第44話 情報収集
「翔君、どうしたの?」
真美は食器を拭いていた手を止め、振り向いた。
その表情が少しだけ引き締まる。翔の硬い表情から、ただの世間話ではないと感じ取ったのかもしれない。
「変なことを聞きますけど……彩花さんに誕プレをあげてもいいですか?」
「どうして、そんなことを聞くの? 同級生なのだから、誕プレくらいはあげても普通だと思うけど」
穏やかな声色だが、どこか探るような響きだ。
「お世話になっているお礼も込めて、お菓子とかじゃなくて、もう少しちゃんとしたものを渡そうかと考えていて。だから、確認は取っておいたほうがいいかなと」
「——なるほどね」
真美がいつもよりも低い声でつぶやく。翔はごくりと唾を飲み、拳を握った。
やがて、真美はふっと息を吐き、口元を和らげた。
「もちろんいいわよ。彩花も絶対に喜ぶわ」
「っ……良かった。ありがとうございます」
手のひらが冷たい。気づかぬうちに汗をかいていた。
双葉家でここまで緊張したのは、輝樹と初めて会った日以来かもしれない。
「ちなみに、彩花さんってどんなものが——」
——ガチャ。リビングの扉が開き、翔は言葉を飲み込んだ。
「ん、草薙君、どうかした?」
「いや、なんでもない。弓弦は準備できてるか?」
話題を切り替えた瞬間、二階からドタドタと軽快な足音が聞こえた。
「お待たせー!」
大きな声とともに、弓弦がリビングに飛び込んできた。
練習着だけでなく、すでにサッカーソックスまで履いている。やる気全開だ。
「弓弦、そんなに急いだら滑るよ」
「うん! 翔くん、早く行こっ!」
彩花の注意に対して元気よく返事をしながら、弓弦は翔の服の袖を引っ張った。
「聞いてないよね、これ」
「えぇ、間違いなく聞いてないわ」
半眼で弟を見つめる彩花の言葉に、真美が苦笑いを浮かべた。
「しゅっぱーつ!」
「ちょっと、滑るから危ないって言ったでしょっ」
玄関に駆けていく弓弦を、彩花が腰に手を当てて追いかけた。
(お姫様モードならぬ、お姉様モード全開だな)
姉弟に続いて玄関に向かおうとする翔に、真美がスッと近寄ってきた。
「翔君。誕プレのことだけど——」
「あ、はい」
なにか、アドバイスをしてくれるのだろうか。
期待に胸を膨らませる翔に、真美は人差し指を立て、いたずらっぽくウインクした。
「あなたが一生懸命考えて選んだ物なら、彩花は喜ぶわよ」
「……頑張ります」
語尾に音符でも付きそうな言葉に、翔はガックリと肩を落とした。
「ふふ、そんな落ち込まないで。せっかく友達からプレゼントをもらったのに、母親の意見が混じっていたら、なんか嫌じゃない?」
「確かに、それはそうですね」
「それと、女の子はサプライズのほうが嬉しいわねっ」
「ハイ」
これで、彩花に直接尋ねる選択肢もなくなってしまった。
(琴葉に協力してもらうか? いや、絶対に揶揄われるよな。吉良はそこまで親しくないし……あっ)
そのとき、翔の頭に一つの考えが浮かび上がってきた。
自分で選ぶ必要があるだけで、情報収集は構わないだろう。有益な情報を得られる確率は高くないが、試す価値はある。
「翔くん、早くー!」
「おう、今行くー」
弓弦に急かされ、翔は早足で玄関に向かった。
◇ ◇ ◇
「私、ちょっと抜けるね」
「なら、翔くん、壁当てで対決しよ!」
彩花が休憩を宣言すると、弓弦が広場の端にある低いコンクリートの壁を指さして、目を輝かせた。
前に一度成功させている分、自信があるのだろう。
(やっぱり、小さなことでも成功体験って大事だよな)
特にここ最近、翔が実感していることだった。
