第24話 お姫様への陰口
「双葉。これちょっと、職員室に持ってきてくれるか?」
六時間目の国語が終わると、担当の遠藤——若い男の教師だ——が、彩花に声をかけた。
その視線の先には、回収済みのノートの束があった。
「はい。わかりました」
「悪いな。助かるよ」
彩花が嫌な顔をせずにうなずくと、遠藤は足取り軽く教室を出ていった。
(わざわざ重い荷物を女子に持たせるなよ……)
授業中も、お気に入りの生徒とそうでない生徒で露骨に態度を変えていて、評判は良くなかった。
翔は教卓に向かい、束の上から三分の二ほどのノートを抱えた。
「えっ?」
「俺も持つから。さすがに、一人じゃキツいだろ」
彩花の返事も待たずに、教室を出た。束を抱えた前腕に、紙の角がじわり食い込んだ。
すぐに、彩花も追いついてきた。
「ありがと、助かったよ」
「お節介じゃなかったか?」
「ううん、全然。正直、あの先生はちょっと苦手だし」
「ならよかった。けど、嫌だったら遠慮なく言ってくれていいからな。こっちもそのほうが気が楽だし」
サポートのつもりが負担になってしまうことは避けたい。
そう思っての言葉だったが、彩花はむっと眉を寄せた。
「優しくしてくれたのに、そんなこと思うわけないよ」
「でも、ありがた迷惑って言葉もあるだろ?」
「そうだけどさ。こういうときは、素直にどういたしましてでいいの」
「あっ……ごめん」
翔はうつむいて足元を見つめた。
自信のなさから、彩花の感謝の気持ちすらも無碍にしてしまった。
「前も言ったでしょ。嫌ならちゃんと言うって……そうじゃなかったら、あの人からの誘いなんて、何回も断れないよ」
「確かにな」
彩花のセリフの後半部分は、翔でもギリギリ聞き取れるかどうかという声量だった。
あの人とは、まず間違いなく浩平のことだろう。
「草薙君も、あの積極性だけは見習ってもいいんじゃない? 強引にこれ持ってくれたときも、ちょっと格好良かったし」
彩花がノートを胸に抱いて、瞳を細めた。
「まあ、考えておくよ」
プロデューサーとして、励ましてくれているのだろう。
格好いいという言葉を真に受けるつもりはないが、少なくとも選択は間違っていなかったようだ。
職員室に入ると、遠藤は中途半端に頬を緩めて固まった。まさか、翔も同行しているとは思っていなかったのだろう。
翔は先頭に立ってその席へ向かい、まず自分の分を机に置くと、彩花に手を差し出した。
「ほら、双葉」
「うん、お願い」
素直に渡されたそれらを、上に重ねる。
「双葉、サンキューな……草薙も」
遠藤は一瞬だけ翔に視線を送ってから、すぐに彩花に向き直り、メガネのフレームに手を添えた。
翔は顔をしかめそうになるのを必死に堪え、彩花を促して職員室を出た。
「ほんとにありがとね」
「これくらいはな。どうせ、一緒の『習い事』行くんだし」
「ふふ、そうだね。じゃあ、このまま直行しよっか」
「おう——あっ、水筒を忘れたから、ちょっと教室に寄っていいか?」
「もちろん。付き合うよ」
「悪いな」
教室は、階段を登ってすぐそこだ。
半開きの扉から押し殺した笑い声が聞こえてきて、翔と彩花は揃って足を止めた。
「あいつ、マジでスカしてるよな」
「浩平君にも簡単になびかない自分に酔ってるんじゃない?」
「うわっ、それだわー」
「あと、弟と遊んであげてる優しいお姉ちゃんアピールね」
「あれキモいよなー!」
さすがに個人名は出していない。
それでも、彩花のことを指しているとしか思えなかった。
「先生にもいい子ぶってるし、マジでうぜえよな」
「しかも、男相手のときだけあざとくしてるし」
「それな。遠藤に対しても愛想笑いしてさ。マジで引いたんだけど」
(なに言ってんだ、こいつら……!)
指先が手のひらに食い込む。
「——だめ」
小さくも鋭い声とともに、腕を掴まれた。翔はそのとき初めて、自分が教室に向かって歩き出していたことに気づいた。
振り向くと、彩花が首を横に振っていた。
「言って聞く人なら、最初から言わないから。放っておくのが一番だよ」
「でも……っ」
「そうやって怒ってくれるだけで十分だから——ありがと」
彩花はそう囁き、泣き笑いのような表情を浮かべた。
翔は咄嗟に顔を背けてしまった。
「それはずるいだろ……」
「えっ、なに?」
「い、いや、なんでもない」
慌てて首を振る。
怪しさ全開なのは自覚していたが、取り繕う余裕などなかった。
「そう? まあ、いいから忘れ物取り行っちゃってよ。私は下に行ってるから」
彩花は翔の背に手を添えてから、登ってきた階段を引き返した。
翔は追いかけたい衝動に駆られたが、グッと堪えて、教室に入る。
「「「っ……」」」
教室に入ると、女子たちは息を呑み、それから少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。
翔だけ戻ってきたことに対するものなのか、それ以外の理由なのかはわからないが、気に食わないことに変わりはない。
彩花も聞いていたこと、傷ついていたことを教えてやりたくなる。糾弾したくなる。でも、それはきっとエゴだ。
奥歯を噛みしめる。時計の音だけがやけに大きい。
無言のまま水筒を回収すると、早足で教室を出た。
昇降口では、ちょうど彩花が靴を履いているところだった。駆け寄ると、床板がギシギシと音を立てた。
彼女はハッとこちらを見上げ、目を丸くする。
「そんなに慌てなくても、置いて行ったりしないよ?」
「別に、そういうわけじゃないから」
翔は視線を逸らし、上履きと外履きを入れ替えた。
自分でも、なぜここまで急いだのかは、よくわからなかった。
——ただ、彩花を一人にしたくなかった。
それだけははっきりしていた。




