第59話 四人での勉強会⑤ —琴葉の推理と、翔の自爆—
——カラン。
「あっ……!」
立ち上がった彩花の声と、軽やかな落下音が重なった。
彩花は素早くしゃがみ込み、床を転がった定期入れを拾い上げる。音の主は、ついているうさぎのキーホルダーだろう。
彼女は指先でそれを撫で回し、肩の力を抜いた。口元がほんのり弧を描く。
翔は胸の奥がくすぐったくなり、椅子に座り直した。
「彩花、大丈夫?」
「えっ? あ、うん。ご、ごめんね」
琴葉の問いかけにうなずくと、彩花はほんのり頬を染め、そそくさとリビングを出ていった。
「あのキーホルダー、すごく大事なものなのかな」
胸の前で手をそっと当てる琴葉の一言に、翔の肩がびくりと跳ねる。
「……まあ、双葉はうさぎ好きだしな」
「確かに、スタンプもだいたいうさぎだもんね」
琴葉は軽く相槌を打っただけで、すぐに手元の参考書に視線を落とした。
やり過ごせたかもしれない、と翔が胸を撫で下ろした——その瞬間だった。
「あれ、翔からの誕プレでしょ?」
「っ……」
不意の問いかけに、翔は否定するどころか、声を出すことすらできなかった。
「やっぱりね」
琴葉の口角が上がる。もはや、誤魔化すことは不可能だろう。
身に覚えがないなら、今の反応にはならないことは、翔自身が一番わかっていた。
「琴葉のこの緩急、それこそジョーダン並みだよな」
潤が椅子から立ち上がって、機敏な動きでエアドリブルを始めた。野球部なのにサマになっているのは、運動神経のなせる業だろう。
ダムダムとつぶやくその姿に、琴葉が「何やってんの」と、頬を緩める。翔もひとつ息を吐き出した。
(なんというか、さすがだな、潤は)
もしもウケを狙っていたなら、こんな和やかな空気にはなっていないだろう。
「にしてもキーホルダーか。なかなかかわいいチョイスじゃねーか」
「付き合ってもないのに大層なものを渡しても、気持ち悪がられるだけだろ」
本当はハンドクリームのおまけだったが、それは言う必要がないだろう。どのみち、大層なものではない。
「ほーん、そういうもんか?」
潤にはピンと来ないらしい。彼の本質が、生粋の陽だからなのだろう。
入学した頃のように、自分と潤を比べて落ち込むことはなくなった。それでも、やはり根っこの部分は違うのだと思い知らされる。
「私はなんとなくわかるよ。もらう相手にもよるけどね。もちろん、潤だったら何をくれても嬉しいけど」
「隙あらばイチャつこうとすんな。というか、なんで気づいたんだよ?」
彩花の仕草や、品そのものからは、翔に直結する要素は薄いはずだ。
「うーん、なんとなくかな。彩花に探り入れたときから、もしかしたらとは思ってたんだけどね」
「カップル揃って勘が鋭いの、やめろって」
彩花の時点で絞り込めていたのなら、翔がかわしきることはほとんど不可能だっただろう。
「潤は野生の勘で、私は女の勘だから、微妙に違うけどね」
潤に対して微妙に失礼な説明を添えつつ、琴葉は彼の頬を突いた。
そして、翔に向き直り、ふっと目元をやわらげた。
「よかったじゃん。あんなに大切にしてもらって」
「っ……単純に、双葉がプレゼントを大事にする性格ってだけだろ」
言葉を詰まらせた翔は、それだけを絞り出すのがやっとだった。
「うん、そうだね」
琴葉も首を縦に振るのみで、それ以上は問い詰めてくる気配はない。
(調子が狂うな……)
これならいっそのこと、揶揄ってくれたほうがマシかもしれない。
のれんに腕押しではないが、相手から来てくれなければ、打ち返すことはできないのだ。
「そういえばさ。さっき彩花に教えてたのって、数学?」
「そう。グラフの問題」
「あの彩花に勉強を教えられるって、すごいじゃん」
「数学の一部だけだけどな」
数学は元々好きだったため、自然と向上した。逆に生物などの暗記系や語学は、まだまだ彩花の足元にも及ばない。
琴葉がワークを手に取ると、パラパラとページをめくり、ページの左上を指差した。
「じゃあ、ちょっとこの問題、教えてくれる?」
「いいぞ」
翔は自分のノートに式を写し、要点をまとめてから、ノートごと琴葉へ向けた。
「こんな感じかな。わからないところがあったら、聞いてくれ」
「うん、ありがと。ちょっと見てみるね」
琴葉の目が上下左右に動く。
頬の輪郭がシュッと引き締まっていて、前髪の隙間から、伏せられた長いまつ毛がちらちらと見え隠れしている。
彼女の真剣な表情など、ほとんど見たことはなかったが、こうしてみると、本当に整った顔立ちをしている。
異性として意識したことはないが、初めて顔を合わせたときに、やっぱり人間は同じレベルの相手としか付き合わないんだな、と思ったものだ。
これも潤と同じで、微妙に残念な一面があるような気もするが、彩花とはまた雰囲気の異なる美少女であるのは間違いないだろう。
(そうなると、双葉に釣り合う男なんて、いるのか?)