髪のセットしかり、筋トレしかり、嫌なことや辛いことでも挑戦できるようになったのは、間違いなくこれまでの積み重ねの賜物だ。
「じゃあ、僕が先ね! 一発で当てちゃうよー」
そう意気込んだ弓弦のボールは、的である丸いマークをわずかに外れ、跳ね返った。
翔も二倍ほどの距離から狙うが、双方なかなか当てることができない。
「弓弦、頑張れー」
彩花がボールを弓弦に手渡し、その頭をポン、と撫でた。
彼女は自ら、ボール拾いに立候補してくれたのだ。
「……よし」
弓弦は息を漏らすと、それまでよりも丁寧にボールをセットした。
(おっ、集中してるな)
翔は軽く目を見張った。——その直感は正しかった。
柔らかな弧を描いたボールは、マークの中央に当たった。ダーツであればブルだ。
「やったー!」
弓弦が飛び跳ねる。
「ナイス、弓弦」
「イエーイ!」
翔が手のひらを差し出すと、弓弦が勢いよくハイタッチをしてきた。少しだけしびれた。
彩花もボールを回収すると駆け寄ってきて、今度はわしゃわしゃと頭を撫で回した。
「すごいじゃん! 格好いいよ、弓弦」
「えへへ〜」
姉に褒められ、弓弦はご満悦な様子で鼻の下をこすった。
「さ、次は草薙君の番だよ」
「おう、サンキュー」
翔は彩花から受け取ったボールを、先ほどの弓弦のように丁寧にセットした。
決めればドロー、外せば負けだ。
「筋トレの成果、見せてよ」
「ほとんど関係なくね?」
「まあまあ、頑張って」
彩花がそっと翔の背中に触れ、定位置に戻っていく。
痛みなどないはずなのに、その感覚は背中に染み込み、なかなか消えなかった。
「……ふぅ」
翔は一歩引いて呼吸を整えた。
しかし、それまでよりも慎重に蹴ったボールは、マークのわずか左に当たり、ちょうど彩花の足元に跳ね返った。
「勝ったー!」
弓弦は、劇的な逆転ゴールを決めたサッカー選手のように、両手を掲げて走り出した。
「草薙君——」
彩花がボールを片手に近づいてきて、走り回る弓弦を見ながら目元を和らげた。
「ありがとね、弓弦を勝たせてくれて」
「いや、普通に俺が外しただけだよ」
翔が肩をすくめると、彩花は片頬だけで笑ってみせた。
「そうかもね——最後だけは」
「っ……わかってたのか」
あからさまに手を抜いていたわけではない。それでも、本気で狙っていたかと言えば、そうではなかった。
彩花の言う通り、最後は本気だったので、負けたことに変わりはないが。
「大丈夫。弓弦は気づいてないから」
そうではなく、彩花に見抜かれていたことが問題なのだ。
ただ、嬉しいのか恥ずかしいのかは、翔自身でもわからなかった。
セレブレーションを終えた弓弦が、息を切らせながら戻ってくる。
「あれ、翔くん。なんか顔が赤くない?」
「汗かいたからさ。それより弓弦、次はどうする? ちょっと休むか?」
「ううん、大丈夫。次はあれしよ!」
ピシッと伸ばされた指の先には、赤い棒が格子状に噛まれた遊具があった。
「ジャングルジムか。いいぞ」
「よっしゃ!」
弓弦が拳を握りしめ、パッと駆け出した。
10秒前まで走り回ってたというのに、相変わらず元気だ。
「双葉はどうする?」
「私はベンチで休んでようかな。弓弦を任せていい?」
「大丈夫だよ」
弓弦の希望でパス回しなども一緒にやらされていたため、少し疲れたのだろう。
ジャングルジムは公園の奥に設置されているため、ベンチに座る彩花からは、少し離れる形になった。
(チャンスだ——)
翔は小走りで弓弦に駆け寄った。
「弓弦。登る前に、ちょっといいか?」
「うん、どうしたの?」
早速棒に手をかけていた弓弦が、不思議そうに首を捻る。
「あのさ、お姉ちゃんの好きなものってわかるか? ほら、もうすぐ誕生日だから、プレゼントあげようと思ってて」
