第2話 お姫様との接触
「……どういう状況なの?」
弓弦を隠すように抱きしめた彩花に、訝しさと警戒心の宿った視線を向けられ、翔はたじろいだ。
美人が怒ると怖いとは、よく言ったものである。
(でもまあ、仕方ないよな)
タイミング的に、彩花は弓弦がヤンキーに絡まれていた場面を見ていない。
泣いている弟の傍に、親しくもないクラスメイトの男子。警戒して当然だろう。
「実はさ——」
翔は自分が怪しさ満載であることを理解しながら、簡潔に状況を説明した。
ヤンキーに絡まれた弓弦を見て、動画を盾に追い払ったこと。泣いている彼を慰めていただけで、他意はないこと。
「お兄ちゃん、格好良かった! ありがとう!」
弓弦の言葉と輝く瞳、それから翔のスマホの映像で、ようやく彩花の表情が和らいだ。
彼女は小さく息をつき、頭を下げた。
「……そうだったんだ。弟を助けてくれてありがとう。それと、多分睨んじゃってたよね。ごめん」
「状況的にめちゃくちゃ怪しいし、それだけ弟想いってことだろ。気にすんな」
翔は淡々と返した。彩花をお姫様として崇める気はない。どれほどの美貌を持っていても、言ってしまえばただの同年代の女の子だ。
多少気後れはするものの、他のクラスメイトのように、変に恐縮するつもりはなかった。
「……そういうとこあるよね、草薙君って」
「えっ?」
「ううん、なんでもない——それにしても、ヤンキー相手に立ち向かえるなんて、強いんだね。ちょっと見直しちゃったよ」
「咄嗟の事だったからな。考える時間があったら、多分動けてなかったよ」
「その一瞬で動けるのがすごいんだよ。誇っていいと思う……って、ごめんね。偉そうに」
彩花は照れ隠しのように舌を出して笑った。
そこにいるのは「お姫様」なんかではなく、年相応のお茶目な少女で——翔は息を詰まらせた。
「……いや、ありがたく頂戴しておくよ。お姫様のお言葉だからな」
「ねぇ、その呼び方、やめてほしいんだけど?」
「あっ、ごめん」
クラスではお姫様扱いされても流しているが、やはり快く思っていないようだ。
「ま、弓弦を助けてくれたから、今回だけは特別に許してあげるけどね——それより、弓弦」
「っ……」
お説教が始まることを感じ取ったのか、弓弦がビクッと小さな体を震わせる。
「お姉ちゃん。トイレの外で待ってるように言ったよね?」
なぜ別々で行動していたのか気になっていたが、どうやら彩花が用を足している間に、弓弦がその場を離れてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい……でも、お姉ちゃん喉乾いたって言ってたから、お飲み物買ってあげようと思って……」
「っ——」
手元のペットボトルを握りしめる弓弦を前に、彩花が息を呑んだ。
真一文字に結ばれていた唇が、ほんのりと、しかし着実に緩んでいく。
「……ぷっ」
耐えきれずに吹き出すと、じろりと睨まれた。
元々、教育のために怒ってみせている類のものだったのだろう。もうその気力は失せてしまったのか、彩花はふっと笑みをこぼし、弓弦の頭に手を置く。
「そっか、ありがとう。お姉ちゃんのために買いに行ってくれたんだね。でも、危ない人もいるから今度からは一緒に行こう? 周りもよく見るんだよ」
「はい、ごめんなさい……」
「うん、いい子。じゃあ、お姉ちゃんがご褒美にジュースを買ってあげよう」
「えっ、ホント⁉︎ じゃあ、ビックルがいい!」
子供らしいチョイスに、翔も自然と笑顔になった。昔はよく飲んでいたものだ。
「じゃあ、俺はこれで——」
「待って。草薙君にも一本奢るよ」
「えっ、いいよそんなの」
「いや、むしろお礼させてほしいっていうか。さっき笑わなかったら、アイスもセットだったんだけどね」
彩花がイタズラっぽく瞳を細めた。
そんなことをされては、断るわけにもいかず。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「ありがと。ほら、弓弦。行くよ」
「はーい!」
弓弦はすっかりと元気になっている。
その切り替えの速さに笑ってしまうが、ふと香澄のことを思い出して、翔はため息を吐いた。
「どうしたの? なんか元気ないけど」
「い、いや……ヤンキーに睨まれてマジで怖かったからさ」
「そっか。まあ、それはそうだよね」
彩花は素直に引き下がってくれた。しかし、納得したわけではなさそうだ。
探るような視線を横から感じつつ、翔は再び漏れそうになるため息を飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
彩花との衝撃的な出会いのおかげか、失恋のショックは少し薄れた。
しかし、立ち直れたわけではない。ちょっと付き合っていただけならともかく、香澄とは幼馴染で、もはや彼女と過ごす時間は日常の一部だった。
