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幼馴染にフラれた日、ヤケクソで助けた男の子の姉がクラスのお姫様だった 〜お姫様直々のプロデュースで、幼馴染を見返します〜  作者: 桜 偉村
第四章

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第39話 お姫様の丸印と、背後からの視線

 翔が制服の第一ボタンを留め、洗面所で指先にワックスをのせると、背後から足音が近づいてきた。


「あれ、学校にはセットしていかないんじゃなかったの?」


 鏡越しに、花音が目を見開く。


「ちょっとな」

「あっ——もしかして、彩花さんに何か言われた?」


 花音は腕を組み、口の端を持ち上げた。


「いや、そういうわけじゃないけど」

「ふーん? ま、なんでもいいけど、失敗しても落とす時間はないからね。私も後で洗面所、使うから」

「大丈夫だって」


 指の間まで、ワックスを伸ばしていく。ほんのり温かい。ここを省略しないことが失敗しない一番のコツだ。

 ただ、別に完璧に仕上げられなくてもいい。大事なのは、髪の毛をセットした状態で学校に行くことだ。


 陰キャが背伸びして、と馬鹿にされるかもしれない。その光景が脳裏に浮かんで、喉が渇く。

 それでも、周囲に認められなければ身の安全は確保できないし、また絡まれるようなことになれば、彩花は責任を感じてしまうだろう。

 あんな辛そうな表情を見るのも、距離を取られるのも、二度とごめんだ。


(結局のところ、全部自分のためなんだよな)


 それでも構わないだろう。誰かに迷惑をかけるわけではないのだから。

 ただ、失敗したら花音に迷惑をかけてしまうかもしれないので、翔はいつも通りを心がけながらも、少しだけ慎重にワックスを髪に滲ませていった。




◇ ◇ ◇




(風のせいで、ちょっと割れたか)


 教室へ向かう前に、トイレの鏡を確認して、軽く前髪を整える。初めての経験だ。

 扉が開く気配がして、慌てて鏡の前から離れた。入ってきたのは、見知らぬ生徒だった。


(別に、見られてもいいはずなんだけどな……)


 教室に足を踏み入れると、ちょうどこちらを向いていた何人かが、軽く眉を上げた。

 ——その中でも、香澄の反応は際立っていた。中央よりやや後方の席に腰掛けたまま、口を開いて呆然としている。


(俺が髪セットするとか、あいつからしたら信じられないよな)


 翔が苦笑を浮かべると、香澄はハッとした表情になり、椅子に座り直し、髪の毛を耳にかけた。

 彩花の姿は見当たらない。カバンはあるので、トイレにでも行っているのだろう。少しだけ、肩の力が抜けた。


 椅子に腰を落ち着け、体を右へ回して斜め後ろを振り向く。

 香澄は机上の参考書に目を落としていた。顔を上げる気配はない。翔はすぐに、体を正面に向けた。


 もっと早く頑張っていれば、フラれずに済んだのだろうか――そんな疑問が浮かぶ。けれど、胸が苦しくなることはもうなかった。

 あの経験があったからこそ、彩花のプロデュースを受けることができて、少しだけ挑戦できるようになったのだから。


 どんな経験も、捉え方次第。

 フラれた直後に潤が言っていた言葉が、今になって腑に落ちた。


「その女が、こっちはキッパリ断ったのに、友達からならいいでしょとか、食い下がってきてさ——」


 浩平の声が聞こえてきた。

 取り巻きの秋野(あきの)長谷川(はせがわ)を連れて、教室に入ってくる。


 鼻で笑われるのではないか——そんな不安がよぎった。

 しかし、浩平たちは翔を視界に捉えると、驚いたように息を呑んだ。お互いに顔を見合わせるだけで、絡んでくる気配はない。


(……馬鹿にできるほど、変ではなかったってことか)


 皮肉なことだが、浩平たちの反応が一番、自信になった。

 こちらに気を遣うことがないからだ。


「はい、席につけー」


 教師が入ってくるのと同時に、ポケットの中でスマホが震えた。

 間もなくして授業開始のチャイムが鳴ったため、後で確認することにした。




 一時間目が終わり、メッセージアプリを起動すると、口をあんぐり開けたウサギのスタンプが目に飛び込んできた。

 送り主は彩花だ。


(これは、なんと返すのが正解なんだろう……いや、そもそも返信する必要あるのか?)


