ◇
(こんなの、直前まで渋ってたコンビだなんて、知らなきゃ誰にもわからないでしょ)
それが、翔と彩花のデュエットを前にした、琴葉の正直な感想だった。
二人は基本的に、画面の歌詞を追いながら歌っている。
それでも、サビ前やブレスのタイミングで、ふっと視線を交差させる瞬間があった。
おそらく、リズムやテンポの確認なのだろう。
でも、琴葉には、とてもそれだけには見えなかった。
「なぁ、琴葉」
「なに?」
「双葉の声、お前と歌ってたときより少し高くね?」
「やっぱり、潤もそう思う?」
気のせいかと思っていたが、感覚派の正統継承者である潤までそう感じているなら、琴葉の妄想というわけでもなさそうだ。
音程が上にずれてしまうほどではないものの、より女の子らしい声色、と言えばいいだろうか。
(緊張してるだけなのか、それとも……)
琴葉はふふ、と吐息を漏らした。
潤に怪訝そうな眼差しを向けられ、慌てて緩んでいた頬を引き締める。
いわゆるかわいげのある彼女でないことは自覚しているが、それでも気持ち悪いとは思われたくない。
「というかさ。私たち、付き合う前にお互いの曲の好みなんて知ってたっけ」
「いや、その場で確認した記憶あるぞ」
「だよね」
潤と短く笑い合いながら、琴葉はサビの入りに合わせて手拍子の音を大きくした。
背中を押されるように、翔と彩花の声も少しだけ大きくなる。
本当に、うまくいってよかった——。
琴葉の中に、自然とそんな思いが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
(なんとか、事故なく歌いきったな)
最後のロングトーンを歌い切ると、翔はふっと息を吐いた。
息切れよりも安堵の側面が強いことは、自分でもわかっていた。
「これ、結構行ったんじゃない?」
「めっちゃ良かったぜ!」
琴葉と潤の声が飛んできた。
翔は隣に顔を向けて、ニヤリと口角を上げた。
「今度は歌詞間違えなかったもんな」
「草薙君のほうこそ、一箇所ちょっと怪しかったけどね」
「なんとか乗り切ったから」
翔は肩をすくめつつ、彩花の表情がさっきよりずっとほぐれていることに気づいた。
(……まあ、楽しんでくれたならよかった)
翔が意識を画面に戻したところで、ちょうど得点が表示された。
翔と潤の、一点下——四ペア中、上から二番目だった。
「え、めっちゃたけーじゃん!」
「同じ男女ペアなのに、私と潤より三点も高いねぇ」
潤が称賛するように拍手をする傍らで、琴葉が意味ありげに眉を動かした。
「お前らは好き勝手歌ってたからだろ。俺と双葉は、ちゃんとお互い合わせようとしてたから」
「確かに、ラスサビのロングトーンもアイコンタクトしてたもんね?」
「あれは誰でもそうするだろ」
「うん。入りが合わないと変になっちゃうし」
翔の反論に、すぐに彩花も同調した。
「なるほど。その感性の相性が、現役カップルを超える秘訣か」
「い、いや、精密とはいえ機械の採点なんだし、私たちのほうが上ってことにはならないと思うけど」
しみじみとうなずく琴葉に、彩花が慌てたように言葉を重ねた。
「そうだね。けど、私とよりも翔とのほうが点数が高いのは、ちょっと気になるなぁ」
琴葉がすっと立ち上がって、彩花の隣まで歩いてくる。
そして、先輩が後輩にダル絡みをするときのように、肩に腕を回した。
「どっちともハジメテなのに、ここまで差がついたってことは、私よりも翔との相性が良かったのかな?」
「へ、変な言い方しないでっ」
彩花が声を裏返らせた。
マイクを抱きながら耳の先まで赤くなっている様子を見て、琴葉がニマニマと笑みを深める。
年齢と性別が異なれば、社会的に断罪されても文句は言えない表情だ。
逆に彼女ならば、「私って中身『おっさんなんですよ』」と自己紹介をしても許されるだろう。
◇ ◇ ◇
「そういえば、翔ってさ。この四人の中で、彩花だけ苗字呼びなんだね」
二巡ほどしたところで、琴葉がふと思い出したように口を開いた。
「そうだけど」
「前から、なんか違和感はあったんだよね。——せっかく仲直りしたんだし、いっそのこと、名前で呼んじゃえば?」
「「えっ……」」
翔と彩花の声が、ぴったり重なる。
一瞬だけ目を合わせて、同時に逸らした。
名前で呼び合ったこと自体は、ないわけじゃない。
けれど、それはあくまでおふざけの延長線上だった。
(いや、それよりも——)
「それを言うなら、潤も同じ状況だろ」
「彼氏に、こんなかわいい子と名前呼びなんて、させたくないよ」
「そういうもんか?」
当の彼氏である潤が、いまいちピンと来ていない様子で首をかしげる。
「それはそうか」
翔としては、理解できる感覚だった。
潤と彩花の間で何かが起きると疑っているわけではなく、感情の問題なのだろう。
「でも、それなら俺だけってわけでもないんだし、このままでいいだろ。琴葉とは最初からそうだっただけだし、今更わざわざ変える必要もないと思う」
「そう? まあ、二人がいいならそれでいいよ。——けど、そんなきっぱり言わなくてもいいよねぇ?」
琴葉が抱きしめるように、彩花に身を寄せた。
「いや、私は気にしてないけど……」
されるがままになりながらつぶやく彩花の視線は、翔のほうを向いていない。
翔はテーブルの脚を、靴の先でつついた。
「……少なくとも、琴葉に言われるがままじゃ、な」
第85話は「お姫様との三度目の正直」です!
これまでに二度あって、それでも実現には至らなかったアレが、ついに……というエピソードです!




