第61話 おなら疑惑と、幼馴染の異変
「——そこまで」
翔がペンを置くのと、試験監督の声が響いたのは、同時だった。
(なんとか終わった……)
火曜日の三限——現代文が、第二回定期テストの最後の科目だった。
見直している暇はなかったが、漢字はほとんど覚えていたし、記述もなんとなく埋めていたこれまでと違って、要点を拾って書けた。そこそこの点数は期待できるんじゃないだろうか。
「いやー、終わったー!」
答案の回収が終わるや否や、潤の大声が聞こえてきた。
翔の「終わった」と違うニュアンスで聞こえるのは、気のせいだろうか。
「翔ー、どうだった?」
「ぼちぼちだな。そっちは?」
潤は斜め上を見て、珍しく真面目な顔で口を開いた。
「国語のイメージカラーは?」
「赤点なんだな」
気のせいではなかったようだ。
「信号が奇跡的に全部青だったときくらい、最後までスイスイ行けてさ。めっちゃ時間余ったんだよ」
「赤信号なのに渡っただけでしょ」
的確なツッコミを入れてきたのは美波だ。前と同じように、翔と彼女の間にある翼の机に肘を乗せ、半身をこちらへ向けている。
翼は回収が終わるなり、席を立っていた。トイレにでも行っているのだろう。
「で、轢かれて病院送りの代わりに、赤点で補習祭りってわけか」
「草薙君、ナイスゴール」
差し出された美波の手のひらに、軽くハイタッチを返す。
こういう自然な距離詰めは、正直見習いたいと思う。
「おっ、お熱い接触だねぇ、お二人さん」
「教室で堂々と。さすが」
翔の右隣で葵がニヤニヤと笑い、その前に座る小春は、無表情のまま淡々と拍手をした。
「それ。キスとか抱擁してるときに言うやつだから」
美波がため息混じりに訂正を入れると、
「えっ、そこまで行ってたの⁉︎」
「美波、肉食系」
葵はまたもやオーバーリアクションを見せ、小春もわざとらしく眉を上げてみせる。
ギャルにとっては通常運転なのか、テストが終わった解放感からハイになっているのか、付き合いの短い翔にはわからなかった。
「話を聞け……というか、そういう二人こそ、草薙君とお近づきになりたいんじゃないの?」
眉間を押さえて呻いた美波が、反撃に出た。
「まさか。美波みたいに接点ないし」
「それに、神々の戦いに参戦するつもりはない」
しかし、葵がひらひらと手を振り、小春はこちらに歩いてきている彩花を一瞥した。
(へぇ……)
翔は内心で驚いた。小春が彩花の名前を出したことについて、ではない。
葵と小春が、彩花と美波を同列に扱ったことが、意外だった。
彩花と美波を比較したいわけではない。好みは人それぞれだ。
だが、先程の翔いじりの温度感を見ても、三人は互いにいじり合う関係だと思っていた。女子の中では、美波がワンランク上に位置付けられるような何かがあるのだろうか。
「お姫様どころか、女神様になっちゃったか」
小さくつぶやいた美波は、頭を垂れるように、両手のひらを彩花へと差し出した。
「彩花様の、おなぁり〜」
「えっ、おいなりさん?」
きょとんと目を丸くした彩花に、翔と美波は同時に噴き出した。
「双葉って、意外と大食いキャラだったんだ」
「ここにきて、さらに属性を追加しようとするとは」
「ち、違うよっ。ほんとにそう聞こえたんだって!」
葵と小春の呆れたような感想に、彩花は慌てて両手をぶんぶん振る。
「で、ほんとはなんて言ってたの? 美波」
彩花が翼の机に手を置き、現在の使用者である美波に尋ねた。余裕のある所作だが、よく見ると、頬は少しだけ朱色に染まっている。
美波はちらっと翔に目を向けてから、澄ました表情で答えた。
「おならだよ。草薙君がしてたから」
「えっ——」
彩花が一歩引いて、まじまじと翔を見つめる。
「草薙君?」
「いや、してないからな? 吉良の冗談だよ」
「あ……そっか、そうだよね。草薙君がしてるの、見たことないし」
私が気づいてないだけかもしれないけど、と彩花はイラズラっぽく付け加えた。
(してもおかしくないキャラ扱いなのか……)
翔が密かに落ち込んでいると、葵が思案顔で口を開く。
「おならなら、どっちかと言えば、聞いたことないが正しいんじゃね?」
「嗅いだことがない、も可」
「不正解だし、不可に決まってんだろ」
このコンビは茶々を入れるのが好きらしい。
少々下品なのは、さすがギャルというべきか。いや、それは他のギャルに失礼かもしれない。
「彩花。草薙君がオナラしてもおかしくないって、思ってたんだ」
「ちょ、違うよっ。変なこと言わないで」
彩花が美波の頬を小突き、頬を膨らませる。
「ごめんごめん。——草薙君も、名誉を毀損してしまったことを謝罪するよ。次からは気をつけるね」
「頼むよ。女子の前では、さすがにしないから」
妙に芝居がかった口調は心許ないが、美波はそのあたり、線引きを心得ていると信じたい。
「でも、俺といるときは平気でぷっぷかするよな」
「潤は女子なのか? というか、余計なことを言うな」
当たり前のことのはずなのに、言葉にされるとなんだか落ち着かない。
翔が潤の頬を引っ張ったところで、翼が教室に入ってきた。