 翔がスタンプを漁っていると、目の前に人の立つ気配がした。——彩花だった。


「まさか、セットしてくるなんて思ってなかったよ。習い事のとき、そんな話してなかったよね?」

「……まあ、なんとなく、やってみようかなって」


 ほんのり唇を尖らせる彩花に対して、翔は頬をぽりぽりと掻いた。

 プロデューサーとしては、報告してほしかったのだろう。

 翔もそれが筋だとは思った。けれど、なんだか気恥ずかしくて、言い出せなかった。


「そっか。なかなか似合ってると思うよ」


 彩花はそう親指を立てると、あっさり席へ戻っていった。浅めに釘を刺しただけで、少なくともここで追及する気はないらしい。

 間もなくして、再びウサギのスタンプが送られてくる。今度はサムズアップをしていた。一応、及第点はもらえたようだ。


 翔はスマホを伏せると、そっと息を吐いた。




◇ ◇ ◇




「全員にプリントが渡ったら、五分計るからな。教科書とかノートは見ないように。どんな解き方でもいいぞ」


 二時間目の数学の途中で、担当の橋本(はしもと)がプリントの束を手に取った。

 翔の席は左から二列目、前後どちらからでも三列目だ。前の席から回ってきた紙を受け取り、枚数が多いことに気づく。


「先生、一枚余りました」

「おう、助かる」


 席に戻る頃には、他の列も配り終えていた。


「じゃあ、始め。発展問題だけど、諦めるなよ」


 問題は、昨夜ワークで解いたものと酷似していた。


(確かこれを解いたのは、下に水を取りに行った直後のはず——あっ)


 その瞬間、解説文が写真のように蘇ってきた。翔はサッとペンを手に取った。

 計算をしている間に、次にやるべきことが浮かんでくる。手は一度も止まらなかった。


「あと二分」


 橋本の声とともに、答えにアンダーラインを引く。発展問題で時間が余ったのは、初めてのことだった。

 見直しをするが、計算ミスや矛盾は見当たらない。

 周囲ではまだコツコツという音が続いている。翔は机の下で小さく拳を握った。


「はい、そこまで。大問一、わかるやついるか?」


 少し迷ってから、手を挙げる。

 珍しかったのだろう、橋本の目がすぐに止まった。


「おっ、じゃあ——草薙」

「はい。Xが二、Yが六です」

「正解だ」


 声にならないどよめきが起こる。注目が集まるのを、肌で感じた。

 口元が緩んでしまう。刺すような視線以外を浴びるのは、いつ以来だろう。


「発展問題だったのに……草薙君、数学が得意だったんですね」


 隣の席の蓮見(はすみ)菜々子(ななこ)が、ヒソヒソと話しかけてきた。メガネの向こうで、目を丸くしている。

 数少ない中学の同級生だが、今も敬語が抜けないのは性分なのだろう。


「たまたま予習しててさ」

「それはそれですごいですよ。私なんて、宿題をするだけでも精一杯なのに」


 菜々子が小さく身を縮こまらせた。


「俺もちょっと前まではそうだったよ」


 彩花との定期的な勉強会のおかげで、最近は宿題以外にも手が伸びるようになってきた。勉強そのものが苦ではなくなったのが大きい。


(俺が頑張れてるの全部、双葉のおかげなんだよな……)


 彩花のほうへ顔を向けると、目が合った。

 彼女は人差し指で小さく丸を作り、目元を和らげた。


「っ……」


 胸の奥がくすぐったくなる。翔は軽く咳払いをして、黒板へ向き直った。

 ——だから、後方から肩越しにじっと注がれていた視線には、気づかなかった。

視線の主は、誰なのでしょうか……次回は、その人物視点のエピソードです!

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