第29話 過去の記憶と、今後の方針
「幼馴染じゃなかったら、お前なんて見向きもされてねえよ」
「運が良かっただけなのに、よくそんな堂々と付き合えるよな。逆に尊敬するわ」
鼻で笑われ、翔は拳を握りしめた。
そうかもしれない。けど、他人にとやかく言われる筋合いはないはずだ。
「あっ? なんだよ、その目は?」
「一丁前に睨み返してんじゃねーぞ!」
怒号とともに、腕がまっすぐ胸元めがけて伸びてくる。
逃げなければ、とわかっているのに、体が固まった。胸ぐらをつかまれ、背中に冷たい衝撃。ざらついたコンクリートが肌を刺す——
「——っ!」
翔は跳ね起きた。心臓がうるさいほど脈打つ。
周囲を見回すと、薄いカーテン越しの光が机の角を白く縁取り、椅子の背に影が落ちている。見慣れた自室だった。
「夢か……」
中学時代の夢を見るのは、久々だった。
額の汗を拭い、布団をめくる。湿気が肌に張りついていた。
「翔、遅刻するよー」
階下から、母の京香の声が聞こえた。
いつもならここで起き上がるはずが、背中が沈み込んだまま動かない。
「ふわぁ……」
あくびが漏れる。
寝不足も一因だろうが、気が乗らない最大の理由は、なかなか寝付けなかった原因そのものだった。
(昨日のは、やっぱり喧嘩を売ったようなもんだよな……)
間違いなく浩平たちの恨みは買っただろうし、他の男子たちも不快に感じたかもしれない。
後悔はない。少しだけ自信もついた。けど、それですべて平気になるわけではない。
またどこかに呼び出されたら——そう考えるだけで、体が震えた。
「行きたくないな……」
口にしてから、自分でも驚いた。
香澄にフラれたときでさえ、こんな思いを抱いたことはなかった。
気づけば、スマホに手を伸ばしていた。何かを期待していたわけではない。
それでも、手に取った瞬間、見計らったようにメッセージの着信があった。彩花からだった。
『おはよー。昨日は厳しくしすぎちゃってごめんね。腕大丈夫? 制服着られそう?』
筋肉痛を心配する文面に、口元が緩む。もはやプロデューサーというより完全にトレーナーだ。
『平気だよ。指が震えてうまく打てないけど』
すぐに既読がついた。十秒ほどして、スマホが着信音を奏でた。
咄嗟に通話ボタンを押して耳に当てると、彩花の声が聞こえてくる。
『もしもし、草薙君?』
「おう。どうした?」
『そんな状態で打たせるのもかわいそうだと思って』
「大丈夫だよ。半分冗談だから」
『なんだ。ならよかった』
彩花がくすっと笑みを漏らした。
実際に吐息がかかっているわけでもないのに、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「朝なのに、電話してて大丈夫なのか?」
『うん。今朝はなんとなく目が覚めちゃって、もう支度もほとんど終わってるんだ。そっちは?』
「……まだ、ベッドの上」
てっきり、早く支度しないとだめだよ、とお叱りの言葉が飛んでくると思っていた。
しかし、彩花は「そっか」とつぶやいたきり、黙り込んでしまった。
どうした——。尋ねようと口を開いたとき、控えめな声が漏れ聞こえてきた。
『ねぇ、草薙君』
「ん?」
『昨日はありがとね』
「……急にどうした?」
お礼なら、昨日の時点で受け取っている。
わざわざそのために電話してきたわけではないだろう。
『ううん、なんとなく言いたくなってさ。突き放すようなこと言ったのに、それでも気にかけてくれて嬉しかったよ』
「ま、エゴみたいなもんだよ。それに、俺は周囲の目とかはそこまで気にならないから」
『——嘘でしょ』
ぴしゃりと遮られ、言葉に詰まる。
「……なんで?」
『あんな視線を向けられて、実際に絡まれているのに、気にならないわけないもん』
否定しなければ、彩花は要らぬ責任を感じてしまうかもしれない。
それはわかっているのに、喉に何かがつっかえたように、言葉が出てこなかった。
『自慢じゃないけど、自分のクラスでの立ち位置は理解してるし、嫉妬される人の気持ちもよくわかる。どれだけ自分のほうが正しいって思ってても、怖いものは怖いよね』
「っ……」
翔は唇を噛みしめた。
そうしないと、いろいろなものが溢れ出てしまいそうだった。
