第28話 翔の決意と、スパルタなお姫様
翔が彩花の机の横に立った瞬間、教室内のざわめきがぴたりと止んだ。
「草薙君……」
彩花は呆然と顔を上げ、唇をわずかに開いたまま固まっている。
「習い事、ぼちぼち行かないと間に合わないぞ。——また怒られるのも嫌だろ」
「あっ……うん、そうだね!」
彩花はハッとしてカバンの取っ手をつかみ、椅子を引いた。
立ち上がる動作に合わせて、スカートの裾が揺れる。
視線を横へ流すと、浩平たちは口を半開きにして固まっていた。
周囲のクラスメイトも、驚いたように目を丸くする者、意外そうに眉を上げる者と反応はさまざまだ。
「美波、また明日ね」
「あっ、うん。じゃあね」
彩花が手をサッと上げる。美波は一拍置いてから、ややぎこちなく手を振り返した。
時計の秒針の音が響く中、翔は彩花を伴って教室を出た。
昇降口へと続く階段を下り切ったところで、そっと息を吐き出す。
いつの間にか握りしめていた拳は、大量の汗をかいていた。
昇降口を抜け、校門を出てからも、彩花はうつむきがちなまま無言だった。翔も言葉が見つからず、チラチラと周囲に視線を向けていた。
周囲からすれば、まず間違いなく仲良しには見えないだろう。
電車を乗り継ぎ、双葉家の最寄り駅の改札を抜けたところで、ようやく彩花が口を開いた。
「なんで……」
消え入りそうな声だった。
でも、その短い言葉の意味するところは、すぐにわかった。
「ここで俺が引いたら、双葉はこれからもずっと肩身の狭い思いをするかもしれない。そんなの嫌だろ」
「そうだけど……どうして、そこまでしてくれるの?」
こちらを見上げる瞳は、どこか不安げに揺れていた。
「双葉が言ってただろ。あいつらのせいで俺らが気を遣わなきゃいけないなんて、おかしいって。俺もそう思うし、絡まれたからって引くのは悔しい。……ただの自己満だよ」
「……そっか」
彩花は乾いた唇をそっと舐め、はにかむように口角を上げた。
「ありがと。やっぱり私の目は間違ってなかったよ」
「……えっ?」
「あっ、い、いや、プロデュースのしがいがあるって意味だからね⁉︎」
思わずじっと見つめると、彩花は耳まで赤くして、パタパタと手を振った。
「わ、わかってるよ」
翔は耳の後ろをかき、視線を横へ逸らした。
あくまで、可能性を感じてくれていたというだけなのだろう。それでも嬉しかった。
「それと、美波には本当のこと言っておいたから。ジムの存在も、私が習い事してないのも知ってるし、そもそも隠す必要ないしね」
「おう」
やはり、美波には全幅の信頼を置いているようだ。翔よりも遥かに長い時間を過ごしてきた彩花の判断であれば、口出しする必要もないだろう。
短く相槌を打つと、彼女の眉が下がった。
「もしかして、言わないほうが良かった?」
「えっ? いや、そんなことないよ。……というか、俺も香澄にはある程度話しちゃったし」
「えっ、なにそれ、聞いてないんだけど」
彩花の声がわずかに低くなる。
「ごめん。なんとなく言いづらくて……前に屋上で昼飯食べたとき、香澄と翼が来ただろ? あのあと、どういう関係なんだって問い詰められてさ」
「……なんで、赤月さんがそんなこと聞いてくるの?」
「気になっただけだろ。他の人から見たら、接点なんてなかったはずだし」
「まあ、そうだけどさ」
彩花は足元の小石を軽く蹴った。頬がほんの少しふくらむ。
翔はその横顔を見て、肩の力を抜くように息を吐いた。
「大丈夫だよ。そのときはちょっとムカついたけど、今はもう気にしてないから。それより、いろいろ頑張りたいって気持ちのほうが強いんだ。釣り合うようにって言い方は変かもしれないけど、俺が少しでも双葉のレベルに近づけば、周りも言いづらくなるだろうしさ」
「あっ……」
彩花が目を見開き、小さな声を漏らした。
そんなこと考えてもいなかった、という表情だ。
「だから、これからもよろしくな——プロデューサー」
「っ……うん!」
彩花は小さく息を吸い込むと、パッと笑顔を弾けさせた。
反射的に見惚れてしまい、翔は慌ててカバンを探って水筒を引き抜いた。
「——ゴホッ、ゴホッ!」
「誰も取らないって」
むせる背中を、彩花の手のひらがやさしく上下する。
「わ、悪い……」
「ふふ、顔赤いよ?」
「うるさい」
翔は唇を尖らせ、そっぽを向いた。
「ひどいなぁ。心配してあげてるのに」
くすくすと笑う彩花は、翔が慌てて水筒を飲んだ理由も、赤面している本当の原因にも気づいていないだろう。
このくらいの代償で済んだのなら安いものだ、と思いながら、翔は再び咳き込んだ。
◇ ◇ ◇
「ねぇ、このあと勉強したい?」
ジムに到着すると、彩花がふと思いついたように尋ねてきた。
「いや、別にそこまでは。なんで?」
「まだテストまではちょっと余裕あるし、宿題も少ないから、今日くらいは肩の力抜いてもいいかなって思ってさ」
「なるほどな」
昨日と今日で、いろいろなことがあった。
きっと、彩花なりに気遣ってくれているのだろう。
(やっぱり優しいよな、双葉って)
——それからすぐに、翔は彼女のプロデューサーとしての厳しさを再認識することになった。
「ほら、ラスト頑張って! 私が見込んだ生徒でしょ!」
「知るか……!」
胸の上数センチで止まっていたバーを、歯を食いしばってラックへ戻した。ガチャリ、と金属同士のぶつかる音が響いた。
「あー……」
他人の家だということも忘れて、翔は仰向けになったまま腕をだらんと下げた。
彩花がぽんぽん、と肩を叩いてくる。
「うん、いい具合に力抜けたね」
「入らないだけだっつーの……」
「ほんとだ。プルプルしてる」
翔の二の腕に触れて頬を緩めてから、彩花は奥の扉の向こうへと姿を消した。
間もなくして、スムージーを持って戻ってくる。
「はい、お疲れさま」
「おう、サンキュー……」
差し出された容器に手を伸ばすが、腕が震えてしまう。
彩花は一度容器を引き、ふたをくるりと外すと——翔の口元に差し出してきた。
「しょうがないなぁ。飲ませてあげるよ」
「えっ……? い、いや、大丈夫だって」
一人で飲めないほどの疲労感ではないし、そんなことをされたら、居た堪れなくなるのは目に見えていた。
勢いよく首を振ると、彩花は瞳を細め、やや強引に容器を押し付けてくる。
「ふふ、冗談だよ。それじゃ、風呂入ってくるから。草薙君も冷えないうちに入っちゃいなよー」
ひらりと手を振ると、彼女は軽やかな足取りでロッカールームへ消えた。
(また、遊ばれた……)
最初のころはこちらのほうが揶揄っていたはずなのに、いつの間にか立場が逆転している。
それに、彩花のイタズラはいろいろと無遠慮なので、破壊力も段違いなのだ。
「……勘弁してくれ」
翔はため息混じりにつぶやき、容器に口をつける。
口の中に広がるフルーティな味は、いつもより少しだけ、甘酸っぱく感じられた。