「はぁ……」
ノロノロと通学路を歩いていると、ため息がこぼれる。一週間連続で一人で登校するのなんて、いつぶりだろうか。
あちこちで風に遊ばれているシロツメクサも、近所の家でぶら下がっている藤の花も、全てが色褪せて見える。まるで、世界全体にモヤがかかっているようだ。
あれ以来、香澄とは一言も話していない。話そうとも思わなかったし、当然、彼女の好きな人なんて知りたくもなかった。
——でも、同じ学校、同じクラスに在籍している以上、それは不可能だった。
香澄は程なくして、サッカー部のイケメンの桐生翼と付き合い始めた。
朝、二人で手を繋いで登校してきたことによって、その事実は一気に知れ渡った。
「美男美女カップルだよな」
「あの二人はお似合いだって、前から思ってたんだよ」
「それなー」
クラスメイトの会話が、胸に突き刺さる。彩花ほどではないものの、香澄も男子から人気がある。翔を密かに妬んでいた者も多かったのだろう。
事実、彼らはニヤニヤと意地の悪い笑みをこちらに向けてきていた。
その中心にいるのは、バスケ部の古田浩平だ。
(よく、そんなことできるよな……)
多少は腹が立ったが、直接手を出してこないだけマシだと思えば、諦めもついた。
でも、翼と笑みを交わす香澄の姿を見ると、胸が張り裂けそうになる。悔しくて、悲しくて——そして、そんな自分が情けない。
「ふぅ……」
「おーい、翔ー!」
深呼吸をしていると、元気な声が届いた。
坊主の少年——野球部の緑川潤が、爽やかな笑顔を浮かべながら近づいてくる。
中学は別だったし、クラスの中心的な存在である彼と、いわゆる陰キャの翔では、仲良くなる要素などないはずだった。
しかし、入学当初からなぜか妙にウマが合って、いつの間にか友達になっていた。
「なんだよ、潤」
「元気出せって! お前、なかなかひどい顔してるぞ」
「ほっとけ」
翔がそっぽを向くと、潤はバシバシと背中を叩いてくる。少し痛い。
「大丈夫だって。人生、何でも経験だ! 俺も昔振られたことあるけど、今の彼女と出会えたのはそのおかげだし」
「……ポジティブだな、お前」
「そりゃそうよ! 全部諦めなきゃ成功の元だからな。落ち込んでる時間があったら、前向いたほうが得だぜ?」
上を目指して進み続ける人間の言葉は正しいし、眩しさすら感じる。
でも、それを素直に受け取れるかは別の話だ。潤と翼がクラスで似たような立ち位置であるのなら、なおのこと。
(……ちょっと、ムカついてるな俺)
潤が悪いわけじゃない。むしろ、心から励まそうとしてくれているのはわかっているし、その気持ちは嬉しい。
そのはずなのに、同時に少しだけ暗い感情を覚えてしまう自分が、嫌になった。
「ま、とりあえず家帰ったら酒でも飲めよ! そしたら全部忘れられるって、ウチの親父が言ってたぜ?」
「学校で未成年飲酒を勧めるとか、度胸あんなお前」
翔が苦笑しながら肩をすくめた、その瞬間。
「おっ、緑川。それだけ元気ってことは、宿題はやってきたんだろうな?」
「あっ……」
教室に入ってきた担任の言葉に、潤は一気に青ざめた。
そんな抜けた一面も、彼が好かれる理由だろう。
「まったく、相変わらずだな……」
先生も呆れたように笑っているし、潤の見事なまでのやらかしたという表情に、翔も思わず吹き出してしまった。
「翔、笑ってないで教えてくれ〜」
その悲壮な声は、甲高いチャイムと先生の「ホームルーム始めるぞー」という言葉に、容赦なく遮られた。
「終わった……」
「ドンマイ」
項垂れる友人の肩を、ポンポンと叩く。
ほんの少しの同情と——感謝を込めて。
◇ ◇ ◇
潤のおかげで、少しだけ気分は晴れた。
しかし、教室を出たところで、運悪く香澄と鉢合わせしてしまった。
「「……あっ」」
互いにサッと視線を逸らし、無言ですれ違う。
少しだけ久しぶりの香澄の匂いが、鼻先をくすぐった。これまでは胸を満たしてくれていたはずなのに、今は苦しくなるだけだった。
過去にも、口をきかなかったことはあった。
でも、今回は事情が違う。喧嘩をしたわけでもなければ、仲直りをしなければならない理由もないのだ。
「はぁ……」
本日何度目か分からないため息を吐いたとき、誰かの視線を感じた。
振り向くと、そこには——
(……双葉?)
彩花が、こちらを見ていた気がした。
しかし、その視線はすぐにあらぬ方向へ向けられた。横顔からは何も読み取れない。いつものお姫様の表情だ。
(ま、気のせいか)
変な接触があったから、気に留まりやすくなっているだけだろう。
弓弦の件は、ジュースを奢ってもらったことで相殺されている。あれがきっかけで距離が近づくなんて、ありえない——。
このときの翔は、そう思っていた。
18時ごろに第3話を公開予定です!