潤と翼が埋まっている以上、心当たりはなかった。
容姿や運動能力だけで言えば、浩平にも可能性はあるのだろうが、現実的にその線は消滅していると言っていい。
(……まあ、俺が考えることじゃないか)
翔はいつの間にか詰めていた息を吐き出して、そっと首を横に振った。
そのタイミングで、琴葉も確認を終えたようだ。
「うん、完全に理解できたよ」
「そうか、よかった」
「ありがとね。けど、彩花にやってたみたいに教えてくれないの?」
琴葉が自分のノートをコツコツとペン先でつつく。
隣に座って、説明しながら書き込んでくれないのか、と言いたいのだろう。
「いや、それは潤が嫌がるだろ」
魅力的な構図であることは間違いないだろう。
それでも、潤との友情を考える以前に、琴葉とどうこうなりたいという気は起こらなかった。
「ふーん、なるほどね」
「な、なんだよ?」
翔の背中を、一筋の冷たい汗が流れた。
流すべきだと本能が告げていたが、何やら楽しそうな琴葉の表情を前に、聞き返さずにはいられなかった。
「いや、そんな大したことじゃないけどね? ——恋人持ちにしちゃいけない距離感っていうのは、わかってたんだなって」
「っ……!」
翔は目を見開いた。鼓動が早まり、全身の血が一気に顔へと駆け上がる。
彩花の肩越しの近さに、心が乱れなかったわけではない。それでも、自分たちにとっては普通だと自然に受け入れていた。そのことに今更ながらに気づいて、思わず机に突っ伏した。
(揶揄ってくれたほうがマシなわけないだろ、馬鹿か俺はっ……!)
「えっと……草薙君、どうしたの?」
一分前の自分に心の中で毒付いていると、彩花の声が聞こえて、翔の肩が跳ねた。
今ので、寝ているわけではないと気づかれただろう。それでも、顔を上げる気にはならない。こんな顔は見せたくないし、普通に会話できる気がしなかった。
「自爆しただけだから、しばらくは放っておいてあげて」
「はあ……」
琴葉の笑いを含んだ説明に、彩花は釈然としないように、息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「今度は四人で遊びたいね」
帰り支度のタイミングで、琴葉がポンと手を打った。
「おっ、いいじゃねーか。夏休み、四人でどっか行こーぜ」
潤が即座に賛同した。
「俺も賛成」
「うん、楽しそう」
翔と彩花も、迷わずに肯定の返事をした。
この四人であれば、退屈するようなことにはならないだろう、と翔は笑みを浮かべた。琴葉の不意打ちにさえ気をつければ、先程のような醜態を晒すこともないはずだ。
「じゃ、お邪魔しましたー」
潤がひらひらと手を振りながら、玄関の扉を開ける。
「あっ、そうだ。翔、彩花」
続こうとした琴葉が不意に立ち止まり、背後にいた彩花、そして玄関先で見送っている翔を見比べて、左右の手でそれぞれVサインを作った。
「楽しみだね。——ダブルデート」
「「っ……!」」
翔と彩花は、同時に息を呑み、それぞれその場に立ち尽くした。
「じゃ、またねー。ほら、彩花、行くよ」
琴葉は、翔が固まっているうちに、同じく停止していた彩花を引っ張って、草薙家の玄関を出ていった。
(って、あのやろ、変なことを……!)
翔が立ち直る頃には、扉は閉まりかけていた。
——その隙間から、一瞬だけ、彩花と視線が交わった気がした、




