第52話 お姫様の怒りと、ギャルたちの襲来
「草薙君、災難だったね」
最初に声をかけてきたのは、彩花の背後にいた美波だった。
彼女は腕を組みながら、教室前方の扉をじっと見やった。
「まあ、こういう日もあるだろ。元々、俺が遅刻しかけたのが悪いんだし」
「それじゃ、すまないよ」
鋭い声に、翔は軽く目を見張った。
声の主——彩花は、拳を握りながら続ける。
「草薙君にだけ皮肉を言ったり、一回も指そうとしなかったりさ。不平等にも程があるよ」
どうやら、翔の遅刻未遂ではなく、遠藤の態度が許せないらしい。
勢いはあっても小声なのは、二回も指名を受けた宮城に、要らぬ罪悪感を覚えさせないためだろうか。
「彩花、激おこだね」
「だ、だって、さすがに理不尽じゃん」
美波に脇腹を突かれ、彩花は唇を尖らせた。
「美波はそう思わなかったの?」
「もちろん、あれはないなって思ったよ」
「っ……」
食ってかかるような勢いだった彩花は、あっさりと同意されて押し黙った。
顔を赤くしつつ、視線のみを翔に向ける。
「というか、草薙君が遅刻したの、セットしてたからじゃないでしょ」
「え……なんでわかった?」
息を呑む翔に、彩花よりも先に、美波が口を開く。
「女の勘だって」
「ちょ、美波。変なこと言わないで。なんか、顔が不満そうだったからだよ」
「マジか」
一応、表情には出していないつもりだったのだが、プロデューサーにはお見通しだったらしい。
まさか遠藤には気づかれていないよな、と不安になる翔の肩を、美波がポンポン叩いた。
「安心して、草薙君。君のそんな些細な変化に気づけるの、おそらく彩花だけだから」
「そ、そんなことないでしょ。ほら、緑川君とか、そういうの敏感そうじゃん」
心なしか、彩花が早口になっている。
対照的に、美波は「確かに」とゆっくりうなずいた。
「あいつには野生の勘があるからね。でも、潤は絶対に気づいてないよ」
「なんで?」
「だって、ほら」
美波の指差す先には、教室の喧騒など関係ないとばかりに、突っ伏して眠りこける潤の姿があった。
「あ……」
彩花が「盲点だった」とでも言いたげな表情を浮かべる。
これで納得されてしまう潤は、少なからず反省する必要があるだろう。
「でも、彩花とか潤とか、草薙君には男女にそれぞれ強力な味方がいるねぇ」
美波が独り言のようにつぶやくが、それにしては声量が大きい。以前に示唆していた周囲へのアピールだろう。
しかし、事情を知らない彩花は苦笑して肩をすくめる。
「そんな強力じゃないよ。……味方ではあるけど」
ボソッと付け加えられた言葉に、美波が小さく吹き出す。
彩花は頬をほんのり染めて美波を睨み、強引に話題を切り替えた。
「それで、草薙君はどうして遅れそうだったの?」
「単語やってたら、時間が過ぎてるの気づかなくてさ」
「おー、偉いじゃん」
「双葉は毎日やってるだろ」
パチパチと手を叩く彩花に、翔は耳の後ろを掻いた。
褒められて悪い気はしないが、相手はそれ以上のことをやっているので、少しだけ居心地の悪さを覚えてしまう。
「やっぱり学年一位が近くにいると、意識しちゃう?」
美波が覗き込むようにして尋ねてきた。
こちらを気遣っているというよりは、単に面白がっているようだ。
「まあ、刺激にはなってるよ」
ライバルなどというのはおこがましいし、すぐに追いつけるとも思っていないが、少しでも近づきたい気持ちはある。
「男の子だねぇ」
美波がくすっと笑う。
これまでとは異なる距離感に少しむずむずするが、周囲への牽制になるなら、この程度は慣れておくべきだろう。
「こら、美波。あんまり揶揄わないの」
「はーい」
彩花にグイッと肩を掴まれた美波は、素直に翔から距離を取った。その頬は緩んだままだ。
しかし、翔からすると、彩花の手つきは少しだけ乱暴に見えた。
「双葉、別に俺は大丈夫だぞ」
「いや、今のは彩花の言う通り、私が悪いよ。ごめんね、草薙君。——彩花も」
美波が彩花の名前を付け加えると、彩花はピクッと肩を震わせ、居心地悪そうに顔を背けた。
そのわずかに赤らんだ横顔を、美波がイタズラっぽく瞳を細めて見つめている。
(なんなんだ?)
