第30話 親友の怒りと、お姫様の突撃
一時間目の国語の担当教師は以前、彩花にノート運びを頼んだ遠藤だ。
遠藤は教室に入ってくるなり、彩花に目を向けた。
「双葉。なにをニヤニヤしているんだ?」
「い、いえ、別になんでもないです」
彩花は首を横に振り、背筋を正した。注目を集めたせいか、耳の先がうっすら赤くなっていく。
遠藤が鼻を膨らませ、さらに口を開こうとした、そのとき——
「せんせー。そういうの、セクハラになりますよー」
浩平だった。わざとらしく語尾を伸ばしている。
見下すような口調に、遠藤の眉間にシワが寄る。しかし、浩平に同調するクラスの空気を察したのか、誤魔化すように咳払いをした。
「じゃあ、授業始めるぞー」
言い方はゆったりしているのに、語尾が震えていた。
一文字目を書き切る前に、遠藤の持っていたチョークが折れると、あちこちから押し殺した笑いが漏れた。
翔はさりげなく、浩平に目を向けた。
ちょうど向こうもこちらを見ていたようで、勝ち誇ったように口元をゆがめた。
(満足してくれたのなら、それでいいんだけどな……)
どこか笑っていないその瞳に、胸の奥がざわついた。
二時間目は技術だった。技術室は別棟にあるため、すのこの連絡通路を渡り、小さな階段を上る必要がある。
翔が階段に足をかけた瞬間、背後で短く声が重なった。
「「いてっ……」」
次いで、金属製のものがコンクリートを転がる甲高い音。
振り返ると、潤が顔をしかめ、そばで浩平の取り巻きの秋野がよろめいていた。足元には転がった水筒が光っている。
お互いに一言謝る程度で終わるだろう、と翔は思った。
しかし、潤は半歩進み出て、翔と秋野の間に立つと、低い声で告げた。
「——気をつけろよ」
「「「っ……」」」
その場の空気が固まった。秋野だけでなく、周囲の数人が同時に唾を飲み込む。
翔も例外ではなかった。これほどまで怒りを剥き出しにしている潤は初めてだ。
しかし、ぶつかった程度で機嫌を損ねる性格ではないはず。わざとぶつかられたのだろうか。
「潤、大丈夫か? どうした?」
「……いや、なんでもねー」
潤は顔を横に向けた。
その視線を追うと、少し離れた場所で浩平が顔をしかめていた。
しかし、すぐにハッとしたように目を逸らした。隣にいた、もう一人の取り巻きである木下も同じだった。
(まさか、秋野は潤じゃなくて、俺に——)
「ほら、翔。さっさと入ろーぜ」
潤に肩を叩かれ、思考が中断する。
こちらを促す潤の表情は、もういつもの調子に戻っていた。
技術室に入ると、先に到着していた彩花が眉尻を下げてこちらを見つめていた。
翔が片目をつむってみせると、その頬がわずかに緩んだ。何事も、上手ければいいわけではないのだ。
「翔、目にゴミでも入ったか——ぐふっ」
純粋に心配してくれている様子の潤には、お礼代わりにチョップをしておいた。
◇ ◇ ◇
技術の授業中も、終了後も、どうしても浩平たちの動きを目で追ってしまっていた。彼らが仕掛けてきたとは断定できないが、偶然とも思えなかった。
しかし、彼らはあれ以来、近寄っても来なければ、目すら合わせてこなかった。あれだけ露骨に睨んできた相手が、急に背中を向けると、逆に落ち着かない。
接触してこないのは、彩花も同じだった。
もしかしたら、どちらもタイミングがなくて、二の足を踏んでいるのかもしれない。というのも——、
「翔、食欲ねーのか?」
体育から現在の昼休みまで、潤がずっと翔のそばにいるのだ。
「いや、腹は減ってるよ」
肉を頬張り、ご飯をかき込む。
浩平たちに関しては絡んでこないのが一番だし、彩花についても、こちらからできることはない。
「そういやさ、翔。今度の土曜の午後って暇か? 部活の後、またお前んち行かせてくんね」
「いいけど、宿題は手伝わないからな」
「わかってるって。前と同じ、三連勝したらってルールだろ?」
「違うわ。どうなっても手伝わないって意味だよ」
軽くチョップすると、潤が頭を押さえながら「ひでーなぁ」と眉を下げた。その瞬間、教室がざわめいた。
視線を上げると、彩花が美波を伴って、まっすぐこちらへ向かってきていた。
何をするつもりなのか。背筋が伸びる。
机の前に立った彩花は、青色のノートを差し出してきた。
「草薙君。数学のノート、ありがと。助かったよ」
「おう」
昨日、彩花があまりノートを取ってなかったらしく、翔が貸してたのだ。
翔は浩平たちの視線から逃れるように没頭していたため、黒板の文字は全て書き写していた。
「それと、これ」
彩花が取り出したのは、緑色の手のひらに収まるほどの箱。
翔が勉強前などに食べている、カカオ成分七二パーセントのチョコだった。
「えっ、そんなのいいのに」
「いいのいいの。また貸してもらうことあるかもしれないし、ほんの気持ちってことで」
グイグイ箱を押し付けてきて、指先同士が軽く触れ合った。
彩花は小さく肩を震わせたが、それでも力は緩めない。絶対に引かないという気合いが感じられた。
「……じゃあ、もらっとくわ。ありがとな」
「二人って、仲良いんだね」
美波はわざとらしく二人を見比べて、目を細めた。
「まあね。いろいろ助けてもらってるよ。草薙君はジェントルマンだから」
彩花の目元が和らぐ。翔は無意識に呼吸を整えた。
周囲の席でも、息を呑む気配が点々と起きる。視界の端で、浩平たちがぽかんと口を開けた姿が見えた。
「昨日の習い事も、おかげさまでなんとか間に合ったしね」
「彩花、なんかぼーっとしてたもんね。なにか悩みでもあった?」
「べ、別になにもないよ。変なこと言わないで」
声が半音高くなり、頬がほんのり染まる。美波は「はいはい」と肩をすくめた。
(吉良は、別に牽制してこないな)
以前の浩平たちとの絡みを見ていたため、少し心配だったが、どうやら杞憂で終わりそうだ。
彩花もいるからなのか、相手が翔だからなのかはわからない。
その後は少しだけ雑談をして、彩花と美波は自分たちの席に戻っていった。
翔が顔を前に戻すと、真正面で潤と目が合った。
「潤、うるさい」
「まだ何も言ってねーよ」
憮然とする潤を見て、翔は思わず吹き出した。
それ以降、学校で彩花が接触してくることはなかった。
——しかし、接触自体はそれで終わりではなかった。
放課後。家に帰って手洗いうがいを終えたところで、リビングから花音の声が飛んだ。
「お兄ちゃん、電話」
「おう、サンキュー」
スマホを差し出してくる花音の口元は、ニヤついていた。
画面には『双葉 彩花』と表示されていた。
「本日二回目ですか?」
「勝手に見るな」
翔は素っ気なく返し、階段を上りながら通話ボタンを押した。