第51話 教師からの叱責
週明けの月曜日は、それまでよりも早くセットを終えた。
無意識にスマホへ指が伸びかけたところで、彩花の声が脳裏に浮かぶ。
『私は家を出る前に、最低十個は漢字か単語をやってるよ』
よく毎日できるな、と感心すると、「習慣になってるから」という答えが返ってきた。
彼女にとってはもはや、歯磨きと同じレベルでこなせるのだろう。
「……やるか」
スマホをカバンにしまい、代わりに単語帳を取り出す。
「あら、翔。朝から勉強してるの?」
ダイニングから京香が顔をのぞかせ、目を丸くした。
「出発まで、少し時間が余ったから」
「最近、頑張ってるね。花音も見習いなさい。あなたもテストが近いのでしょう?」
「えー、別に今はやらなくていいでしょ。ちゃんとやってるし」
花音は椅子に浅く腰掛け、スマホを親指でスクロールしていた。
「一個だけでも、単語とかやったらどうだ?」
翔は控えめに口を挟んだ。
京香の言い方は強制するものではなかったが、親に言われるとやりたくなくなる気持ちは、よくわかった。
「一個だけじゃ、やっても意味なくない?」
「でも、入学してから今まで、毎日一個ずつ覚えてたら、けっこうな数を覚えられてるぞ」
「それは、まあ……確かに」
「マジで一個だけでいいんだって。やらないよりはマシだし、継続が大事だから」
彩花に口酸っぱく言われていることだ。
完璧にできないのは当たり前だけど、それであきらめるんじゃなくて、少しずつでも進め、と。
「……じゃあ、一個だけなら」
花音はしぶしぶ単語帳を開いた。
眉間にしわを寄せながら左ページを上から下へ追い、数十秒後には右ページへ目を滑らせた。
発破をかけた手前、翔も負けるわけにはいかない。使用済みプリントを引き出しから取り出し、白紙の裏へ単語を三回ずつ書き始める。
半分ほど埋めたところで、キッチンから京香の声が飛んだ。
「翔、時間は大丈夫なの?」
「えっ? ——やばっ、遅刻する!」
「アホじゃん——あ、支度しないと!」
花音も腕時計を見て顔色を変え、勢いよく立ち上がった。
「もう、お兄ちゃんがそそのかすから……!」
恨み節を吐きながら、単語帳を小脇に抱えてドタバタと階段を駆け上がっていく。
「あいつ、人のこと言えないじゃん」
「どっちもアホよ」
京香がため息混じりにつぶやく。
翔は答えずに単語帳や水筒をカバンへ詰めていく。反論する余地も余裕もなかった。
「翔、弁当忘れてるわよ」
「危なっ、サンキュー」
教科書類の上に弁当を乗せ、周りを筆箱などで固定する。
これで、走っても悲惨なことにはならないはずだ。
「せっかく作ってくれた弁当を忘れるなんて、親不孝だっ」
「お前は口よりも手を動かせっ」
階段から降りてきた花音の小言を打ち返しながら、玄関で靴を履く。
かかとを踏みそうになって、靴べらを探した瞬間、目の前にスッと差し出された。
「ちゃんと周りを見るのよ」
京香の指先が翔の肩に伸びて、サッと埃を払う。
「わかってる。じゃ、行ってきます!」
前を向いたまま背後に手を振り、翔は玄関を飛び出した。
最寄り駅までダッシュをして、電車を降りてから学校までも全力疾走をする。
以前は教室に滑り込むのがやっとだったが、今日はトイレの鏡で前髪を整えるくらいの余裕があった。意外と持久力もついているようだ。
自分の席に腰を下ろし、ハンカチで額の汗を拭っていると、一時間目のチャイムが鳴った。
「はい、席につけー」
鳴り終わると同時に、国語の担当である遠藤が入ってきた。
その眼差しが、息を整える翔に向けられる。
「草薙。髪をセットする暇があったら、まず余裕を持って行動しろ。時間にルーズなやつは、社会でやっていけないからな」
「はい、すいません」
翔は小さく会釈をした。
周囲の視線が一斉に滑ってくるのを感じる。頬が熱くなり、翔は下を向いた。ギシッと木製の椅子が鳴った。
そのとき、肘のあたりをちょん、と小突かれた。
「わざわざあんな言い方しなくてもいいですよね」
隣の席の菜々子が、小さな声で囁きかけてくる。
「だよな……サンキュー、蓮見。なんか気が楽になったよ」
「い、いえ、私が不満だっただけなのでっ」
菜々子は慌てたように手を振り、前に向き直った。
中学三年のときも同じクラスだったが、ずっとこんな調子だ。
(俺って、絡みづらいのかな)
翔は苦笑いを浮かべ、教科書に目を落とした。
◇ ◇ ◇
「ここ、主人公はどういう考えだったでしょう?」
遠藤が周囲を見回す。翔は手を挙げた。
成績は、テストの結果だけでは決まらない。ここで挽回しておく必要があるだろう。
「じゃあ、宮城」
指されたのは別の女子生徒だった。しかし、答えは外れた。
翔はもう一度、先ほどよりも高く手を上げるが、次に遠藤が指名したのも女子で、今度は正解だった。
「遅れましたー」
そのとき、間延びした声とともに、篠原葵が教室に入ってきた。
茶髪のギャルで、同じくギャルの佐藤小春がニヤニヤしながらその脇腹を突くと、葵は遠藤から見えないように後ろ手でピースをした。
「篠原、なに遅れてるんだ」
「すいませーん。寝坊しちゃって」
遠藤の叱責に対して、葵は悪びれた様子もなく舌を出し、頭をかいた。
寝癖は見当たらず、目元のメイクもきっちりで、指先にはネイルが光っている。
「夜更かしは肌に悪いぞ」
「はーい。気をつけまーす」
遠藤はメガネを押し上げながらため息を吐くが、口元はわずかに緩んでいる。
一つ咳払いをして、彼は黒板に向き直った。チョークの粉が舞い、レールに積もっていく。
「じゃあ、この言葉の意味は? 篠原」
「えっ、ウチ、手なんて挙げてないっすけど」
葵が怪訝そうに眉を寄せる中、翔は挙げかけていた腕を静かに下ろした。
わずかに腕が重たい気がするのは、柄にもなく挙手を繰り返しているからだろうか。
「遅刻してきたんだから、挽回しろ」
「えー、わかんないっす」
教科書をチラッと見ただけで、葵はお手上げのポーズを見せる。
本当にわからないのかもしれないが、それ以前に答える気がないのだろう。
「しょうがないやつだな。じゃあ、他にわかるやついるか?」
翔は気を取り直して、真っ直ぐに手を上げる。遠藤の視線が、一瞬だけ自分に向けられた気がした。
「じゃあ、名誉挽回。宮城、行こうか」
「あっ、はい」
宮城が意外そうに目を瞬きつつ、回答を口にする。
「正解だ。さっきのミスは帳消しにしてやろう。よし、次は——」
静けさに包まれた教室に、遠藤の声と軽いチョークの音のみが響いた。
◇ ◇ ◇
「じゃ、宿題はちゃんとやっておけよ」
チャイムとほぼ同時に遠藤が教室を出る。緊張が緩み、ざわめきが戻った。
翔が教科書を片付けていると、ふいに手元が暗くなり、ほのかに甘い香りが鼻先をかすめた。
「双葉?」
顔を上げると、彩花が腕を組みながら、翔を見下ろしていた。
彩花さんの用事とは……




