第31話 お姫様からの電話と、予想外の対面
「もしもし、双葉?」
『急にごめんねー。今、大丈夫?』
耳に届いた声は、いつもの張りを保っていた。
悪い知らせではなさそうだと、翔は肩の力を抜いた。
「平気だよ。どうした?」
『昼休み、迷惑じゃなかったかなって、気になってさ』
「あぁ、全然。ずっと潤がいたから、そっちもタイミング難しかったろ」
『まあね。でも、いい友達じゃん。緑川君がバックにいるとなれば、あいつらもなかなか手は出せないでしょ』
「……まあな」
潤は技術室での一件以降、部活に行くまでずっと翔のそばにいた。
秋野が本当に翔を狙っていたのかは断定できないが、潤の狙いにはもちろん気づいていた。
(古田も、潤に睨まれてビビってたしな……宿題、ちょっとくらいは手伝ってやるか。教えるのも勉強になるし)
『あっ、今ニヤニヤしてるでしょ』
「してないわ」
見られているわけでもないのに、横を向いてしまう。
受話口の向こうで、くすっと笑う気配がした。耳の奥がじわりと温かくなる。
『ちゃんとお礼は言った?』
「いや、別に言ってないけど」
『ダメだよ。ちゃんと言葉で伝えないと、伝わるものも伝わらないんだから』
穏やかな口調なのに、どこか実感がこもっているように感じられた。
「……わかったよ。今度言っとく」
『怪しいなぁ。草薙君、行けたら行くで来ないタイプでしょ』
「みんなそうだろ」
『私はほんとに行けたら行くよ? 嫌なときは断るもん』
「確かに」
浩平の誘いを全部断ってきたことを、翔は思い出した。
嘘をついて断るのも、行けたら行くと濁すのも、あまり変わらない気はするが。
『というか、緑川君と土曜に遊ぶって言ってたよね? その日、ジムあるよ』
「えっ」
慌ててスマホを持ち替え、カレンダーを確認する。
しっかり「ジム」の文字が並んでいた。
「あれ、今週は日曜じゃなかったっけ?」
『ほら、私が美波と遊ぶから、予定変えてもらったじゃん』
「そうだった。えーっと、じゃあ、申し訳ないけど土曜の午前中でもいいか? 多分、潤が来るの午後だから」
午前中は、部活があると言っていた。
『いいけど、朝起きれる?』
「起きれたら行くわ」
『おい』
電話口から漏れた柄にもなくガラの悪いツッコミに、翔は吹き出してしまった。
「心配すんな。ちゃんと行くから」
『約束だからね』
彩花が念を押してくる。
今朝の遅刻未遂で、信用度が下がってしまったのかもしれない。
(なら、ちょうどいいかもしれないな)
次回は、双葉家のジムを使わせてもらってから、ちょうど一ヶ月。
機嫌取りというわけではないが、誠意を示すチャンスではあるだろう。
◇ ◇ ◇
土曜の朝、駅前は薄い雲に日差しが拡散されていて、光が柔らかかった。
翔が階段を降りると、改札の向こうに彩花の姿が見えた。
「おはよう、双葉」
「うん、おはよ。あっ、それ……」
彩花の瞳が、翔の持っている箱に向けられた。
「一ヶ月、経ったからさ」
「そっか。ありがと。そういうとこ、高評価だよ」
「よかった」
ある程度、信頼を取り戻すことには成功したようだ。
「じゃあ……行こっか」
彩花は家のほうに向かって歩き出すが、どこか足が重い。
少なくとも、いつもの軽快な様子とはまるで違っていた。
「双葉、どうした?」
「えっ? あっ、いや、別に大丈夫だよ」
歯切れも悪い。何か不都合でもあるのだろうか。
「タイミングが悪いなら、今日はやめとくか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……うん、いいや。いこ!」
「お、おう」
言い切ってから、彩花は大きく一歩を踏み出した。
どこか決心が混じった足取りに、翔はケーキの箱を持ち直して着いて行った。
双葉家に到着すると、玄関が開いて真美が顔を出した。
「いらっしゃい、翔君」
「お邪魔します。あの、これ……一ヶ月、経ったので」
「まあ、悪いわねぇ。じゃあ、あとでみんなで食べましょうね」
「はい」
靴を脱ぎながら、翔は見慣れない大きめの男物の靴に気づいた。
(……彼氏、ってことはないよな)
胸の奥がわずかにざわつく。
リビングの扉を開けたところで、奥から低い声が届いた。
「いらっしゃい」
太い声に違わない、大柄な体躯とがっしりした肩——いわゆるマッチョが、ソファーに座ってこちらを見つめていた。
翔は思わず背筋を伸ばした。
「あっ、えっと……」
「ごめんね、驚かせて。実はお父さんがサプライズで帰ってきてて」
彩花が小さく肩をすくめる。
(なるほど。それでちょっとぎこちなかったのか)
