第19話 お姫様を招き入れた
翔は、朝から難しい表情で洗面台の前に立っていた。人生で初めてのワックスに挑戦するのだ。
うまくできる自信などないが、意外と手厳しいプロデューサーに、そんな言い訳は通じないだろう。
彩花を招き入れることについて、花音は元より、母の京香の許可も無事にもらうことができた。
部活に行く花音からは、自分が帰ってくるまで彩花を解放するなという命を受けた。任務に赴く兵士のような、妙に真剣な表情だった。
(なにか企んでるのか……? いや、普通に見てみたいだけだろうな)
特に引き伸ばすつもりはないが、彩花がやってくるのはまだ先だし、勉強もゲームもするのだから、花音が帰ってくるまで家にいる可能性は高いだろう。
ちなみに、父の正志は休みが不定期であるため、休日の今日も出勤している。
「……やるか」
翔は深呼吸をして、人生で初めてワックスの蓋を開けた。
——そして、数分後。
「つけすぎた……」
鏡越しに映る前髪は、まるで漫画のキャラのようにべったりと団結していた。
「お前、こっちだって」
手でつまんで引っ張っても、全く意のままに流れてくれない。むしろ変な割れ目が生まれるばかりだ。
やぶれかぶれにクシを通してみると、さらに分裂して、目も当てられない状態になってしまった。
せっかく動画を見て勉強したというのに、髪の毛も反抗期なのだろうか。
いや、普通に下手なだけなのはわかっているが。
「……諦めよう」
ため息を吐きながら蛇口をひねった。
ぬるま湯ですすいでから、シャンプーでしっかりと洗い落とす。早めに準備を始めておいてよかった。
(これなら、いつもみたいにクシを通すだけでよかったな……)
時間のみが経過して何も変わっていない自分の姿に苦笑していると、彩花から連絡が来た。
『予定通り、乗れそうだよー』
『了解。改札出たところにいる』
返信を打ってからリビングに顔を出す。
「母さん。駅まで迎えに行ってくる」
「はーい。気をつけてね」
「おう」
玄関でスニーカーを履く。いつもなら足を突っ込むところを、今日はちゃんと靴べらを使った。
履き心地がいいだけではなく、踏んでしまった踵の部分を直す必要がないので、結果的には時間短縮にもなっているかもしれない。
「……よし」
姿見の前で立ち止まり、軽く引っ張って服の形を整えてから、玄関を出た。
改札でしばらく待っていると、人混みの向こうに一際目立つ少女が見えた。
淡いベージュのカーディガンに白いブラウス。裾をインしたチェック柄のひざ丈スカートが揺れて、足元は白のスニーカー。小さなトートバッグを提げ、耳にはさりげないイヤリングが輝いていた。
「あの子、かわいくね?」
「一人かな」
「馬鹿。あんなちゃんとオシャレしてんだから、彼氏と会うに決まってんだろ」
周囲の囁き声が聞こえて、翔はソワソワと身じろぎをした。
学校の最寄駅とは離れているので、さすがにクラスメイトに見られることはないだろう。
(香澄とはばったり遭遇するかもしれないけど……まあ、そこは気にしなくていいか。ある程度は事情も話してるし、言いふらしたりするやつじゃない)
事実、翔と彩花の関係性は誰にも広まっていない。
「でも、声かけるだけならタダじゃね?」
「まあ、それはな」
そんな会話が聞こえた瞬間、翔は歩き出していた。
間もなくして彩花も気づいたらしく、軽く手を振りながら早足で近づいてきた。
「やっほー、お待たせ」
「今来たとこだよ。今日の服も似合ってるな」
最初から言うと決めていたからか、すんなり口に出せた。
「えへへ、ありがと。そっちもちゃんと着てきたね」
「一応な」
今日のシャツは、あの日一緒に買ったもう一つのほう。
褒めてもらいたいみたいで恥ずかしかったが、着ないのは失礼な気がした。
「うん、似合ってる。もし別のにしてたら、勉強はとことん厳しくしてあげようと思ってたんだけどね」
「あぶな」
どうやら、気恥ずかしさを押し殺しただけの報酬はあったようだ。
羞恥かスパルタ教育かの二択では、どのみちマイナスなのではないかと思うが、ムチのほうが多いのは今に始まったことではない。
「でも、髪の毛は?」
「あっ、いや……」
言葉を濁すと、彩花の口角がニヤリと持ち上がる。
「うまくセットできなかったんだ?」
「……なんか、べったりなって」
