第18話 お姫様からの頼み事
帰り支度を整えて玄関を出ると、彩花も靴を履いていた。
「……さすがにもう迷わないぞ?」
「わかってるよ。ちょっと駅前のコンビニで買いたいものがあるんだ」
「なるほどな」
そういうことなら、同行を断る理由はない。
さっきまでの賑やかさから一転して、二人きりの帰り道は妙に落ち着く。夕陽が沈みかけて、空が暗くなり始めているせいだろうか。
「それにしても、ケーキ買ってくるなんてびっくりしちゃった。すごく美味しかったし、嬉しかったよ」
「それならよかった」
花音にいろいろ吐かされてまでリサーチした甲斐があったというものだ。
「でも、次からは本当に気持ちだけで十分だよ。申し訳ないし、もともと弓弦の相手がプロデュースの対価だったんだしさ」
「そうだけど、さすがに色々してもらいすぎてるからな。ささやかなジムの使用料だと思ってくれ。月一くらいならいいだろ?」
「それでもなかなかの出費だと思うけど……」
「大したことないって。特に使い道もないし、やっぱり金かけたほうがちゃんとやろうって思えるから、ただの自己満だよ」
翔は正面から彩花と向き合い、力強く言い切った。
すると、彩花の瞳が左右に揺れ動き——やがて、そっと逸らされた。
「もう……そういうとこ、変に真面目だよね」
青白い街灯に照らされた彼女の口元には、苦笑が浮かんでいた。
「なんか悪いな」
「いや、こっちとしてはありがたい限りなんだけどさ。でも、これ以上グレード上げたら受け取り拒否するからね」
「おう。でも、本当にまだまだ返せてないって思ってるから、俺にできることがあったらなんでも言ってくれ」
「うーん、すでに十分なんだけど……」
彩花は腕を組み、考え込むようにアゴに手を当てた。
「じゃあ、ゲーム教えてもらおうかな」
「おっ、ハマったのか?」
「それもあるけど、草薙君とゲームしてる弓弦がすごい楽しそうだったからさ。私も相手になってあげたいなって」
「優しいな」
「ゴマすってもプロテインしか出ないよ?」
「それ、ゴリマッチョのセリフだから」
本格的なトレーニングウェアを着ているわけではないのでわからないが、彩花はゴリゴリというより引き締まっている、という印象だ。
「まあでも、私がうまくなっても草薙君の代わりは務まらないと思うけどね。あんなに一緒になってはしゃげないだろうし」
「しれっとガキっぽいってディスったな」
「ち、違うって。男の子っていいな、って思っただけだよ。女子に比べて真っ直ぐっていうか」
「……確かにな」
ふと中学時代のことを思い出してしまい、反応が遅れた。男にも陰湿な一面があることを、翔はよく知っていた。
それでも、議論をしようとは思わない。彩花だって、女子特有の複雑さも含めて、いろいろ経験してきているのだろう。
「どうしたの?」
「いや……」
翔は言葉を濁してから、ニヤリと口角を上げた。
「双葉もだいぶ素直だよな、って思っただけだよ」
「えっ……そ、そうでもないと思うけど」
彩花はそっと唇を噛み、うつむいた。
(えっ……)
翔は言葉に詰まった。こんなにしおらしくされるとは思っていなかった。
舌先が乾き、並んで歩く靴音だけが続く。
ガシガシと頭を掻く。余計なことを言わなければよかった。
頬を撫でる春の夜風が、やけに冷たい。
「それよりさ——」
彩花がふと、空気を変えるようにハキハキした声を出した。
なにか適当な雑談でも振ってくれるのだろう。
「草薙君、明日とか暇?」
「……えっ?」
思いがけない問いに、思わず足を止めた。
彩花はまっすぐこちらを見つめている。
「暇だけど……筋トレはないだろ?」
「うん、今日みたいに勉強してからゲーム教えてもらうのもアリかなって。勉強のご褒美なら罪悪感ないし、草薙君の視点って私と違うから、こっちもいろいろ学べるんだよね」
「それはあるな」
頭にはなかった解き方を教えてくれるので、翔としても思考の幅が広がっている感覚はあった。
「それに、弓弦がいると練習できないじゃん? その点、土曜の午後はサッカースクールだから、ちょうどいいんだ」
「でも、連日押しかけたら、さすがに迷惑じゃないか?」
「そんなことないよ。お母さんも気に入ってるみたいだし。いや、むしろお母さんのほうがうるさくなりそうか……」
彩花が眉間にシワを寄せる。
母娘の仲は良さそうだが、あまり干渉はされたくないのだろう。思春期であれば当然のことだ。
やっぱり、筋トレのついででいいんじゃないか——。
そう提案しようとしたところで。
「じゃあさ。そっちの家行っていい?」
「……は?」
ぽかんと口を開けたまま固まる翔に、彩花はやや早口で続ける。
「だってほら、弓弦が帰ってきた後も相手してもらったらさすがに申し訳ないし、かといってその前に帰ってもらうんじゃ、わたわたしちゃうじゃん? 毎回家に来てもらうのも悪いし」
「いや……まあ、理屈はわかるけどさ。そんな軽々と男の家に上がるのはよくないんじゃ——」
「実家暮らしでしょ? なら、リビングでやらせてもらえるなら、こっちは問題ないよ」
サラリとした口調だ。翔が考え過ぎているだけなのだろうか。
「あっ、もちろんご家族がOKしてくれたら、だけどね。それに、変なことされたら物理的に潰すし」
「怖いって。いや、もちろん何もしないけどさ」
「でしょ? もっと肩の力抜いてよ」
彩花がほんのりと眉をひそめる。
「あんまり身構えられるとこっちもやりづらいし……そもそも草薙君じゃなきゃ、こんな提案しないから」
「お、おう……」
他意がないことはわかっている。
それでも、うっすらと頬を染めてそんなことを言われると、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。
(まさか、精神的にも鍛えてくれているのか……いや、それはないよな)
単純に、これが本来の彩花なのだろう。
だからこそ強敵なのかもしれないが、素のままでいいと言ったのは翔なので、慣れるしかなさそうだ。
間もなくして、駅が見えてくる。
「一応、親に確認とって連絡するわ」
「うん。無理なら無理で全然いいからね。ウチはいつでも平気だし」
「おう」
親は放任主義なので、ほぼ大丈夫だろう。花音にダル絡みされる可能性はあるかもしれない。
「じゃあ、また明日な」
「うん、よろしくー」
彩花が手を振りながら踵を返して——そのまま目の前のコンビニを素通りしようとした。
すでに改札を通っていた翔は、手を口に添えて声を張った。
「あれ、コンビニ寄るんじゃなかったのか?」
「そ、そうだった……っ」
そそくさとコンビニに駆け込む姿を見送りながら、翔は意外とおっちょこちょいなんだな、と頬を緩めた。
次回、彩花さんが翔君の家を初訪問します!何事もなく終わるのでしょうか……。