第79話 お姫様が視線を合わせてくれません
その日、翔は登校にしては少し遅い時間帯に、学校に向かっていた。
夏休み後に開催される、文化祭の準備のためだ。
「暑いな……」
潤が「太陽が俺らの夏休みを祝福してくれているんだ」なんて、珍しく詩的なことを言っていた。
もしも校長になったら、運動会の開会式で活躍するだろう。
「祝福なんていらないから、もう少しだけ大人しくしててほしいんだけどな……」
独りごちながら、翔は水筒のキャップを開けて傾けた。
冷たい水が喉を滑り落ちていく心地よい感覚を味わっていると、
「ほら、早く言っちゃいなよ!」
背後から、女子の弾んだ声が飛び込んできた。
「進展があった、だけで引くほど、ウチらはリア充に優しくないからね!」
そうだそうだ、という声が上がる。
その輪の中心に閉じ込められている少女は、真っ赤になりながら、たどたどしく口を開いた。
「あのね、実は……昨日、初めて彼氏と、か……間接キス、しちゃったの」
「「「……え、えー⁉︎」」」
友達数人が、一斉に歓声を上げる中、
「っ……ごほっ、ごほっ……!」
翔は一人、盛大にむせた。
変な方向に入った水が気管を刺激する。咳き込みながら、慌てて口元を手の甲でぬぐった。
「ど、どういうシチュだったの⁉︎」
「映画を見てるときにね、一口ちょうだいって、サラッとストローに……なんも言ってなかったけど、気づいてないのかな」
「いや、絶対わざとだって!」
「彼氏さん、意外とヤるねぇ」
ボリュームはさして変わっていないはずなのに、少女たちの声が遠のく。
その代わりに、やけに甘ったるかったアイスの味と、スプーンのひんやりとした感触が、翔の舌に蘇った。
(……いや、昨日のは故意じゃないし、さすがにノーカウントだろ)
ペットボトルを握り直すと、それまでよりも少しだけ強く地面を踏みしめ、翔は足早に歩き出した。
◇ ◇ ◇
「っ……」
クラスに足を踏み入れた瞬間、足が止まる。
自分に突き刺さる視線を感じたのだ。それも、教室のあちこちから。
こちらを窺っているのは、主に男子のようだ。
特に、翔が入った扉付近で作業をしていた園田将暉は、その距離の近さゆえではあるのだろうが、メガネの奥から鋭い眼差しを向けてきている気がした。
(……双葉と一緒に帰っていることが広まったときに、似てるな)
背中を伝う汗が、急速に冷えていく。
あのときほどの緊張は覚えないが、気分の良いものではない。
彩花なら何か知っているかもしれない。そう思って、翔はそちらに顔を向けた。
そして、視線が交差した瞬間——彼女はサッと顔を背けた。
「……えっ?」
翔は目を瞬かせた。
(な、なんで?)
確かに、昨日の帰りは少しよそよそしかった。
だが、あんなことがあった直後だ。気まずくなるのは普通だと思う。
むしろ、ケロッとされたほうが、男のプライドが傷ついてたかもしれない。
——それでも、ここまで露骨ではなかったはずだ。
「草薙君、ちょっと退いてもらっていい?」
「……あ、悪い」
背後から声をかけられて、翔はようやく、自分が扉のところで突っ立ったままだったことに気づいた。
慌てて横にずれると、段ボール箱を抱えた女子が「ごめんね」と会釈して、通り過ぎていく。
その間に、彩花は体の向きを変えていた。
翔の視界に映っているのは、うっすら水色がかった、涼しげな夏服の背中のみだ。
こちらから気を逸らそうとしているのか、ただ作業に集中しているだけなのか、翔には判断がつかなかった。
ただ、なんとなく、今は話しかけないほうがいいような気がした。
(……でも、困ったな)
潤や美波だけではなく、葵と小春ですらも姿が見えない以上、彩花以外に事情を尋ねるべき相手はいない。
こういう消極性が、『双葉と筋トレ』か『双葉と勉強』、『双葉と筋トレと勉強』という三つの項目ばかりのカレンダーを生み出しているのだろう。
だが、今回ばかりはあまり良くない注目のされ方をしているようなので、仕方がない。
(……解決策がないんじゃ、気にしても仕方ないよな)
翔は小さく息を吐き、菜々子のほうへ歩き出した。
文化祭準備のことなら、実行委員、それもそのトップに聞くのが一番早い。
彼女はどう見ても「仕切るタイプ」には思えなかったが、委員内のじゃんけんで負け続けた結果だと聞いて、妙に納得してしまったのを覚えている。
それが気に食わなかったのか、菜々子はその場でじゃんけんを挑んできた。
結果は、翔の三戦全敗だった。
『今からでも遅くありません。草薙君も一緒に委員をやりましょう。そして、委員長決めからやり直すんです』
そのときの彼女は、いつになく饒舌だった。
らしくない冗談めいた提案に、翔は苦笑するしかなかったが、その必死さだけは妙に記憶に残っている。
「蓮見、俺、何すればいい?」
「えっ? あ、えっと……」
プリントに目を落としていた菜々子は、翔の姿を認めると、途端に瞳を泳がせた。
(なんだ……?)