『もし今、ちょっとでも辛く感じているなら、遠慮しないで言ってくれないかな。私だって、草薙君の力になりたいから』
重ねられた声は静かだったけれど、確かな重みがあった。
翔は大きく深呼吸をした。
ダサい一面なんて見せたくない。それでも、今はそれ以上に、話を聞いてほしかった。
「……初めてじゃないんだよ、こういうの」
『っ——』
電話の向こうで、息を呑む気配がした。
「前にも言ったけど、香澄とは幼馴染でさ。中学に上がってからちょっとして、付き合い始めたんだ。他の男子は面白くなかったと思う。気持ちはわかるよ。幼馴染じゃなかったら、そもそも関わってすらいなかったかもしれないし」
中学の途中までの香澄は、飛び抜けてかわいいわけではなかったけれど、性格は今より穏やかで、当時からかなり人気があった。
明確な接点がなければ、まず間違いなく翔と交わる人種ではなかった。
「でもさ。だからって、恨まれる筋合いはないじゃん。実際に付き合ってたんだから。なのに、俺よりイケてるやつらから『別れろ』って脅されたりして……っ」
声が震え、視界がかすむ。
怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか。自分でもよくわからなかった。
『……それは、辛かったね。草薙君は何も悪くないのに』
彩花の声も、どこか沈んでいた。
「……ごめんな。こんなつまんない話」
『ううん、話してくれて嬉しかったよ。最近、私ばっかり弱音こぼしてたから、むしろちょっと安心したっていうか』
「なんだよ、それ」
わずかに肩の力が抜ける。受話器越しに、彩花がふふっと笑った。
「まあ——そんなわけで、ちょっとトラウマ的なのはあるけどさ。でも、あくまで俺が選択した結果だから。一ミリも双葉のせいじゃないからな」
『……ほんと、草薙君ってそういうとこあるよね』
彩花がわざとらしくため息をついた。
「えっ、なに?」
『そうやって相手に気遣いすぎるの、悪い癖だと思うな。辛いときくらい、自分を優先してよ……私だって、そうしちゃったんだから』
「双葉が?」
いつのことだろう。彩花は常に、翔のことを考えてくれていたと思うが。
怪訝そうな声を出すと、彼女はそっと息を吐いた。
『……学校でも仲良くしたら、草薙君が嫉妬されるってわかってたんだ。でも、私は自分の気持ちばっかり優先して、それで結局、昨日みたいなことが起きちゃって……さっきの話を聞いて、やっぱりお互いに安心していられるのが一番だなって思った。だから、学校では無理に絡まなくていいよ。昨日あそこまで勇気出してくれたんだもん。もう、十分すぎるくらいだから」
「……うん」
その言葉を聞いた瞬間、霧がスッと晴れていく感覚があった。
自分が本当はどうしたいのか——輪郭がはっきり見えた。
「わかった。じゃあ、これからも周りの目とか気にせず、普通に接するよ」
『……え、は、えっ?』
彩花が意味不明な言葉を発した。
翔は耐えきれずに吹き出してしまった。
『ちょ、なに笑ってんの——というか、私の話、聞いてた?』
「ちゃんと聞いてたよ」
『……ほんとに気遣ってくれなくていいんだよ?』
「うん。俺がそうしたいだけだから」
また同じ目に遭ったら——。
そう思うと体がすくんでしまうが、これ以上、彩花を悲しませたくなかった。
『……数週間前は、もっといい子だったのに』
「敏腕プロデューサーにメンタルも鍛えてもらったからな」
彩花が励まし続けてくれていなかったら、きっと彼女のことなど考えず、自己保身に走っていた。
情けは人のためならず、とはよく言ったものだ。
「それに、今さら無関心装っても遅いだろ。古田たちからすれば、宣戦布告されたみたいなもんだろうし」
『まあ、そうかもしれないけど』
「心配すんな、もう決めたから。どのみち、中途半端は一番良くないしさ」
むしろ、ここで距離を取れば、やはり付きまとっていたのだと思われてしまうかもしれない。
『……そうだね』
一拍置いて、彩花が絞り出すように相槌を打った。
『わかった。じゃあ、こっちも覚悟決めるよ』
「なんか悪いな」
『ううん。ちょっと寂しかったし、感謝しかないよ。……でも、そうと決まったなら遠慮しないからね』
「そうしてくれ」
