第73話 お姫様の怒りと不安
「こんなの、絶対おかしいよ——」
彩花が苛立たしげに、ジムのベンチに広げた翔の成績表を指ではじいた。
「篠原さんが四で、二回とも篠原さんよりも点数を取ってた草薙君が三なんて、筋が通らないよ。内申点は受験にも直接響くのに……こんなことしてるから嫌われるって、気づかないのかな」
喉の奥で押し殺すようにそう吐き捨て、彩花は思いきり顔をしかめた。
(すごいな。それでも美人だ)
翔が場違いな感心をしていると、彩花の鋭い眼差しがこちらを射抜く。
翔は慌てて表情を引き締めた。
「草薙君。せめて理由を聞きに行ったほうがいいよ。私も付いていくから」
「気持ちは嬉しいけど、やめておくよ。遠藤にとっては俺のほうが不真面目に見えてたって言われたら、それまでだから」
「でも、草薙君は一回も遅刻してないし、提出物だってちゃんと出してたでしょ。篠原さんを悪く言うつもりは全くないけど、彼女よりも草薙君のほうが評価が低いのは納得できないよ」
「まあな」
それは翔も同意見だし、翔だけではない。
葵本人や小春ですら、「ウケるんだけど」「笑えないレベル」と評していたし、美波も「スキャンダルだ」と眉をひそめていた。
「けど、結果は変えられない以上、気にするだけ損だから」
「それは、そうかもだけど……じゃあ、どうするの?」
「決まってるよ。提出物とか発言もそうだし、発表とかもしっかり準備して、評価せざるを得ないくらいの点を取る」
「……大人だね」
彩花が小さくつぶやきながら、再び翔の成績表を指ではじく。
威力は先程よりもずっと弱い。
「そうやって、双葉が怒ってくれるからだよ」
「……えっ?」
「俺も、完全に切り替えられてはないよ。普通にむかついたし。だけど、自分じゃどうしようもない部分だし、何よりもさ」
そこで言葉を切り、困惑したような表情の彩花に正面から向き直る。
鼓動がわずかに早まるのを感じながら、それでも、これから伝える言葉に想いをのせるように、翔は笑みを浮かべた。
「——遠藤よりもずっと近くで見てくれてた先生が評価してくれるなら、それでいいかなって」
「っ……!」
彩花の肩が、ぴくりと跳ねた。
彼女は頬を赤らめながら、慌てたように顔を背けた。
「……先生じゃなくて、プロデューサーだから」
「はは、そうだな」
翔が肩を揺らすと、間髪入れずに拳で突かれた。
「いたっ、なんでだよ?」
「なんかむかついた」
「プロデューサーはプロデューサーで、理不尽なんだよな——ごめんって」
伸びてきた手首を軽く掴んで受け止めると、彩花はふん、と翔の腕を払った。
そして、更衣室の扉の向こうへ消えた——が、すぐに小走りで戻ってくる。
何事かと思っていると、ベンチに置いていた袋に手を伸ばした。
手ぶらで更衣室に行こうとしていたらしい。
袋を抱える彼女の顔は真っ赤だ。
「……ぷっ」
翔は腹の底から込み上げる笑いを堪えきれず、噴き出した。
「っ……このあと、覚悟しなよ」
彩花は潤んだ目元で翔を睨みつけると、バタン、と大きな音を立てて扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
「よし、ラスト!」
「くっ……」
翔は、胸のすぐ上で止めたバーを、背中の筋肉まで使って押し上げた。
そして、ラックに戻そうとした瞬間——
「もう一回!」
「はっ⁉︎ うぐっ……!」
反射で再び下ろしてしまった。腕と胸が悲鳴を上げる。
呼吸を絞り出しながら、なんとか押し切った。
「ベンチプレス、おかわり!」
「おかしいだろ……!」
歯を食いしばりながら、ヤケクソで腕を伸ばし切る。
「ほら、もう一回——」
「無理!」
翔は叫びながら、最後の力を振り絞り、ラックにバーを残した。
ガチャン、という金属音を聞きながら、ベンチに背中を預けて胸を大きく上下させる。
「仕方ないなぁ。合格にしてあげよう」
「……俺と双葉で、ラストの定義が違う気がするんだけど」
「理不尽に耐えることで、人は強くなるんだよ」
彩花はどこかスッキリした顔をしている。
先程の仕返しなのかもしれない。
(あれは単に双葉がおっちょこちょいだっただけなのに)
まさに理不尽である。
「まあ……なんだかんだでできたってことは、今後はこれを基準にするべきだよな」
「えっ——」
仰向けのまま、独り言のようにつぶやくと、彩花が息を呑む気配がした。
顔だけをそちらに向ける。
「双葉、どうした?」
「いや、前までの草薙君なら絶対そんなこと言わなかったからさ。強くなったな、って」
「ま、数多の理不尽に耐え抜いてきたからな」
「っ——」
翔がニヤリ、と口の端を持ち上げてみせると、彩花はハッと目を見開いた。
かと思えば、膝の上で拳を握りしめ、うつむいてしまう。
(えっ、なんで?)
