第45話 名前呼び、再び
「じゃあ、次は文章を出すから、訳してもらおうかな」
「了解」
放課後、共に草薙家へと向かう道中、翔は彩花から英語の問題を出してもらっていた。
「うーん、そうだね……」
顎に指を当てる彩花の表情がどこか楽しげに見えて、翔も頬を緩めた。
「よし、決めた。The more you practice, the better you get.」
「比較級か。練習すればするほど上達する?」
「正解」
彩花は指で丸を作って、イタズラっぽく瞳を細める。
「特に筋トレとか、これ実感してるんじゃない? 重量も上がってるし」
「そうだな。筋肉もまたちょっとついてきた気がする」
「おっ、いいねぇ。いずれ抜き打ちチェックしてあげるから、油断しちゃダメだよ」
「わかってる」
今の彩花は前向きに言っているが、以前は視線が泳いで、頬まで赤くなっていたのを思い出す。
男の体をチェックするのは難しい、という表現——ちょうど今回の文法範囲だ。
「俺からも出題していいか?」
「うん、もちろん」
「えーと……It’s difficult for Ayaka to check a man’s body.」
彩花がぴたりと足をとめた。
耳の先をほんのり色づかせながら、じろりと睨んでくる。
「……ごめん、ちょっと調子に乗った」
翔が頭を下げると、彼女はわざとらしく咳払いをしてカードを切り替えた。
「You should drink a glass of green juice.」
「緑茶を飲むべき? いや、それは green tea だよな……」
負けず嫌いな彩花のことなので、必ず翔への揶揄い返しの意味を含んだ文章だろう。
グリーンと聞くと、真っ先に野菜が思い浮かぶが、野菜ジュースでは普通の英語の文章だ。
「……もしかして、青汁?」
「正解。よくわかったね」
翔はガックリと肩を落とした。真面目に考えていた自分がアホらしくなってしまう。
「もうスムージーもつかなくなったのか」
「それだとわかりやすいかなって」
「細かい難易度調整いらないから」
眉をしかめると、彩花が「任せて」と親指を突き出してくる。翔は思わず笑ってしまった。
「にしても草薙君、英語だと彩花って言うんだね」
「あっ、いやだったか? 英語のペアワークだと、みんな名前で呼ぶからさ」
「なるほど、そういうことか」
先生が生徒全員を名前で呼ぶ影響もあって、自然と英語のときだけは、男女問わず名前で呼び合うことが多かった。
翔も隣の席の菜々子とは、英語のときだけ名前で呼び合っている。
「双葉はペアワークでも名字か?」
「You're right——Kakeru.」
「えっ?」
翔が思わず横を向くと、彩花がイタズラっぽく頬を緩めた。
「びっくりした?」
「……いや、別に」
翔はぶっきらぼうに答えて、そっぽを向いた。
勘違いしないとわかっているからこその揶揄いだろうが、心臓に悪いからやめてほしい。
「ごめんごめん。今後は『K.K』って呼ぶから。もちろん、『Kakeru KUSANAGI』の順番だよ」
「どっちでも変わらないから」
翔がツッコミを入れると、彩花が「いいねぇ」と満足そうにうなずいた。
どうやら、手のひらの上で転がされたようだ。少しだけ悔しいが、いくらやり返そうとしても、イニシャルでは何も浮かばなかったので、潔く諦めた。
「でも、問題って出すほうが難しいんだな」
「曖昧な理解だと無理だからね。じゃあ、ここからは草薙君が問題を出してよ。何でもいいから」
「じゃあ——」
翔は無難に単語やイディオムを口にした。
受け身、比較、句動詞。彩花はテンポよく答え続け、詰まる様子はない。
「もっと難しいのでもいいよ?」
「……わかった」
翔は、その余裕の表情を少しだけ崩してみたくなった。
「じゃあ、次は文章を訳して。Video games are too difficult for Ayaka to play.」
「OK. Buy a glass of green juice right now, Kakeru.」
低めの声で告げるなり、彩花がぐいっと翔の腕を引いた。
視線の先にはコンビニの看板が見える。
「か、勘弁してください」
「英語で」
淡々とした声音だ。ただの「sorry」では許されない気がした。
とはいえ、冗談を言えるほどの英語力はない。
「あっ——You are the best producer for me.」
「っ……」
翔が咄嗟に言葉を絞り出すと、彩花が息を呑んだ。
その指に力がこもり、掴まれた腕がわずかに締まる。
「……私たちの場合、『produce』よりも『mentor』のほうが、意味的には相応しいけど」
「双葉って、俺のメンターだったのか」
彩花はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。
眉間にシワを寄せ、ブンブンと翔の腕を振る。意表を突かれたことが悔しいのだろうか。
「……あの、双葉」
「なに?」
名前を呼んでも、振り子運動は止まらない。
「腕、離してもらってもいいか?」
「あっ……」
彩花は自分でも驚いたように、ぱっと手を放した。頬まで赤くなり、視線が泳ぐ。
皮膚に残る熱が全身を伝い、今度は翔の首筋まで熱くなる。
「……ごめん。私、ちょっと手汗かいてたかも」
「い、いや、全然大丈夫。最近、湿気すごいしな」
「ふふ……そうだね」
彩花の声のトーンがわずかに高くなる。
(なんだ、今のフォロー……)
胸の奥に生じたむず痒さを逃すように、翔は息を吐き出した。
「……あ、俺、ほんとにコンビニ寄りたかったんだった。ちょっと行ってくる」
学校を出るときは覚えていたのだが、彩花と白熱した攻防戦を繰り広げていて、すっかり忘れていた。
連行されかけた店へ自ら歩き出すと、彩花が弾んだ足取りで追いかけてきて、
「なになに、青汁?」
「違うよ。チョコ買おうと思ってて」
ノートのお礼だと言って、彩花がくれたチョコも、全て食べ切ってしまった。
「それなら、多分あっちのドラッグストアのほうが安いよ」
「どれ? ——あっ」
彩花が指差した、遠くにかすかに見える青いロゴを見て、翔は小さく息を呑んだ。
「どうしたの?」
「えっ、いや……ちょっと帰り道からは外れるかなって思って」
「全然付き合うよ。少し足を伸ばして安く買えるなら、そっちのほうがいいじゃん」
「それは、そうだけど……じゃあ、あそこ行こう」
彩花から提案してもらっている以上、固辞しすぎれば逆に怪しまれてしまうだろう。
翔は覚悟を決め、そちらに向かって歩き出した。
(昨日の店員さんに、会いませんように……)
脳裏に浮かぶのは、翔が意見を求めた際に、丁寧に教えてくれながらも、隙あらば事情を聞き出そうとしてきた女性店員の顔。
——そのドラッグストアはちょうど昨日、翔が彩花の誕生日プレゼントを買った店だった。