改めて言葉にされると安心するし、胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、弾んだような声色を聞いて、同時に不安が襲ってきた。
「あっ、でも、学校で筋トレさせるとかはやめてよ。一周回って同情されそうだけど」
『私をなんだと思ってるの……』
再び、大袈裟なため息。
半分ほどは本気だったのだが、それは黙っておいたほうがお互いのためだろう。
『でも、中途半端が一番良くないってのは賛成だから、私なりに動いてみるけど、いいよね?』
「おう、助かる」
答えたところで、受話器の向こうから弓弦の声が突っ込んできた。
『お姉ちゃん。もしかして翔くんと?』
『そうだけど、もう切るよ』
『えー、ちょっと代わってよー』
『だめ。草薙君も支度があるんだから』
ぐずる弓弦に対して、彩花がお姉様モードでたしなめている。
(前も似たようなやり取りしたな)
翔はスピーカーモードに切り替えたスマホをベッドに置いて、クローゼットを開けながら口を開いた。
「双葉。別にこっちはいいぞ」
『えー、でも、まだ準備してないでしょ?』
「やりながら話せば間に合うから。今、着替えてるし」
『あっ、そ、そう? なら、いいけど……』
翔としては、すでに支度を始めているという情報を共有しただけだったのだが、彩花はなぜかしどろもどろになった。
追求する前に、弓弦の元気な声が聞こえてくる。
『翔くん、おはよ!』
「おはよう、弓弦。元気か?」
『うん、今朝ごはん食べ終わったとこ!』
「おっ、早いな。なに食べたんだ?」
『んーと、目玉焼きとね——』
メニューを一生懸命列挙する声に相槌を打っていると、部屋がノックされ、花音が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん。そろそろ……あっ」
電話中であることに気づいたのか、花音は口をつぐんだ。手のひらを広げてみせると、心得たとばかりにうなずき、ドアを静かに閉めた。
廊下を降りる足音とともに、「あと五分だって。支度してた」と京香に報告する声が聞こえた。優秀な妹だ。
(優秀すぎるのも、玉にキズだけどな)
苦笑いを浮かべながら、ズボンを引き上げ、ベルトを通していく。
電話を切ってから急いで朝食をかき込み、ドライヤーで軽く髪を整えた結果——改札を抜けて階段を上り切ったところで、無情にも電車の扉が閉まった。
「マジか……」
汗を拭いながら、ベンチに向かう。座るのは久しぶりだ。
学校の最寄り駅から再び全力疾走して、なんとかチャイムと同時に教室へ滑り込んだ。
翔と浩平の席は、さほど離れていない。嫌でも視界に入ってしまい、喉が渇く。
意識的に目を合わせないようにしていると、別の方向からじとっとした物言いたげな視線が飛んできた。
誰のものかはすぐにわかった。素知らぬ顔をして椅子に腰を落とし、呼吸を整える。
程なくして、スマホが震えた。視線の主——彩花だ。
画面を開くと、なんとも言えない憮然とした表情のクマがこちらを見つめていた。
——間に合うって言ってたよね?
そんな声が聞こえて、頬が緩むのを必死に堪えていると、続けてメッセージが送られてきた。
『いつの休み時間にするかは決めてないけど、楽しみにしててね』
何を仕掛けてくるつもりなのか——。
考えるだけで、胸の鼓動が少し早くなった。
平素よりご愛読いただきありがとうございます!
近況ノートでもお知らせしましたが、本作の更新スケジュールを下記のとおり変更します。
* これまで……毎日投稿
* これから……週4回(毎週 月・水・金・土)/20:35 公開
* 開始……本日〔9/8(月)〕の更新から
今回の変更は、各話の密度を高めて、読後の満足感を一層上げるためです。構成や描写をしっかり整えてお届けします。また、ときどきゲリラ更新(1日2話や別曜日の臨時投稿)も予定していますので、お楽しみに!
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スケジュールに変更がある場合は、事前に活動報告でお知らせします。これからも楽しんでいただけるよう全力で執筆しますので、引き続き応援よろしくお願いします!