第72話 お姫様に「脱げ」と命じられた
「あ、草薙君。もう行く?」
ホームルームが終わり、リュックを背負って彩花のほうへ向かうと、彩花はファイルをカバンに押し込みながら、勢いよく立ち上がった。
らしくない雑な所作だが、翔に焦らせるつもりはなかった。
「おう。けど、まずはちゃんとカバンを閉めたほうがいいぞ」
「えっ? あっ……」
口が開き、中身が丸見えになっていた。彩花の顔に朱色が差す。
彼女は慌ててファスナーに指をかけたが、詰め込みすぎたファイルが邪魔をして、手間取っている。
「急がなくていいから」
「わ、わかってるよ」
彩花が憮然と荷物を入れ直している間に、翔は前の席に声をかけた。
「蓮見」
「あ、は、はいっ。なんでしょう?」
菜々子が小さく跳ねるように顔を上げる。
「驚かせてごめん。今朝のお礼が言いたくてさ」
「い、いえっ、私もちょうど結愛ちゃんに用事があったので、気にしないでください」
そうは見えなかったが、そこを追求するのは野暮というものだろう。
「それでも助かったよ。ありがとな」
軽く頭を下げて踵を返しかけたところで——
「おっ、けっこう変わったねぇ」
「……内海?」
翔は振り返り、意外感を覚えた。
「久しぶりだね、草薙」
そう言ってひょいっと片手を上げたのは、ちょうど話題に上っていた内海結愛だった。
「久しぶり。ホームルームは終わったのか?」
「もち。それにしても、イメチェンしたとは菜々子から聞いてたけど——」
結愛が顎に手を当てて、評論家のようにまじまじと翔を観察した。
「うん、なかなか似合ってるじゃん。これは、いわゆるギャップ萌えが起きると想定します」
「髪型ひとつで大袈裟だな」
登校したときも、特に注目を集めることはなかった。
明らかに短くなった彩花が登校したときですら、軽くざわめく程度だったのだから、当然だ。
「いやいや、マジで雰囲気変わってるよ。ね、菜々子?」
「わ、私っ? あ、あのっ……はい、似合ってます!」
唐突に振られて、菜々子の瞳が泳ぐ。
「蓮見に無理やり言わせるな」
「無理やりじゃないよ。ねー、菜々子?」
「は、はい。本当に前回よりも、その、さ、爽やかになってると思いますっ」
菜々子の声は上ずっていた。
無理をしているのは明らかだ。
「そっか。ありがとな」
翔はあえて正面から受け止めた。
これ以上は菜々子を困らせてしまうだろうし、彩花を待たせたくない。
翔は、彩花にちらっと視線を向けた。
すると、結愛はすぐその意味に気づいたようだ。
「あれ、双葉さんと帰るところだった?」
「習い事が一緒だからさ」
「そういえば、そんな話を聞いたな。ごめんね、足止めしちゃって。草薙は可及的速やかに返却するよ」
「えっと……どうも?」
トロフィーを贈呈するように手のひらを差し出され、彩花は困惑したように首を傾げた。
「おい、人をモノのように扱うな」
「あはは。じゃ、お邪魔しましたー」
結愛は笑い声で翔の抗議を受け流すと、軽やかな足取りで去っていった。
「あの子、前からの知り合いなの?」
教室を出ながら、彩花が尋ねてきた。
「そう、内海結愛。中学から一緒なんだ」
「同級生か。道理で仲良いと思った」
「そんなに個人的な絡みはなかったけどな」
中学時代から、今回のように、菜々子も交えて三人で話すことがほとんどだった。
「そっか……でも、髪型を褒められてたじゃん。さっぱりしてモテモテだね」
「いや、あれは完全に冷やかしだろ」
「そうかな? 私も似合ってると思うけど」
「っ……そりゃ、どうも」
不意の褒め言葉に、翔は言葉を詰まらせた。
「あれ、草薙君。どうかした?」
「双葉まで冷やかすな」
「えー、本心なんだけどな」
声音が少し弾んでいる。
何やら機嫌が良くなっている様子に、翔はそっとため息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「よし、草薙君——脱ごうか」
「いきなりどうした」
ジムのトイレから戻るなり、仁王立ちの彩花に道を塞がれた。
「オシャレとか勉強の成果は、他の人たちもチェックしてくれてるみたいだから、私は別の部分をチェックしてあげようと思って」
「別の? ……ああ、筋トレのことか」
そういえば以前、輝樹の代わりにチェックする、と申し出てくれていた。
最初から行う予定だったのか、突然思い立ったのかはわからないが、前回の輝樹によるチェックから一ヶ月弱が経過しているので、いい頃合いかもしれない。
「ま、昨日は自分から見せてきたけどね」
「だ、だから、本当にわざとじゃなかったんだって」
じとっとした声色に、翔は焦って弁明した。
「ふふ、わかってるよ」
彩花が含み笑いを漏らす。
——しかし、威勢がいいのはそこまでだった。
「じゃ、じゃあ……ほら」
翔のシャツを指差したところで動きが止まる。
指先がかすかに震え、視線も泳ぎ出した。
正直なところ、翔も進んでチェックしてほしいとは思わない。
プロデュースの一環とはいえ、同級生の女の子に上裸を見られるのだ。
好意などに関係なく、恥ずかしさを感じるのは当然だろう。
しかし、ここで恥ずかしがったら、変に意識していると誤解されるかもしれない。
(それに、やめようって言っても、より意固地になるだけだろうな……なら、さっさと終わらそう)
翔は意を決してシャツを脱いだ。
「っ……」
彩花が耳まで赤くなった。
それでも目は逸らさず、むしろ、食い入るように上半身を見つめている。
ジムはひんやりしているはずなのに、背中の内側がじわっと熱くなる。