「あはは、最初はそうなるよね。ワックスは密かに練習するしかないかな。慣れるまでは、濡らしてからドライヤーで形を整えるだけでも全然違うよ」
「そうなんだ。今度やってみるわ」
それだけならできそうな気がした。
学校がある日では、今日のようにすすぎとシャンプーをする時間はないだろう。
「でも、土日だけだと回数少ないし、ウチ来たときとかも軽く練習してみる? ワックスの付け方とかも、ちょっとならアドバイスできるし」
「マジで? それはぜひお願いしたい」
「うむ。生徒が前向きで何よりだよ」
彩花が腕を組みながら、どこか重々しくうなずいた。
「じゃ、行くか」
「うん。ちょっと楽しみかも。高校になってからは、美波の家しか行ってないし」
「年齢上がればそうなるよな」
翔も香澄と潤、彩花くらいしか行っていない。
「そういえば、プロデューサーとして、抜き打ちお部屋チェックもしようかなって考えてるんだけど」
「えっ、ちょ、それは困る」
「ふふ、冗談だよ」
「なんだ……」
翔は肩の力を抜いた。
彩花は常識人だと思うが、その真面目さゆえか、プロデュースのためとなると予測のできない行動に出ることがある。
「でも、そんなに慌てるってことは、見られちゃいけないものでもあるのかな〜?」
「い、いや、別にそういうわけじゃないけどさ。やっぱり女の子を招くなら、いろいろ気は遣うだろ」
「ふーん? まあ、いいけど。でも、いつかルームツアーはしてもらうからね」
「事前予約必須だからな」
「はーい」
小学生のような、元気のいい返事だ。
しかし、家が近づくにつれて、彩花の口数は目に見えて減っていった。
「着いたぞ」
「う、うん……」
ぎこちなく首を縦に振るその姿は、前にネットで見た人型アンドロイドのようだ。
少し心配になるが、もともと彼女から言い出したのだし、変に気遣う必要はないだろう。
「ほら、入れ」
「お、お邪魔します」
彩花は頬をこわばらせながら、そろそろと足を踏み入れた。まるで、かくれんぼをしているようだ。
彼女に続いて家に入り、鍵をかけたところで、京香が顔を出した。
「ただいま、母さん」
「おかえり」
京香は軽くあごを引いてから、顔を横に向けた。
「いらっしゃい、彩花ちゃん」
「は、初めまして。双葉彩花ですっ。えっと……きょ、今日はお世話になります!」
彩花が声を上擦らせた。背筋だけやたらとまっすぐだ。
「双葉、そんな緊張しなくていいぞ」
「だ、だって、男の子の家とか来るの初めてだし……っ」
うっすらと頬を染める彩花を見て、京香がスッと瞳を細めた。
そして、翔と交互に見比べてから、一言。
「二人は付き合ってるの?」
「「ち、違います!」」
反射で声が重なった。
一瞬だけ顔を見合わせるが、お互いすぐにそっぽを向いた。
「そう。まあ、節度を守っているなら私も主人も反対しないから、好きにしなさい。今日はゆっくりしていってね」
それだけ言って、京香は奥へと引っ込んだ。
(さばさばした人でよかった……)
翔は肩の力を抜いた。
ふと隣を見ると、彩花がじっと、京香の背中を見送っていた。
逆に、淡々としすぎていて気を悪くさせたか——。
不安がよぎったところで、彼女はぽつりとつぶやいた。
「格好いい……」
刺さっていたようだ。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、ゲーム機の準備とかするから適当に待っててくれ」
「うん、お願い」
彩花がリビングのテーブルで広げていた参考書を片づけ始める。
翔がコンセントなどの準備をしていると、京香が外出用の服装で現れた。
「ちょっと買い物行ってくる。彩花ちゃん、飲み物とかお菓子とかは自由にしていいから、ほしいときは翔に言ってね」
「あっ、はい。ありがとうございます」
「翔。花音が帰ってきたら、洗濯物出しておくように言っておいて」
「了解。行ってらっしゃい」
翔に軽く手を振り返すと、京香はリビングの扉を開けたまま玄関に向かった。
扉を開閉する音、続いて鍵の施錠音が聞こえると、彩花はもじもじと落ち着きなく体勢を変えた。
「双葉、どうした?」
「う、ううん。なんでもないよ。ゲーム、上手くできるかなって」
そう言って笑う彼女の口元は、わずかに引きつっていた。視線も微妙に合わない。
(……まあ、いいか)
翔は特に追求することなく、テレビ画面に向き直った。