翔としては、話の流れを汲んだ軽い冗談のつもりだったので、その反応に戸惑った。
「双葉、どうし——」
「ねぇ」
張り詰めた声に遮られる。
翔は思わず起き上がり、背筋を伸ばした。
「正直に答えてほしいんだけど……これまで、私といて嫌だなって思うこと、あった?」
「えっと……急にどうした?」
翔は首をひねった。なぜ、突然そのような話に飛躍したのだろう。
「ほ、ほら……私って、たまに調子に乗っちゃうときとか、あるじゃん」
「ああ。確かに、謎にテンション上がるよな」
他にも、理由もわからずに不機嫌になっていたり、かと思えば気づくと元気になっているときもあった。
面倒とまでは思わないが、何度も振り回されたのは確かだ。
「な、謎には余計だけど……筋トレもそうだし、買い物とか髪型も、無理やり決めさせちゃったりとかしたから……嫌じゃなかったのかな、って」
「ああ……なんだ。そんなこと気にしてたのか」
翔は思わず、詰めていた息を吐き出した。
「そ、そんなことって……私は、真剣に聞いてるんだけど」
口調こそ強いが、こちらを伺う瞳は、不安定に揺れている。
翔は目元を和らげ、ゆっくり首を振った。
「嫌じゃなかったよ、全部」
「……ほんとに?」
彩花が眉を寄せる。納得していないようだ。
『ダメだよ。ちゃんと言葉で伝えないと、伝わるものも伝わらないんだから』
脳裏に、彩花に言われた言葉が浮かんだ。
翔はそっと呼吸を整えた。
「正直に言うと、買い物とかに関しては、もちろんプレッシャーを感じるよ」
「っ……」
彩花の肩がぴくっと震えた。
翔はすぐに「けど」と続けた。
「頼ってくれるのは嬉しいし、筋トレも自分の成長に繋がるから従ってるだけ。双葉も本当の無理は言わないしな。——だから、双葉といて嫌だったことなんて、一回もないよ」
「っ……なら、いいけど」
彩花は手元をいじりながら、小さな声で答えた。
耳先が、ほんのり火照っているように見える。
(ちゃんと伝わった……って、ことだよな)
翔の顔にも、じわっと熱が集まる。
「……前にも言ったと思うけど、なんでそっちが恥ずかしがるの」
彩花がちらっとこちらを見て、じっとりした視線を送ってきた。
「うるさい。それを言うならそっちこそ、前に香澄と会ったとき、マジで感謝してるって伝えたと思うんだけど」
「そ、そうだけど……それとはまた別じゃん」
そこまで気にしてくれていた、ということなのだろう。
翔の胸の奥が、ぽっと温かくなった。
「最近の双葉、ちょっと丸くなったよな」
「——よし、もうワンレップ行こうか」
「マジで勘弁してください」
反射で頭を下げると、彩花がくすっと息を漏らした。
「って、く、草薙君っ!」
「ど、どうした?」
焦った声を上げる彩花に、翔は身構えた。
まさか、他にも何か不安に思っているのか——
「丸くなったって……体型の話じゃないよね?」
「そんなわけないだろ」
全身から力が抜けて、翔はベンチに倒れ込んだ。
——数十分後。
「それでは、第一回・新ヘアスタイル挑戦会を始めます」
彩花がワックスを手にすり込みながら、洗面台の前の椅子に座る翔の背後に立った。
口調こそ畏まっているが、声は弾んでいる。
『この後、家に帰るだけだもんね?』
シャワーを浴びる前の、悪巧みをする子供のような彩花の表情が脳裏に浮かび上がった。
一体どんな髪型にされるのか、翔は不安で仕方がなかった。
(……さすがに、コーンロウにされることはないだろ)
翔君(の髪型)は大丈夫なのでしょうか……