翔は説明を求めるように美波を見るが、返ってきたのはウインクのみだった。
◇ ◇ ◇
「部活動禁止期間って、マジで意味なくね? 授業聞いてりゃある程度は取れるし、どうせ家で勉強なんてやらねーんだから」
「それな。俺なんてオンライン対戦やりまくってるわ」
「部活ある日より寝不足になるもんなー」
翔がトイレから戻ると、浩平、秋野、長谷川の三人が、後方扉近くの浩平の席で固まって喋っていた。
しかし、翔と目が合った瞬間、ガタガタと椅子を引き、そそくさと前方の秋野の席へ移動していった。
土日を挟んでも、彼らは翔を避け続けていた。男女別の体育ですら、一定の距離を保っているほどだ。
ここまで徹底されると、もはや翔の彼らに対する恐怖心はほとんどなくなっていた。
代わりに、美波が何を彼らに伝えたのか、気になってくる。浩平たちの過剰な反応は、間違いなく彼女の忠告——警告と言えるかもしれない——を受けてのものだ。
しかし、事情を知らない者たちからすれば、翔が原因だと考えるのは自然だろう。
「ちょっと草薙。あんた、マジであいつらになにしたの?」
「なにもしてないよ、篠原」
あまり親交のない葵が話しかけてきたことに意外感を覚えつつ、翔は肩をすくめた。
彼女自身の——ギャル特有かはわからない——遠慮のなさというのもあるのかもしれないが、それ以上に周囲からすれば気になるのだろう。周りの生徒も聞き耳を立てているのがわかった。
「でも、あの避け方は異常」
隣の小春が、浩平たちをちらりと見て淡々と言う。
自分も感じていることを直球で指摘され、翔は言葉を詰まらせた。
「弱みでも握ったんなら、ウチらに教えてくれてもいいよ?」
「いや、弱みを握れるほど親しくないから」
「ほんとかねぇ」
口調こそ冗談混じりだったが、こちらを見据える葵の眼光は鋭い。
「草薙君が前よりも格好良くなったから、警戒してるんじゃない?」
葵と小春の背後から、美波が口を挟んだ。
純粋に褒めてくれているというよりは、自分が浩平たちに忠告をした結果として翔が疑われている現状に、責任を感じているのかもしれない。
しかし、事情を知らない葵と小春からすれば、そのフォローは不自然に映ったようだ。
「へぇ。美波が男子にまっすぐ格好いいって言うの、珍しいじゃん」
「草薙のこと、狙ってる?」
遠回りにほのめかす葵に対して、小春は相変わらず直球だった。
「まさか。相手が悪すぎるって」
その問いかけは人によっては失礼に感じてもおかしくはなかったが、美波は特に気分を害した様子もなく、苦笑いとともに肩をすくめてみせた。
「それはそう。なんたって、お姫様だからね」
「こっちは一般市民。勝てる道理がない」
葵と小春は、ウンウンと首を縦に振った。彩花をお姫様扱いしていることに、罪悪感を覚えている様子はない。
「でも、相手が悪いのは草薙にとっても同じ。王子様にならないといけないから」
「あっ、マジじゃん!」
小春の指摘に、葵が楽しそうに手を叩いた。
(そもそも、俺と双葉はそういう関係じゃないんだけどな)
美波が二人に見えない角度で、拝むように両手を合わせて眉尻を下げる。翔は小さくあごを引いた。
そのとき、教室後方の扉が開き、彩花が入ってきた。意外な組み合わせだと思ったのか、こちらを見て目を丸くしている。
そのタイミングで、三人は「じゃ、またね」と手を振り、翔の元を離れていく。
——偶然か意図的かは、翔にはわからなかった。