翔は周辺の筋トレ器具に目を向けた。
そろそろだろうか、と視線を戻したところで、ちょうど彩花が距離を取った。
「も、もう大丈夫だよ」
翔はそっと息を吐き出した。
シャツを片手に、リュックのほうへ足を向けたところ——
「ちょ、な、なんで着ないの⁉︎」
彩花のひっくり返った声が飛んできた。
「このまま着替えたほうが早いと思ってさ」
「あ、そ、そういうこと……ならいいけど、あんまり裸でウロウロしないでよね」
「人を変態みたいに言うな」
そもそも、あくまで上半身裸である。
「それで、どうだった?」
「あ、うん。えっと、頑張ってるのはわかってたけど、その……こうして見ると、前よりちょっとがっしりしてたっていうか……いい感じだと思う」
「よかった。一応、食べるものとかも気をつけてるからな」
最近は甘いものを控えるようになった。
そもそも、以前ほど食べたいとも思わなくなったのだ。
翔にとっては自信になるし、花音は取り分が増えて喜んでいる。
これぞ、ウィンウィンの関係というやつだ。
「うん、すごくいい心がけだと思う。——じゃ、じゃあ、私も着替えてくるから」
彩花はベンチに置いていた袋を取ると、そそくさと更衣室に向かった。
(なんか、思ったよりあっさり終わったな……)
翔はなんとなく肩透かしをくらったような気分になりながら、マットに座ってストレッチを始めた。
◇ ◇ ◇
彩花が戻ってきたのは、翔が入念にストレッチを終えたところだった。
「ごめん、遅くなって」
そう言いながら足早に近づいてきた彼女は、手にハンカチを持っていた。
着替えるついでに、トイレにでも行っていたのだろう。
(それにしても、遅かった気はするけど)
潤が相手なら容赦なく問い詰めるところだが、相手は女の子だ。
常識的に、深掘るべきではないだろう。
「あれ、双葉。ポケットからなんか白いのが出てるぞ……って、あのキーホルダーか?」
「あ……っ」
短パンのポケットから顔を覗かせていたのは、翔が誕プレで贈ったうさぎのキーホルダーだった。定期入れにつけているものだ。
それを指摘すると、彩花はしまった、というような間の抜けた声を漏らした。
「その、制服のポケットから間違えて入れ直しちゃってたみたい。——すぐに置いてくるねっ」
「お、おう」
頬を赤らめながら、リュックのほうへ駆けていく。
なぜ恥ずかしがっているのだろうか。
着替えるときにうっかり物を入れ直すことは、大した失敗には思えないが。
彩花は水を一口飲むと、それまでとは一転して、ゆったりとした足取りでマットゾーンへとやってきた。
「今回、八十点を超えたのは数学と世界史だっけ?」
「ん、そうだな」
「その二つは点数的に五を狙えそうだし、評定もけっこういい感じになりそうじゃない?」
「かもな。現代文と地理は前回も悪くなかったから、四は狙えそうだし」
翔は重りを調節しながら答えた。
数十秒前と話題がきれいに切り替わっていることについては、言及しないほうがいい気がした。
「現代文は前回、何点だったんだっけ?」
「六十ぴったりだったと思う」
「二回平均で六十六点か。四は固そうだね」
「だよな」
遠藤に好かれていないのは確かだが、テストは公平に採点されていた。
それに、評定は進路にテスト以上に直結する。
基準が曖昧なのが気がかりだが、さすがに不当な評価はしないだろう。
「他の教科も、そのレベルまで引き上げるつもりだから、夏休みは毎日が夏期講習のつもりでいてね」
「体力が持たないって」
「冗談だよ。けど、それこそ夏期講習みたいな感じで、ある程度の日程は決めておかない?」
「そうするか」
そのほうが確実に回数を稼げるし、他の予定も組みやすいだろう。
そうやって、スマホのカレンダーアプリを突き合わせること数分。
沈黙の中、彩花がぽつりと声を漏らした。
「……ねぇ」
「ん?」
「なんか……私たち、時間ありすぎじゃない?」
「ぶ、部活がないからだろ」
翔は乾いた笑いを浮かべた。
お互い予定がスカスカで、逆に埋めづらいという悲しい事態が発生していた。
「そ、そうだよね。部活があれば、大半の日程は埋まるもんね……うん。とりあえず、曜日ごとに決めていこっか」
「そうしよう。というか、筋トレの後にそのままくっつけていいんじゃないか?」
「だね。じゃあ、午後二時にここ集合でいい? お望みなら、迎えに行ってあげるけど」
「迷わないって」
軽口を叩き合いながら、予定を埋めていく。
間もなくして、そこそこ充実していると言えるカレンダーが完成した。
——同じ字面ばかりが並んでいるのを気にしなければ、だが。
「あとは、タイミングが合えば、追加でやってもいいんじゃない? ほら、一人じゃダラけちゃうかもしれないし」
「確かにな」
彩花が怠けるとは思えないが、翔自身に関しては容易に想像がついた。
受験期でもないのに、一人で緊張感を保つのは不可能だろう。
「そのときは、声をかけさせてもらうよ」
「うん。教えてほしいとかも、遠慮なく言ってくれていいからね」
「了解。ありがとな」
ここまで言ってくれているのだ。
あまり負担はかけたくないが、少しは頼らせてもらってもいいかもしれない。
(ランニングの約束もしてるし、そのついで、とかでもいいかもしれないな)
翔は自然と口元を緩ませていた。
「それと、髪型もちょくちょくいじらせてもらうから」
「今からでも入れそうな部活ってあるかな」
「全然そのあとでもいいよ」
翔が遊ばれる予定だけは、前から埋まっていたらしい。
果たして、国語の評定と翔君の髪型の行く末は……?




