第68話 近づいた距離
「……心配? 赤月さんのこと」
彩花がおずおずと問いかけてきた。
その拳は、そっと握りしめられている。
「一応な。チグハグだったっていうか……普段は、もっとはっきりしてるやつなのに」
翔の中では、苛立ちよりも違和感が大きくなっていた。
たとえフラれた相手でも、小さい頃からの付き合いだ。情は、完全には消えない。
「……そんな必要、ないのに」
「えっ?」
翔が思わず振り向くと、彩花は雲に隠れた夕陽を背にして、不満そうに腕を組んでいた。
「赤月さんは何か抱えているのかもしれないけど、草薙君が心配しなきゃいけない理由はないと思うな。あくまでも、彼女自身が選択した結果なんだから」
「……確かに」
人によっては、冷たいと感じるかもしれない。
けれど、彩花のその言葉は、翔の胸に立ち込めていたモヤモヤを払ってくれた。
それにそもそも、「赤月さんを見返そうよ」と声をかけてくれた彩花の前で香澄を気にかけるのは、失礼じゃなかっただろうか。
失敗した、と翔は顔をしかめた。
「あっ、でも、あくまで草薙君たちのことなんだから、私には関係のないことだよね……部外者が口出しちゃって、ごめんなさい」
翔の渋面をネガティブに捉えたのか、彩花の声が尻すぼみに小さくなる。
——その瞬間、翔の中から香澄への心配は消え去っていた。
「部外者なんかじゃないよ」
「……えっ?」
キッパリと言い切ると、彩花の顔がふっと上がる。
「香澄にフラれたからこそ、こうして仲良くなれたわけだから、双葉はむしろ一番の関係者だよ」
「そう……なのかな」
「そうだよ。双葉からしたら、迷惑かもしれないけどさ」
「そ、そんなことはないけど……」
彩花が口ごもり、指先を絡めては離す、というのを繰り返した。
翔は再び雲から顔を出した夕陽を見やり、目を細めた。
「フラれてよかった、なんて言ったら、ただの強がりだけどさ。最近は、必要な経験だったんじゃないかって思うんだ」
香澄と続いていたら、翔はおそらく現状維持を選び続けた。
下手をすれば、さらに後退していたかもしれない。
環境が大事だと聞いたことがあるが、彩花のプロデュースこそが、まさに翔が成長するために必要な環境だったのではないだろうか。
もちろん、運命的だなんて自惚れるつもりはないが。
「……そっか」
彩花が小さくつぶやき、へにゃりと目元を和らげた。
「なんか嬉しそうだな」
「生徒が前向きに頑張れているのは、プロデューサーとして喜ばしいことだからね」
いつもの調子が戻ってくるのを見て、翔もふっと肩の力を抜いた。
自然と口元が緩み、言葉がこぼれ落ちる。
「双葉のおかげ、だけどな」
「……えっ?」
彩花が翔を見上げ、パチパチと瞬きをする。
「毎日が充実してるから、前向きに捉えられるようになったし、香澄を心配するくらいの心の余裕もできたんだ。だから、双葉にはマジで感謝してるよ」
一瞬ぽかんとした表情になった彩花は、慌てたように瞳を伏せ、靴先で石ころをいじり始めた。
「ほんとにもう、なんでいきなりそういうこと言うかな……っ」
何やらぶつぶつ言っているが、翔には聞き取れない。
「双葉? どうした?」
顔を覗き込もうとすると、前髪を引っ張られた。
——パシン。乾いた音が響く。
翔は手の甲が痺れるのを感じて、自分が彩花の手を払ったことに気づいた。
彩花が指先を押さえ、目を見開いている。
「あ……双葉、ごめん! 痛かったか?」
「ううん、今のは私が悪かった。せっかくセットしてるのに」
「いや、そんなにこだわってるわけじゃないんだけど……」
まごついた言葉の先は、翔の口の中に消えた。
ふいに彩花がつま先立ちになり、ぐっと距離を詰めてきたからだ。
甘い香りが鼻先をくすぐり、息が触れ合うほどに顔が接近する。
「ふ、双葉っ?」
彩花は答えないまま、翔の顔に手を伸ばした。
(う、嘘だろ……⁉︎)
思わずギュッと目を瞑った瞬間——
そっと、頭部に何かが触れた。
「……へっ?」
彩花の指先が、ほどけた前髪をすいていた。
なんだ、髪を整えてくれてるだけか——。
そんな悠長に考えられていたのは、ほんの一瞬だった。
甘い香りがさらに存在感を強め、長いまつ毛ときめ細やかな肌が視界いっぱいに広がっている。
襟元の隙間からは、白い鎖骨が見え隠れしていた。
(綺麗……って、そうじゃなくて!)
