第69話 お姫様とのランニングと、翔の失態
翔が動きやすい格好に着替え、ランニングシューズを履いていると、スマホが連続で震えた。
『双葉 彩花が写真を送信しました』の通知が並ぶ。先程のツーショットに違いない。
「翔、また出かけるの?」
その声に振り返ると、京香がリビングから顔を出していた。
翔はメッセージアプリを開きかけているスマホの画面を伏せ、電源ボタンを押した。
「うん。ちょっと走ってくる」
彩花と約束をしていることは、付け加えなかった。
「そう、気をつけて。夕飯までには帰るのよ」
「了解」
家を出て軽くストレッチし、そのまま走り出す。
いつも弓弦と遊んでいる公園が集合場所だ。ちょうどいい気温になったし、風を浴びながら走るのも気持ちいいだろうという意見で一致した。
翔が到着して間もなく、彩花も姿を見せた。軽く息を弾ませ、額をタオルで拭っている。
次から自分もタオルを持とう、と翔は学習した。
「ごめん、お待たせー」
「いや、俺も今来たところだよ……って、こんな格好でするやり取りじゃないか」
「私たちらしくていいじゃん」
彩花がシャツの裾をちょい、と引っ張ってみせる。
素肌が覗くほどではないのに、翔は反射的に顔を背けてしまった。
「じゃ、じゃあ、走るか。双葉のペースに合わせるよ」
「私のスピードについてこられるかな?」
「バトル漫画に出てきそう」
「まあまあ強いけど絶対に負ける敵役じゃん」
彩花が苦笑いし、そのまま軽快に走り出す。
「もっと速いほうがいい?」
「いや、ちょうどいいよ」
嘘ではない。ここまで来る道中のペースと大差なかった。体格差を埋めているのは、積み上げたトレーニング量の違いだろう。
公園を抜け、歩道へ出る。道順は周辺の地理に明るい彩花に任せた。
「双葉、少し待ってくれ」
信号待ちで、ほどけた紐に気づき、翔はしゃがみ込んだ。
すると、コツンと丸いものが頭に乗せられた。
「ペットボトルか?」
「フタ空いてるから、気をつけてね」
「おい、嘘だろ?」
「そんなわけないじゃん」
翔が体を強張らせると、頭上からくすくすと笑う声が聞こえた。
「……まず、人の頭にペットボトルを乗せるな」
「はーい」
無駄に気持ちのいい返事だ。肩から力が抜けてしまう。
「早くしないと、信号が赤になっちゃうよ」
「誰かさんがちょっかい出してきたからだろ」
◇ ◇ ◇
「じゃあ、あそこで解散かな?」
彩花が公園の入り口を指差した。
「いや、暗くなってきたし、送るよ」
「えっ、いいよいいよ。走ればすぐだし」
「俺も走り足りないくらいなんだよ。帰りは疲れたら電車に乗ればいいんだし、定期も持ってきたから」
学校から見て、彩花の最寄りのほうが一駅分遠いので、翔は定期圏内だ。
彩花は悩むように瞳を彷徨わせた。やがて、渋々といった様子で首を縦に振る。
「じゃあ、お願いしようかな。……微妙に悔しいけど」
「なんでだよ」
「なんでも」
彩花がふいっと視線を逸らして歩き出す。
対等を望む彼女にとって、守られている感覚が居心地悪いのかもしれないが、ちっぽけな男のプライドくらいは許してほしい。
彩花も本気で機嫌を損ねていたわけではないようで、「んー」と声を漏らしながら、大きく伸びをした。
「やっぱり気持ちいいね。走るのは」
「だな。なんかスッキリした」
夏休みは時間があるし、たまには走ってもいいかもしれない。
ふと、彩花も誘おうかという考えが浮かんだ。さすがに迷惑だろうか。
「そういえば、さっき送った写真、見た?」
「悪い、まだだ。ちょうど走り始めるところだったからさ」
「全然いいけど、せっかくなら確認してみてよ」
「おう、そうする」
帽子ありとなしが二枚ずつ。
誕生日のときほどの近さではなく、翔は胸を撫で下ろした。
「草薙君、相変わらず表情が硬いなぁ。そろそろ慣れてもいいんじゃない?」
「前よりはマシになってるだろ」
ただ、ツーショットに慣れてきた事実そのものが、逆に落ち着かない。
今度は「慣れること」に慣れる必要がありそうだ。
「あ、そうだ。私が一番お気に入りのやつも送っておくね」
「お気に入り? ……おい」
思わず低い声が出た。送られてきたのは翔の顔のアップだった。
なんとも言えない表情だ。最初に撮った一枚だろう。
「わざわざ俺の顔だけ切り取るな」
「ふふ。花音ちゃんに交渉しようかな。古典の教科書と添い寝したお兄ちゃんの写真と交換しようって」
「俺だけ不利すぎるだろ。というか添い寝じゃないし」
「もう、軽い冗談だよ」
彩花がペットボトルをぽすっ、と翔の頭に当てる。
先程のオマージュだろう。痛みはない。
