第54話 お姫様とのストレッチ
二日目の一限は英語だった。前夜に確認した箇所が素直に出てくれて、手が止まらない。
『これから、一年生のリスニングテストを始めます』
スピーカーから機械の音声が流れる。
翔はリスニングのページを開きながら、上から順番に埋まっている解答用紙を見て、小さく拳を握った。
——しかし、順調だったのはそこまでだった。
リスニングの中盤、二択で迷っているうちに、次の設問の冒頭を取り逃してしまったのだ。
(しまった。これじゃ、答えようがない……!)
わからないものは飛ばして、次に備えるべきだと頭では理解していた。
それでも、急かすように英文がスピーカーから流れ続ける間に気持ちを切り替えることは、容易ではなかった。
『以上で、リスニングテストは終了です』
抑揚のない機械的な声と、プツッというスピーカーの切断音。
静かな教室に、自分の呼吸だけが響く。
(最後のほう、全然わかんなかった……っ、でも、今はとにかく次に行かないと)
空欄を適当に埋めて、長文へと目を走らせる。しかし、単語の意味は取れるのに、文章になると何を言っているのか理解できない。
同じ行を往復しているうちに、無情にも時計の針だけが進んでいった。
「そこまで」
試験監督の声が聞こえたとき、翔の解答用紙のいくつかの欄は、空白のままだった。
どうしてウジウジと悩んでしまったのか、なぜすぐに立て直せなかったのか——。
考えても仕方のない反省が、二限の地学でも三限の古典でも脳内をぐるぐると巡っていた。
◇ ◇ ◇
「はぁ……」
マットスペースで股関節を伸ばしていると、思わずため息が漏れた。
「どうしたの? 元気ないじゃん」
彩花が腰を落として、覗き込んでくる。
「……いや、別に」
「あんなおっきなため息を吐いてるのに、それは無理あるよ。そもそも、帰ってるときから少しおかしかったし」
隠しているつもりだったが、プロデューサーには筒抜けだったらしい。
誤魔化すのを諦めて、翔は短く事情を話した。リスニングで迷って次を取り逃し、そこから真っ白になってしまったこと。引きずったまま地学も古典も手応えがないこと。
「ごめん……せっかく色々教えてくれたのに」
「なるほど。そういうことか」
うつむく翔の頭上から、彩花の納得したような声が聞こえた——次の瞬間。
軽い衝撃が、翔の脳天を襲った。
「えっ?」
反射的に顔を上げると、手をチョップの形にしたまま、彩花がこちらを見下ろしていた。
「言ったじゃん。普段できるのと、テストで点を取るのは別物だって。まだ挽回できるんだから、そんなに気にすることないよ」
「……うん」
頭ではわかっている。試験はまだ半分を消化したところだ。
けれど、どうしても胸の奥にモヤモヤが晴れない。彩花ならこんなミスはしないだろうし、したとしてもすぐに切り替えるんだろう、なんて考えてしまう。
「草薙君、見て」
不意に、目の前にスマホが差し出される。
画面の中では、空のアイスカップが二つ並んでいた。
「えっと……これは?」
「誕プレくれた日、一個だけ食べるつもりが、気づいたらこうなってたんだ。弓弦のイタズラかなって思ったんだけど、どうやら私がどっちも食べたらしいんだよね」
彩花が肩をすくめ、へにゃりと笑った。
翔は、彼女が「アイスは食べても一個だけ」というルールを自分に設けていたことを思い出して、目を丸くした。
「双葉でも、失敗することがあるのか」
「もちろん。完璧な人間なんていないんだから」
「あっ……確かに」
言われてみれば、当たり前のことだ。
どうやら、できるようになってきた気がして、自分に期待しすぎていたらしい。
「ごめん。俺、努力を舐めてたみたいだ」
「ふふ、そんな簡単なものだと思われたら困るよ」
彩花がおどけたように指を差してくるが、どこか真剣な表情だ。プライドを持てるくらいの努力をしてきたのだろう。
学年、もしかしたら学校随一の才色兼備ぶりは、弛まぬ努力によって作られたものであることは、もう翔にもわかっていた。
「よし。切り替えて、今からもう一回スイッチ入れるよ」
「おっ、いい表情になったね。じゃあ、まずは私のストレッチを手伝ってもらおうかな」
「おう……えっ?」
流れで了承しかけて、翔は固まった。
彩花はマットに座り、両脚を伸ばして前屈の姿勢を作ると、肩越しに振り返った。
「ほら、背中押してよ」
「いや、その……」
彩花は普通のトレーニングシャツを着ていて、肌の露出が多いわけでもない。
それでも、服越しとはいえ女の子の体を触るのは、やはり躊躇いがあった。意識してしまっていること自体も、なんだかむず痒い。
「あー、アイス二個も食べたこと知られちゃって、恥ずかしいなー」
「……わかったよ」
わざとらしい声色に、翔は肩をすくめた。本当に恥ずかしいなら、もう一度言わないはずだ。
(双葉からお願いしてきたんだから、セーフだよな)
心のうちで言い訳をしながら、彩花の肩甲骨あたりに手を添えた。
手のひらに体温と筋肉の薄い張りが伝わってきて、思わず息を呑んでしまう。
「えっと……こんな感じでいい?」
「うん。もうちょっと、強くしてくれていいよ」
「お、おう」
そっと体重を乗せると、ほんのり汗ばんだ白いうなじに視線が吸い寄せられる。
慌てて目線を上げて、壁際の器具へと逃した。
「九、十——はい、ありがと」
彩花がゆっくりと上体を起こす。
その瞬間、翔は無意識に肩の力を抜いていた。こぼれた吐息は、いつもより少し熱がこもっている気がした。
「じゃ、次は私の番だね。草薙君、座って」
「……おう。頼む」
当然のように言われて、断る気力は残っていなかった。幸い、同じように背中を押してもらう程度だ。心臓の鼓動が伝わることはないだろう。
前方を向いて待機するが、なかなか背中に手が添えられる感触はやってこない。
「双葉? どうし——ふぐっ」
振り返ろうとして、まるで自分のほうを振り向かせないかのように、手のひらで頬を押される。
「て、手汗を拭いてただけだからっ。ほら、押すから前向いて」
「お、おう」
「押す場所、ここでいい?」
「ああ、そこで」
翔は前方を向いたままうなずいた。
ほんの一瞬の間を置いて、彩花の手のひらにぐっと力が入った。