「あっ、翼。座る?」
美波の声かけに、翼は隣の香澄に一瞬だけ視線を落とし、それから小さく首を横に振った。
「いや、いいよ」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
美波はあっさり引き取り、また翼の机に肘をかけた。
翼はそのまま教室後方へ歩いていき、サッカー部の友人たちの輪に吸い込まれていく。
それにしても、と翔は視線を斜め前に向けた。香澄は文庫本を開いたまま、涼しい顔でページをめくっている。感情は読みにくい。
——けれど、今のやり取りの間、香澄は一度も翼を見なかった。現代文のテストが始まる前に、翼が彼女の消しゴムを拾ったときも、お礼は言えども目は合わせていなかったような気がする。
(何かしらの不満があるんだろうな)
翼も、それがわかっていて、あえて距離を置いたように見えた。
先週は、普通に二人でテスト前に勉強していたので、今さら翔に気を遣ったという線も薄い。
「草薙君、どうしたの?」
「いや……なんでもない」
彩花の声に、翔は香澄から意識を逸らした。
あくまで当人同士の問題だし、翔は最も介入すべきでない人間だろう。そもそも、何かをするつもりもなかった。
「それより双葉、今日は二時からだっけ?」
葵と小春がいる前なので、習い事でも確認するみたいな口ぶりで聞く。
というより、美波と香澄以外には、彩花との筋トレや勉強会は全て「習い事」だと押し通している。
「うん。遅れたら、また先生に怒られるよ」
「わ、わかってるって」
実際の先生は目の前の彩花だ。
遅刻厳禁ということなのか、得体の知れない圧がひしひしと伝わってきて、翔は頬を引きつらせながらうなずいた。
◇ ◇ ◇
「やっぱり、双葉とゲームするのは面白いな」
双葉家からの帰り道、翔は夕焼けに目を細めながら、ぽつりとつぶやいた。
今日はいつも通り、筋トレと勉強をした。テストが終わっても流れを崩さないというのが、彩花の方針だ。翔も異論はなかった。
ただ、最後に「ご褒美」として、テスト期間は禁止していたゲームを少しだけ長くプレイした。
そのときの情景を思い返すだけで、口元が緩んでしまう。
「ねぇ、絶対バカにしてるでしょ」
「そんなことないって」
彩花は人並みにプレイできるようにはなったが、キャラと一緒にジャンプする癖は直っていない。
どころか、慣れてきたせいか、キャラとのシンクロ率が上がっていて、余計に可笑しかった。腹筋のあたりに感じる疲労は、きっと筋トレのせいだけではない。
思い出し笑いを堪えていた翔は、彩花が眉を寄せ、唇を尖らせていることに気づいた。
今はうっかり一線を超えてしまいかねない。これ以上、この話は続けないほうが良さそうだ。
「それよりさ。前に紹介してくれた美容院って、ネット予約できるっけ?」
前は彩花が電話で申し込んでくれたため、全て一人でこなすのは、今回が初めてだ。
彩花がじとっとした眼差しを送ってくる。翔はそっと視線を逸らした。
「……まあ、いいけど」
ため息を吐く気配がした。どうやら、今回は見逃してもらえるようだ。
「ちょうど、私もそろそろ切ろうと思ってたから、あとでリンク送るよ」
「おっ、サンキュー」
「予約、被ったら面白いね」
彩花が含み笑いを漏らす。
「確かに。けど、俺も希さんを指名するつもりだから、それはないんじゃないか?」
人柄が好ましかったし、仕上がりも満足だった。彩花への義理とかではなく、純粋にそう思えたから、今後しばらくは指名を続けるつもりだ。
「そっか……あっ、それなら、前後で予約したら面白くない? 私が後にすれば、ついでに成果も確認できるしさ」
「あー、なるほどな」
正直なところ、面白さはあまりわからなかった。けれど、彩花がそう思うのなら、わざわざ否定する理由はない。
それに、その場で成果を確認できるのは、確かに合理的だ。
「私が何個か候補日を見繕っておくから、その中から草薙君が都合のいい日を選んでよ」
「了解。助かる」
リンクを送ってもらう以上、翔が候補日を絞り込むつもりだったが、彩花は何やら気合が入っているようなので、任せることにした。
思いのほか、自分の発案を気に入っているようだ。
それから程なくして、駅に到着した。
ちょうど、部活を終えた学生や、定時退社をした社会人と重なってしまったようで、改札周辺は人でごった返しており、ガヤガヤとざわめいている。
「じゃ、このあと日程を送るねー」
「おう。よろしく」
翔は改札を通り抜けて少し進んだあと、邪魔にならないよう、端に寄った。
後ろを向くと、予想通り、彩花がこちらに手を振っている。なぜか、手首より先だけをカクカクと動かしていた。ロボットのようだ。
翔は思わず苦笑しながら、サッと手を挙げる。
彩花の手の振り方はバラエティに富んでいて、予想がつかない。この瞬間は、翔の密かな楽しみの一つだった。
こういうやり取りも、だいぶ慣れてきたな——。
そんなことを思いながら、翔は彩花に背を向けて、ホームへと続く階段を登った。