「あ——やばっ」
彩花の焦った声とともに、ペットボトルが離れた。
彩花の腕を、水滴がつうっと伝っていた。今度は本当にフタが緩んでいたらしい。
「うわ、濡れちゃった……」
あわあわと腕やペットボトルを拭いているのを眺めながら、翔は自業自得だな、と密かに口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
「上がって待ってて。今、タオルを持ってくるから」
彩花はそう言い残すと、「ただいまー」とリビングに姿を消したかと思えば、すぐにタオルを手に戻ってきた。
翔は遠慮したが、風邪を引くからと押し切られた。
「はい、ちゃんと汗を拭いて」
「ありがとな」
少しだけ風を冷たく感じ始めていたので、厚意に甘えた。
翔が体調を崩して嫌な思いをするのは彩花だ。
ふわふわとした手触りが心地いい。
顔や首元にぽんぽんと押し当て、ついでに服の中の汗も拭き取ろうとしたところで——
「ちょ……!」
彩花が突然、声を跳ねさせた。
「ん、どうした?」
「どうした、じゃないよ! い、いきなり、その……!」
「何が——あ」
頬を染めた彩花の示す先では、手を入れた拍子にシャツがめくれ、翔の腹部が露わになっていた。
「わ、悪い。気づいてなかった」
「……やっぱり、草薙君は見せたがりなんだ」
彩花が身を小さく縮こまらせながら、潤んだ目元で睨むようにこちらを見た。
「ち、違うって。これはただのうっかりで……いや、ほんと申し訳ない」
彩花こそ、そろそろ慣れてもいいのではないかと思うが、今のはただの翔の失態だ。
慣れの問題ではなく、そもそも女子が前にいるのなら、気を配るべきだった。
彩花は眉を寄せていたが、やがて腰に手を当て、ふっと息を吐いた。
「ま、今回は許してあげるけどさ。それより、タオルはどうする? 持って帰ってもいいけど」
「あー、じゃあ、そうさせてもらうよ。帰りもあるし」
汗を拭いたものを渡すのは気が引けた。
それに、どうせまたすぐに会うのだ。洗ってから返せばいい。
「わかった。……あの、送ってくれてありがとね」
「おう、急にどうした?」
「い、いや、ちゃんとお礼を言ってなかったと思っただけ。じゃあ、遅くなっちゃうし——」
「翔くん!」
彩花の言葉に、変声期前の少年の元気な声が重なった。
トタトタと軽やかな足取りが近づいてきて、弓弦が顔を出した。
「よっ、弓弦」
「ねぇ、二人で走ってたの? 今度、僕も一緒に走る!」
「あんたと草薙君じゃ、ペースが違うでしょ」
瞳を輝かせる弟を、彩花がすかさずたしなめた。
「双葉、俺は別にいいよ。弓弦、タイミングがあったら一緒に走ろうか」
「やった!」
弓弦がガッツポーズをしながら、姉にドヤ顔を向ける。彩花は小さくため息をついた。
「弓弦、ご飯をよそってくれるー?」
「あ、はーい! じゃあ翔くん、またねー!」
真美の声に呼ばれ、弓弦はパッと駆けていった。嵐のよう、とはこのことだろう。
「ごめんね。また弓弦がわがまま言っちゃって」
彩花が眉尻を下げ、両手を拝むように合わせる。
「全然いいよ。もともと、弓弦の相手がプロデュースの条件だったわけだしな」
「もう、今更そんなの気にしなくていいのに」
彩花は真面目だなぁ、と呆れたように笑った。
そして、何か思いついたようにぽん、と手を打つ。
「ね。そしたらさ、私たちも一緒に走らない?」
「弓弦とは別に、ってことか?」
「うん。夏休み中なら時間もあるだろうし、ペースも同じくらいだったから、お互いにいい刺激になると思うんだけど」
「まあ、確かに」
——まさに、翔も考えていたことだった。けれど、夏休みも週四で筋トレは続けるし、勉強会の約束もしている。
これ以上は迷惑かもしれないと、飲み込んでいた。
(でも、双葉はそう思ってないってことか……)
胸の奥がそわそわした。なんだか彩花の顔を見れなくて、足元に視線を落とす。
すると、彩花の小さな声が聞こえた。
「あ……迷惑、だったかな?」
「えっ? あ、いや、そんなことないよっ」
勢いを失った彩花の言葉を、翔は慌てて顔を上げて否定した。
「びっくりしただけ。双葉がいいなら、走ろうぜ。——けど、頭にペットボトルを乗せるのはナシだからな」
「草薙君が靴紐をちゃんと結んでたらね」
彩花がイタズラっぽくウインクを決める。
調子の戻った様子に安堵しながら、翔は「結んでなくてもだよ」と肩をすくめた。
そして、ちょうど見送りに来てくれた真美とも挨拶を交わして、双葉家を辞去する。
門扉を閉めると、翔は汗を拭いたことも忘れて、夕陽を背に勢いよく駆け出した。




