第62話 美容院の予定と、思いがけない提案
家に着くころには、通知が三つ増えていた。
彩花から、候補日のリストと予約サイトのリンク、そしてスタンプが届いている。
(いつにも増して、手際がいいな)
帰ってすぐに調べてくれたのだろう。前後で予約するというアイデアを、かなり気に入ったらしい。
スタンプは首を傾げたうさぎだった。「どれにする?」と訊かれているみたいだ。
「翔。スマホをいじる前に、手を洗いなさい」
「あ、やべっ」
意外と汎用性が高いな、と驚いていると、台所から京香の声が飛んできた。
スマホを伏せてソファーに置き、小走りで洗面所へ向かう。
手を洗っていると、ブーブーというバイブ音がリビングから聞こえた。
慌ててうがいを済ませて戻ると、着信はちょうど切れたところだった。画面には「双葉 彩花」の文字が残っている。
自室に入って扉を閉めるなり、翔は着信履歴から折り返した。
「ごめん、双葉。うがいとかしてた」
『全然いいよ。むしろ、よくできました』
「子供扱いすんな」
翔が思わず口先を尖らせると、電話口から笑い声が漏れた。
……余計、子供だと思われたかもしれない。
『それより、メールよりも決めやすいかなと思って電話したんだけど、大丈夫?』
「問題ない。日程、調べてくれてありがとな」
『うん。やっぱり平日のお昼過ぎは空いてるね』
明日からはテスト返却で午前上がりだ。社会人や大学生はあまりいないだろう。
『いつがいい? 出来を確認したいから、草薙君が先のほうがいいと思うけど』
「そうだな……双葉的には、筋トレがない日のほうがいいって感じか?」
送られてきた候補の印に目をやる。
木曜が○、水金が△。美容院ではなく、彩花側の都合だ。
『うん。予定が詰め詰めなの、あんまり好きじゃなくてさ』
「了解。なら、明後日はどうだ? あっ——でも、十五時半から予約入ってるから、前後で予約するのは難しいか」
帰宅や昼食の時間を考えると、翔が美容院に着くのは早くても十四時過ぎだ。
以前は一時間もかからずに終了したが、連番は難しいだろう。
『けど、水曜日と金曜日はジムあるからなー……。あ、じゃあさっ』
低く唸るような声が、ふっと弾ける。
『草薙君が良ければだけど、学校の後、一緒にお昼を食べない?』
「えっ……あ、美容院の近くで、ってことか?」
『そそ。今調べてみたら、歩いて数分のところにファミレスがあるんだ』
翔は検索しようとしていた指を止めた。相変わらずの仕事人ぶりだ。
『そこに直行して、軽くテストの振り返りとかしながら食べるのはどう? 効率がいいし、なんか楽しそうじゃない?』
「なるほど」
ファミレスであれば財布はほとんど傷まないし、移動時間を短縮してテストの復習もできるのなら、時間をお金で買ったと思えば悪くない。
(けど……)
女の子と二人きりでファミレスに行くなど、いつぶりだろう。
香澄とは何度か行っていたが、幼い頃に家族ぐるみで連れて行かれた経験のせいで、あまり意識はしていなかった。
『もちろん、無理にとは言わないよ? パッと思いついただけだから』
「——いや、それで行こう」
考えるよりも早く、翔は了承の返事をしていた。
「ほ、ほら、テストの振り返りは早いほうがいいしさ」
『そうだね。やる気があるようで何よりだよ』
受話口の向こうの声音が、一段と明るくなった。また子供扱いされているようで、胸の奥がむず痒い。
(……この場合は、生徒扱いか)
自分の教えた通りに誰かが伸びていくのは、教える側として素直に嬉しいものだ。
弓弦にサッカーを教えたとき、翔はそれを知った。
『それで、次の髪型はどうするの? マッシュも似合ってるけど、センターパートとかに挑戦してみてもいいんじゃない?』
「あー……今の髪型に慣れてきたら、考えてみるよ」
『する気ないでしょ』
鋭い切り返しに、翔は息を呑んだ。——図星だった。
センターパートの自分は、正直なところ想像できない。あれは大学生がやるものだという認識があるし、そもそも似合う自信もなかった。
『やっぱり』
くすっという息遣いが聞こえた。プロデューサーには、こちらの腹の内など筒抜けのようだ。
『でも、確かに今はその髪型を洗練させていくことが大事だと思うし、コロコロ変えても見栄えは良くないから、しばらくはマッシュのままでいいんじゃないかな』
「だよな」
翔はホッと胸を撫で下ろした。もし理詰めで説得されたら、泣く泣くセンターパートを試す羽目になっていたはずだ。
『急に元気になったね』
「っ……うるさい」
頬にじわじわと集まる熱を追い出すように、翔は天井を見上げて息を吐き出した。電話でよかった。
『その代わり、夏休みに入ったら、私の気分でいろいろ試させてもらうから』
「おい、絶対、俺で遊ぶ気だろ」
『そんなことないよ? 似合ってる髪型を見つけるのも、プロデューサーの役目だから』
もっともらしい理屈の陰で、すっとぼけた笑みを浮かべているのが目に浮かぶ。
『センターパート、七三分け、コーンロウ、ベリーショートとか、しっかり学んでおくから、楽しみにしてて』
「ちょ、ちょっと待て。一個、やばいの入ってないか?」
電話なのに、翔は思わず立ち上がっていた。
『えっ、七三分け?』
「コーンロウだよ!」
『あ、そっちか』
白々しい返答に体から力が抜けて、翔は崩れるように椅子に座り直した。お尻の下で、ぎしっとわずかに音が鳴った。
『ふふ。まあ、それは冗談だけど、他の髪型も試してみたいのはほんとだから。覚悟しててね』
「お、お手柔らかにお願いします……」
『考えておこう』
なぜか尊大なその声色に、翔は平穏な夏休みが送れそうにないことを悟った。
『それと、ちゃんと予約しておいてね』
「もちろん。すぐにやるよ」
『よろしい』
満足げな声が聞こえる。どうやら、すっかりプロデューサーモードに入っているらしい。
「一応、完了したらスクショを送るよ」
『うん、そうしてくれると嬉しい。じゃ、また明日ねー』
「おう、また明日」
たっぷり三秒待ってから、通話終了ボタンを押した。
「翔、ご飯よ」
そのとき、階下から京香の声が飛んでくる。
「了解ー」
返事をして、翔はスマホのカレンダーアプリを開き、木曜日の欄に『外食(昼)→美容院』と入力した。
すぐ下の『家族で外食(夜)』という予定が目に入った。少し迷ってから、先頭に『双葉と』と付け足してみる。
「……いや、別に美容院は一緒ってわけじゃないしな」
すぐに追加した分を削除すると、翔はスマホをベッドに放り投げ、階段を駆け降りた。