顔が熱い。けれど、顔を背けるわけにはいかない。動いたら、彩花の手元を乱してしまう。
それならば、とまぶたを閉じたが、逆に香りや吐息、それに布の擦れる音を鮮明に感じられるようになり、翔は叫び出したくなった。
程なくして、彩花は小さく鼻を鳴らして、すっと距離を取った。
そのまま、くるりと背を向けて歩き出す。
翔は呼吸を整えると、早足でその隣に並んだ。
しかし、帽子のつばが顔を隠していて、彩花の表情は読み取れなかった。
「……確かに、実用的だな」
◇ ◇ ◇
「草薙君——」
しばしの静寂の後、彩花が打って変わって穏やかな声音で切り出した。
「なんだ?」
「誰かさんのせいで、ティラミスもタピオカも摂取しちゃったから、消費したいんだけど、どうすればいいと思う?」
ティラミスはともかく、タピオカは彩花の判断だ。でも、きっとそういうことじゃないのだろう。
「俺も、ちょうど少し体を動かしたいと思ってたんだ」
「よろしい」
彩花の口元に、満足げな笑みが浮かぶ。
「けど、いいのか? せっかくセットしてもらったのに、運動したら髪型が崩れちゃうだろ」
「確かに」
彩花は考え込むように、腕を組んだ。
「よし。それなら、記念に写真を撮っておこう」
そう言ってスマホを取り出す。
翔が「撮るよ」と手を伸ばすと、彩花はあっさり首を振った。
「草薙君もだよ」
「俺も?」
「二人とも切ってるのに、私だけっていうのはおかしいでしょ?」
彩花は当然のような口調だったが、翔にはあまりその感覚がわからなかった。
そもそもオシャレへの意識が違うだろうし、新しいヘアスタイルに挑戦した彩花とは違い、翔は多めにすいてもらったとはいえ、前回と同じマッシュだ。
「そういうものか?」
「そういうものなの」
彩花が帽子を胸に抱きながら、翔の横に並ぶ。
「ほら、草薙君」
「……わかったよ」
翔は反論を諦め、少しだけ身を屈めた。
別に嫌なわけではない。だが——
(なんか、あんまりツーショットに抵抗がなくなってきてるな……)
元々、翔の写真慣れの練習として始めたのだ。狙い通りの成果が出ていると言っていい。
それなのに、なんだか胸の奥がむずむずした。
「はい、チーズ……って。草薙君。なんで変顔してるの?」
シャッターを切った彩花が、眉を寄せる。
「わ、悪い。撮り直させてくれ」
「もう、ちゃんとしてよ」
数枚撮り直したところで、翔は彩花の胸元に抱えられた帽子を指で示した。
「それ、被って撮らなくていいのか? せっかくだし」
「あっ……うん。ま、まあ、草薙君がどうしてもって言うなら——」
「よし、帰るか」
「すみません、撮りたいです」
思わず噴き出すと、彩花が口をきゅっと結んだ。
最近は主導権を握られてばかりだった気がするので、この感じはなんだか少し懐かしい。
「……その顔、ムカつくんだけど」
「気のせいだって。そっちこそ、その表情でいいのか?」
「っ、うるさい」
彩花は薄っすら頬を染め、翔の脛に軽くつま先を当てた。
弁慶の泣き所だったが、痛みは全くなかった。加減してくれたのだろう。
翔がふと目を向けると、彩花は気まずそうに視線を泳がせた。
「ほ、ほらっ……スマホ預かっておくから、早く被っちゃえよ」
胸の震えを必死に抑えながら、手のひらを差し出した。
次回は二人で運動をしますが、ちょっとしたハプニングが起きてしまいます……!