翔は合点がいき、頭を下げた。
「草薙翔です。いつもお世話になってます」
「彩花の父の双葉輝樹だ。君が、うちのジムを使っている子か」
「は、はい」
鋭い眼光が突き刺さり、手のひらに汗がにじむ。反射的に拳を握りしめていた。
輝樹はのっそりと立ち上がると、腕を組み、無表情のまま近づいてきた。
「——脱げ」
「……えっ?」
「シャツを脱げと、言っているんだ」
何を言われたのか分からなくて、固まっていると、輝樹は当然のように繰り返した。
「え、えっと、どうしてですか?」
「成果を見るに決まっているだろう。こだわっていろいろ揃えたからな。当然、結果は出ているのだろう?」
「あぁ……なるほど」
一応、理屈は通っている。
翔はシャツに手をかけながら、彩花に目を向けた。
「上半身くらい見られても恥ずかしがるな。男だろ」
「あっ、いえ……」
人前、それも同級生の女の子とその父親の前で脱ぐということに、やはり恥ずかしさはある。それでも、耐えられないほどではない。
問題は彩花のほうだ。彼女は以前、事故で翔の上半身と対面したとき、真っ赤になって動揺していた。
大丈夫なのか——。
そう問いかけるように見ると、彩花は一瞬もじついたが、目を逸らさずに口を開いた。
「プロデューサーとして、確認しておく必要があるから」
声は硬かったが、そこには確かな意思がこもっていた。
翔は軽くうなずくと、ゆっくりとシャツを頭上へ抜いた。空気が肌に当たり、ひやりとする。
輝樹は難しい顔で、肩から胸、腹へと順番に視線を滑らせた。
彩花は頬をほんのり染め、目線の置き場を探しているようだった。
(なんなんだろう、この状況……)
翔も目のやり場に困り始めたころ、輝樹は「ふむ」と、ひとつうなずいた。
「まあ、頑張っているのは伝わる。これなら、娘を任せても問題ないかもしれないな!」
「……へっ?」
彩花が間の抜けた声を漏らし、その場で固まった。頬の色味だけが、時間の経過とともに濃くなっていく。
翔も体が熱を持つのを感じながら、慌てて手を振ってみせる。
「あっ、いえ、僕たちはそういう関係じゃないので」
「そうなのか? まあ、なんにせよ仲良くな!」
輝樹が豪快に笑い、肩を叩いてくる。
少しだけ痛かったが、距離の近さに肩の力は抜けた。最初の圧は、翔を試していたのだろう。もしかしたら、彩花にも自分の存在は黙っておくように言っておいたのかもしれない。
「あの、改めて、ジムを使わせてもらってありがとうございます」
「いや、むしろ有効活用してくれているのなら嬉しいことだ。せっかくこだわって作ったのに、放置されているんじゃ寂しいからな。それに、使用料も払ってくれているのだろう?」
輝樹があごで冷蔵庫を示す。真美がケーキの箱を掲げて見せた。
「ささやかですけど」
「心意気が素晴らしいんだ。俺としては真剣に筋トレに取り組んで、彩花を悲しませなければ十分だけどな」
「はい」
翔は表情を引きしめて、しっかりとうなずいた。
すると、隣で布の擦れる音がした。彩花が身じろぎをしたようだ。
「双葉、どうした?」
「い、いや、なんでもない」
彩花は慌てたように首を振った。ほんのり赤らんでいるのは余熱だろう。
振動音が響いた。テーブルの上のスマホが震えていた。
「おっと、会社の人から電話だ。失礼」
輝樹が廊下に出ると、入れ替わるように真美がやってくる。
「ごめんね、変なことさせて」
「全然。使わせてもらってる身ですし」
「翔君がどんな子か、気になってたのよ。ちょっと不器用だけど、悪い人じゃないから安心してね」
「いえ、なんとか認めていただけたようでよかったです」
彼氏でもないので、「ウチの娘はやらん」などと言われるとは思っていなかった。
それでも、男の同級生がしょっちゅう出入りしているというのは、娘を持つ父親からすれば、気が気でなかったはずだ。
「最近は草薙君のほうが長くウチにいるんだから、もっと強気でいってもいいんだよ?」
「無理だって」
彩花にイタズラっぽく二の腕を叩かれ、翔は肩をすくめた。
すると、彩花の視線がふと、翔の上半身に落ちた。
「っ……」
彼女は息を呑むと、オロオロと瞳を泳がせ始める。
もうシャツは着ているのに、先程の光景を思い出してしまったらしい。
(この免疫のなさは、マジでお姫様っぽいな……)
二重の意味で彩花に怒られそうなことを考えながら、咳払いをする。
ちょうどそのとき、沈黙を裂くように階段を軽やかに駆け降りる足音が響いて、翔はそっと息を漏らした。
今朝、現実世界(恋愛)の日間ランキング五位に食い込んでました……! 皆様のおかげです。ありがとうございます!