なにかヒントがあればいいな、という程度の軽い気持ちだった。
——だからこそ、油断していた。
「あっ、それなら、僕が聞いてくるよ。お姉ちゃーん!」
「ちょ、ちょっと待った!」
翔は慌てて弓弦の口を手で塞いだ。「ふぐっ」というくぐもった声が漏れた。
「どうしたの?」
「い、いや、あとどれくらいで帰ろうかなって」
怪訝そうな表情でこちらに向かってくる彩花に、翔はぎこちない笑みを浮かべた。
「ふーん?」
じっと凝視され、翔は視線を逸らしてしまった。
「……そうだね。もう二、三十分じゃない?」
「了解。俺も気をつけるけど、時間過ぎそうだったら声かけてくれて」
「うん。そっちも、またなにかあったら声かけて」
「おう」
彩花はベンチに戻ると、浅めに腰掛けて頬杖をついた。納得はしていないのだろう。
もう少し、うまく誤魔化すべきだった。美波の一件で、隠し事に敏感なのはわかっていたのに、咄嗟のことでテンパってしまった。
「……ねぇ、お姉ちゃんに聞いちゃいけなかったの?」
「いや、そんなことないよ」
不安げに見上げてくる弓弦の頭に、そっと手を置く。
「確かに、本人に聞くのが確実だから、弓弦は正しかったよ」
弓弦を責めるつもりはなかった。
彼くらいの歳なら、秘密裏に進めるという発想がまだピンと来ないのも無理はない。
「だったら、なんでお姉ちゃんに嘘をついたの?」
「お姉ちゃん、もうすぐ誕生日だろ? 実は、サプライズでプレゼントを渡したいって考えてるんだ」
「さぷらいず?」
「内緒ってこと」
首を捻る弓弦に、翔は人差し指を口に当てるジェスチャーをした。
「なんで内緒にするの?」
「ほら、お父さんが突然帰ってきたとき、驚いたし嬉しかっただろ? あんな感じにしたくて」
「あっ、わかった! じゃあ、僕も黙ってるね!」
「助かる。ありがとな」
頭をポンポンと撫でると、弓弦が「えへへ〜」と、白い歯を見せた。
彩花は真美似で、弓弦はどちらかといえば輝樹に似ているが、笑顔を見ると、やはり姉弟なのだなと実感する。特に、エクボのでき方がそっくりだ。
「でさ、お姉ちゃんの好きなものとか、『これ欲しい』って言ってたもの、なにか覚えてるか?」
「えっとね——」
◇ ◇ ◇
(初めてあげるし、日常的に使う消耗品とかが無難だよな……)
翔は夕食後、ソファーに腰を下ろし、スマホでいくつもサイトを渡り歩いていた。
弓弦からも、さりげなく有益なヒントは得られている。夏場よりは乾燥する冬に重宝するものだろうが、彩花は一年中、使っているらしい。
「お兄ちゃん。なに難しい顔してるの?」
花音が歯ブラシを咥えたまま、洗面所からひょこっと顔を出した。
「花音……いや、なんでもない」
「えっ、なに今の間」
「マジでなんでもないから」
一瞬、相談しようか迷ったが、琴葉と同じく、確実に揶揄われる未来が見えた。
距離が近い分、面倒くささはおそらく花音のほうが上だ。
「ま、いいけど。そういえば、明後日だっけ? 彩花さんが来るの」
「金曜日だから、そうだな」
筋トレのスケジュールや京香の都合もあり、少し遅くなってしまった。
いくら放任主義でも、さすがに息子と同級生の女の子を、完全に二人きりにする気はないらしい。
「順調に進んでるねぇ」
「勉強するだけだから。終わったらゲームくらいはするかもだけど、それくらい友達なら普通だろ」
「そうかなぁ?」
花音がわざとらしく語尾を上げる。
反応するのも癪なので、翔は再び画面に目を落とした。やはり、アドバイスを求めなくて正解だったようだ。
(通販よりは、実物を見たほうが確実だよな……明日、買いに行くか)
翔君は何を選ぶのでしょうか……?