第26話 周囲からの視線と、過去の記憶
本日2回目の更新です!
翔が教室に入ると、あちこちから刺すような眼差しを浴びせられた。
「っ……」
無言の圧に、思わず足が止まった。
喉の奥が乾き、指先に汗がにじむ。
校門を出てから合流しているとはいえ、隠すような真似はしていない。
平日の半分以上はジムがあるため、翔と彩花が一緒に帰っているという噂はすぐに広まっていた。
(……いや、別にみんなが危惧するような関係じゃないし)
翔はひとつ息を吐くと、肩を張って自席へ向かった。
腰を下ろすと、後方から複数の視線を感じた。翔は単語帳を取り出し、目を落とした。
「おーい、翔ー!」
それから程なくして登校してきた潤が、手を振りながら一直線に近づいてくる。心なしか、いつもより笑みが深い。
大型犬のようで、普段はつい頬を緩めてしまうが、今だけは口元が引きつった。教室で彩花の話を持ち出されるのは避けたい。
場合によっては物理的に口をふさぐ必要がある、と腰を浮かせかけたが、要件はまったくの別物だった。
「今日の昼、久々に外で食べよーぜ」
「おう、もちろん」
返事をした途端、肩の力がわずかに抜けた。
「なぁ、双葉と一緒に帰ってるってマジ?」
ベンチに並んで腰を下ろすなり、潤が身を乗り出した。
「お前も興味あったのか」
「ったりめーだろ。隠したってことはみんなの前じゃ話したくねーのかと思って、教室じゃ聞かなかったけどよ」
翔は返事をせず、じっと潤の顔を見つめた。
「なんだよ?」
「いや……そんな気遣いできたんだな」
「ギャン泣きするぞ、俺」
潤は目元をこすり、よよと泣き真似をした。
「やめろ、吐く」
「ヒドくね? つーか、俺には言ってくれてもよかっただろ。こっちも彼女情報、開示してるんだし」
「勝手に惚気てるだけだろ」
潤はゲームの最中でも、ふと思い出したように別クラスの彼女の話をする。
自慢というより、ただ話したいのだと伝わってくる分、翔は毎回ムズムズさせられる羽目になっていた。
「それに、そもそもお前らみたいな関係じゃないから」
「でも、前にかわいいって言ってたじゃねーか」
「かわいければ好きになるってものでもないだろ」
「一緒に帰ってるのに?」
「習い事が同じときだけな。仲良くさせてもらってるけど、それだけだよ」
抱きつかれたのは例外だろう。
安全地帯だと見なされていたこと、あの瞬間が特殊だったこと——あれはきっと、様々な要因が絡み合った偶然の産物だ。
(そもそも、双葉はそんな関係を望んでないだろうしな)
変に意識してしまえば、距離を取られてしまうかもしれない。それは避けたかった。
「……まあ、いいか」
潤はため息混じりにつぶやき、購買で買ったパンをかじる。
「でも、それなら別に隠す必要もなかったんじゃねーの?」
「双葉を狙ってるやつらからしたら、面白くないだろ……古田とかさ」
「あー、まあ確かに。浩平は結構、お姫様にアプローチかけてるもんな」
「そういうこと。それと、お姫様って呼ばないでやってくれ。好きじゃないらしいから」
「あっ、そうなのか。すまん」
「……いや、こっちも言い方キツくなった。ごめん」
翔は視線を落とした。潤に悪意がないことはわかっていたのに、無意識に口調が荒くなってしまった。
「全然いいって。その代わり、今度また家行かせろよ」
「おっ、またボコされにくるのか?」
「前に三連敗して宿題教えてくれたやついたよな」
「うるさい」
翔がそっぽを向くと、背後から軽やかな笑い声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
「にしても、噂って広まるの早いな」
放課後。彩花と並んで双葉家へ向かう道で、翔はぽつりと漏らした。
「ねー。さっきも、めっちゃジロジロ見られたし」
「どうする? 嫌なら別々に動くけど」
提案すると、彩花はむっと眉を寄せた。
「利害関係じゃないって言ったでしょ」
「一応確認しただけだよ。ごめん」
拝むように手を合わせるが、口元は緩んでしまう。
返ってくるとわかっていた答えでも、胸が少し軽くなった。
「なら、今回は見逃してあげるけど、次はないからね」
「はいよ」
軽い口調で答えると、彩花は「ほんとにわかってるのかなぁ」と苦笑した。
◇ ◇ ◇
「手伝ってあげよう——」
双葉家のホームジムにあるマットで前屈をしていると、背中にすっと手が添えられた。
(えっ……)
予期せぬ接触に、胸の鼓動が速くなる。
鏡に映る彩花の表情は、いつも通りだ。
「どう? このくらい?」
「おう……もうちょっとだけ、押してくれるか」
「オッケー」
指先に力がこもった——と思った瞬間、彩花の指が横に滑り、翔の脇腹をくすぐった。
「ひゃ、ちょ、やめろって……!」
翔は反射で身をよじった。彩花は追撃をせず、口を押さえて肩を揺らす。
「ふふ、なかなかかわいい声、出すじゃん」
「う、うるさい」
まだ器具に触れてすらいないのに、顔が熱くなる。
「ごめんごめん。もうしないから」
彩花が笑いながら追いかけてきて、再び背中に手を添える。
「……次やったら、こっちもやり返すからな」
「私はいいよ?」
返事はどこか弾んでいた。ただの脅しであることはバレているのだろう。
彩花の指が、トントンと翔の背中でリズムを刻む。
(なんか今日、いつもより距離が近いな……)
信頼してくれているのは、素直に嬉しい。
けれど、この密度が常態化したときに、どこかで踏み外さないかという不安も同時に芽生えて、翔は前屈に合わせて息を吐き出した。
——その不安は数日経っても消えることはなかったが、反対に心配が薄れつつあることもあった。
こちらを射抜く男子の視線が、日に日に少なくなっているように感じられるのだ。
潤以外にもそれとなく事情を聞かれることはあったが、そこまで踏み込んでくる者はいなかった。
悲しいことだが、友人の少なさが功を奏したらしい。
彩花も彩花で事情を聞かれていたようだが、彼女に根掘り葉掘り聞ける者など、美波しかいないだろう。その美波も、学校ではほとんど無関心に振る舞っていた。
相手が潤や翼ならともかく、翔なので、彩花が嫉妬されることもないはず。
思ったより、穏便に済んだな——。
そう安堵していた矢先だった。
「草薙、ちょっと来い」
体育の授業終わり、用具を片付けていた翔に、浩平とその周囲が近づいてきた。
その言葉を聞いた瞬間——、
『おい草薙、ちょっと来いよ』
脳裏に別の声が響き渡り、耳鳴りが弾けた。
視界が狭まり、背中に冷たいコンクリートの感触が蘇る。
「っ……」
息が浅くなり、指先から温度が抜けていった。