オドオドしていること自体はいつも通りだが、どこかそれだけではないような気がする。
「じゃ、じゃあ……とりあえず、付いてきてください。その、材料がこっちなので」
「ああ、わかった」
言われるままについていくと、廊下の端の空き教室へと案内された。
扉が閉まると、少しだけ外の喧騒が遠ざかり、空気が重くなるのを感じた。
菜々子は、教室の真ん中まで歩いていったところで足を止めた。
どう切り出すか迷っているのが、横顔からでも伝わってくる。
「蓮見、どうした?」
「あ、そ、それは、その……」
痺れを切らして問いかけると、菜々子はきゅっと唇を噛みしめ、まつ毛を伏せた。
「何か、大変な作業なのか?」
「い、いえ、そのことではなくて、あ、あのっ……」
プリントを握りしめるその指先に、力が入る。
彼女は一度、深く息を吸い込んだ。
——そして、意を決したように、真正面から翔を見据えて、
「草薙君って……双葉さんと、付き合ってるんですか?」
「……は?」
翔は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
(付き合ってる? 俺と、双葉が?)
「ちょ、ちょっと待て。なんでいきなり、そんな話に?」
「えっと、昨日、お二人が映画館で、その、手を繋いでたとか……し、身体接触をしていた、とか……そういうのを見た人が、何人かいて」
「っ……」
予想外の答えに、翔は言葉を詰まらせた。
まさか、こんなすぐに噂になるとは思っていなかった。
が、すぐに首を振る。
もちろん、横に。
「手を繋いだりはしてないよ。映画を観に行ったのは事実だけど、双葉の弟君のお守りみたいなもんだったし」
接触自体は確かにあったが、みんなが考えてるようなものではない。
嘘は吐いていないだろう。
(けど、これで睨まれてた理由はわかった)
最近の彩花は、教室でも少しずつ「お姫様モード」を崩すことが増えている。
その影響で親しみやすく感じられるのか、遠巻きに見ているだけだったクラスメイトが、彼女に話しかける姿がちらほら見られるようになった。
将暉が、その筆頭と言えるかもしれない。
そんな中で、「彩花と一緒に映画を観に行った」「身体接触をしていた」なんてフレーズだけが一人歩きすれば、注目を集めてしまうのは、ある意味当然だったのだろう。
「それは……手を繋いだりとかはしてないけど、付き合ってはいる……ということですか?」
菜々子が、遠慮がちに尋ねてくる。
「ううん、付き合ってもないよ。さっきも言ったけど、弟君のお守りみたいなものだったから」
「あ、そうなんですか……でも、付き合ってもないのに、同級生の女の子の弟さんを交えて三人で遊ぶことなんて、あるんですか?」
納得できなかったようで、菜々子は質問を畳み掛けてきた。
(珍しいな……蓮見が、ここまで食い下がるの)
どこか圧のようなものも感じる。
色恋沙汰が好物、というわけではなさそうだが、彼女らしくないのは事実だ。
(念のため、誤魔化すか? けど、別にやましいことがあるわけじゃないしな)
それに、菜々子は無闇に噂を吹聴するタイプではないだろうし、変に隠したほうが、余計に誤解されそうな気もする。
ここは、素直に話してしまったほうが得策だろう。
「そもそも双葉と話すようになったのが、弟君を助けたからなんだよ。それでけっこう懐いてくれてさ。今回の映画も、弟君からのお誘いなんだ」
今度は正真正銘、真実だ。
弓弦が懐いてくれていなければ、今ほど彩花と親しくはなれなかっただろうし、今回の映画だって、彼の提案で実現したものだ。
「——そんな偶然、あるんですね」
菜々子がぽつりとそう漏らした。
その瞬間、翔は教室の温度が少し低下したように感じられた。
「っ、いや、まあ……」
悪いことをしているわけでもないのに、誤魔化しの言葉が口をついて出る。
すると、菜々子がハッと口元を抑えた。
「あっ、い、いえっ、そのっ……悪い意味とかじゃなくて! 本当に、そんなことがあるんだなって、びっくりしただけです! じゃ、じゃあ——草薙君にお願いしたいことを説明しちゃいますねっ」
「お、おう」
切り替えの早さに若干置いていかれつつも、翔はうなずいた。
「まず、これを教室に持って行ってもらって——」
菜々子がプリントを見ながら、壁に立てかけられている段ボールを指差す。どうやら、壁の設営が翔の仕事らしい。
翔たちのクラスの出し物は、お化け屋敷だ。夏休み前に行われた投票で決まった。
美波がさりげなく提案したメイドカフェには、票はあまり入らなかった。
匿名投票ではないので、男女ともに、恥ずかしさがあったのだろう。
「……という感じですが、大丈夫そうですか?」
一通り話し終えると、菜々子はプリントを胸に抱きかかえ、丸縁のメガネをこちらに向けた。
「おう。大丈夫だ」
「では、私は急いで戻らなきゃなので……あとはよろしくお願いしますっ」
「了解」
翔の返事を聞くと、菜々子はぺこりと頭を下げて、足早に教室を出て行った。
「……やっぱ、どこか距離あるんだよな」
翔は肩をすくめながら、段ボールを脇に抱えた。
そして、教室に戻ると——
「双葉さん。大丈夫?」
教室の窓際の一角で、将暉が膝を屈めるように、彩花に話しかけているところだった。
第80話は、「親友とその彼女の暗躍」です!
翔君と彩花さんは、無事に仲直りができるのでしょうか……




