第23話 お姫様に変態扱いされた
「じゃあ、髪はちょっとしっとりしたままにしておいてね。そっちのほうがセットしやすいから」
「了解」
彩花からの指令に、翔は親指を立てて答えた。お互いにシャワーを浴びたあと、髪のセットを教えてもらうことになっているのだ。
歩き出した彩花が、ふらりとよろめく。
「大丈夫か?」
「任せて。髪のセットに足は必要ないから」
彩花は振り返りながらピースをして、扉の向こうに消えた。
普通に心配したのだが、今の返答ができているなら大事ではなさそうに見えた。単純に疲れているだけだろう。
スマホが着信を告げた。母の京香からだ。帰りに買い物をしてきてほしいというお願いだった。
ついでに少し雑談をしてから、電話を切る。
「って、早くシャワー浴びないとな」
彩花がシャワー室に向かってから、十数分が経っていた。
「あー……」
シャワーを頭から浴びていると、思わず声が漏れる。
体の疲れが芯からほぐれていく感覚。これだけで、キツい運動に耐える価値がある。
体を拭いたあとも体が火照っていたため、シャツを着ないまま洗面台に向かった。
そのとき、扉がノックされた。
「私だけど、入っていい?」
「おう。けど、まだドライヤーしてないぞ」
「仕方ないなぁ。じゃあ、特別にやってあげよう——えっ?」
彩花は扉を開けるなり、電池の切れたロボットのように、ぎしっと固まった。
一拍遅れて後退り、顔を両手で覆う。
「な、なんでシャツ着てないの⁉︎」
「あっ」
真っ赤に染まっている耳を見て、翔は自分の失態を自覚したが、後の祭りだった。
「ご、ごめん、暑かったから」
慌ててシャツに腕を通し、裾を引き下ろす。
「よし、もういいぞ」
「……ほんとに?」
「安心して。ちゃんと着たよ」
「で、でも、草薙君には上裸を見せてきた実績があるもん」
彩花がじとっと睨みつけてくるが、微妙に視線が合わない。
「変態みたいに言うな。というか、男の上半身くらい、どうってことないだろ」
「あるよ。お父さんと弓弦のしか見てないから……彼氏も、できたことないし」
「えっ——」
翔は息を呑んだ。
「……マジ?」
「そんなに驚く?」
「そりゃ、あれだけモテてたらさ」
「全然そんなことないよ。高校入ってからは、ほとんど告白もされてないしね」
「いや、それは——」
反射で出かかった言葉を、翔はなんとか飲み込んだ。
「……双葉にも、今の流れになったのはどうしようもなかったのか?」
「まあ、そうだね。広まるまであっという間だったし……それに美波にも止められてたんだ。ここで否定しても、それはそれで調子乗ってるって誤解されるし、むしろ『お姫様』なんて大層な扱いされたほうが妬まれなくなるって言われて」
「なるほど。それも一理あるな」
逆に、同情してくれる人だっているかもしれない。理屈としては理解できた。
(でも——)
指先に力がこもる。タオルの端がきゅっとねじれた。
「……中学のときも、今みたいな感じだったのか?」
「ううん、違うけど……今よりも嫉妬はひどかったかな。あっ、でも、もう全然引きずってないから安心して。美波が助けてくれたし」
「だから、吉良には心を許してるんだな」
「ま、そういうこと」
うなずくその姿に、迷いは感じられなかった。
翔が美波に感じた違和感は、やはり気のせいだったのだろうか。
「もちろん、今もあんまり気分のいいものじゃないけどさ。事実として穏やかに過ごせてるし、これはこれでいいのかなって」
「まあ……」
そもそも嫉妬すること自体がおかしいが、そんな正論だけでやっていけるのなら誰も苦労などしない。
変に正義感を発揮しても、大きなお世話になる可能性すらある。
「——でも」
翔は語気を強めた。
彩花が驚いたように振り向く。
「いずれみんなもわかっていくよ。双葉が裏ではめちゃくちゃ努力家なのもそうだし、優しいとことか、意外とイタズラ好きなとことか」
「草薙君……」
「——ゲームがなかなかに下手くそなとことか」
「草薙君?」
彩花の声が半音低くなった。
翔は片手を上げて肩をすくめた。
「冗談だって。ギャップ萌えってやつだよ」
「……フォローになってない気するけど」
「魅力になるってことだよ。人間、完璧じゃないほうが好かれるし。潤がいい例だろ」
「確かに。あれで勉強も完璧だったら、近寄りがたいもんね」
まさに、今の彩花がそれだ。多くの男子がお近づきになりたくて接触してみるものの、イマイチ踏み込めないでいる。
彩花が素の親しみやすさを出せば、毎日のように交際の申し込みが殺到するだろう。
「っ……」
なぜか、胸の奥がざわついた。呼吸が浅くなる。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない。ま、だから要するに、ゲームが下手なのはむしろいいことなんだよ」
「下手下手言われるのはなんかムカつくけど……でも、苦手なことなんて元々たくさんあるよ。目下修行中のこともあるし」
「へぇ、なに?」
「克服したら教えてあげる」
どこか弾んだような声色だ。
悪いことではなさそうだが、今のところは聞いても答えてくれないだろう。
「そうか。なんかわからんが、頑張れよ」
「……むぅ」
翔としてはエールを贈ったつもりだったのだが、なぜか彩花は唇を尖らせた。
「どうした?」
「他人事だと思って」
「そりゃ、他人事だからな——イタイイタイ」
二の腕に鋭い痛みが走った。彩花の細い指先が、しっかりと肉をつまんでいた。
「な、なんで?」
「なんでもっ。それよりほら、髪やっちゃうよ!」
彩花が大股で近づいてきて、ドライヤーを手に取る。
(そういえば、セットしてもらうんだった)
予定外の出来事の連続で、すっかり頭から抜け落ちていた。
ドライヤーで軽く乾かしたあと、彩花は翔が洗面所に置いていたワックスを手に取った。
「量は最初、このくらいね」
「そんくらいでいいのか?」
「多すぎるとどうなるかは、数日前の誰かさんが体験してるんじゃない?」
「仰せの通りです」
顔をしかめると、彩花はくすっと笑みを漏らした。
「まず、しっかり指の間まで伸ばしてから——」
テキパキと動く指先を見ながら、翔は胸を撫で下ろした。元気になったのなら何よりだ。
——未だにつねられた理由はわからないが。
「はい、草薙君。セットで意識することは?」
「ワックスは馴染ませるのが一番大事で、髪の先にはほとんどつけないくらいでいい」
「うん、よろしい」
改札の前で突如開催された復習テストには、無事合格したらしい。
「それじゃ、また明日ねー」
「おう、じゃあな」
改札を抜けてから、ふと思い立って振り返ると、彩花はまだそこにいた。
彼女もまた、前のやり取りを覚えていたのだろう。頬を緩め、手を振ってくる。翔も手を上げて応えた。
髪セット以降、彩花が沈んだ表情を見せることはなかった。
彼女が肩の力を抜いて学校生活を送れるようにサポートしたい気持ちはあるが、ひとまず平和に過ごせているのなら焦って動く必要はないだろう。
そう悠長に考えていた翔は——
『今よりも嫉妬はひどかったかな』
その何気ない言葉の意味を、すぐに知ることになる。