第17話 お姫様と勉強会
「じゃ、部屋行こうか。こっちだよ」
シャワーを浴びてから再びリビングに戻ると、彩花はスタスタと階段を上っていく。まったく気負っていないようだ。
——健全な男子高校生である翔は、そうはいかなかった。
「し、失礼します」
「そんな緊張しないでいいよー」
彩花の部屋は、きれいに片づいていて、ほのかに甘い香りが漂っていた。
派手さはないが、カーテンやクッションカバーの色味が柔らかく、いかにも女の子らしい雰囲気だ。
(いや、これで緊張するなは無理あるだろ……)
俺が気をつければいいだけだとか言っていたのは、どこの誰だ。過去の自分に呆れながら椅子に座り、いつも以上にワークを凝視する。
今日の課題は、英語の長文読解だ。疲労からペンを持つ手が震えてしまい、彩花に笑われた。
「今後はもっと徹底的に管理すべきかな?」
「だ、大丈夫だって」
人間は適応する生き物だ。
彩花の自室をただの勉強場所だと脳が学習すれば、雑念など浮かばなくなり、オーバーワークをする必要もなくなる……はず。
「ふーん? まあ、とりあえずは信じてあげよう」
含み笑いを漏らしてから、彩花もペンを手に取る。
「わからなかったら遠慮せず聞いてね。私の勉強にもなるから」
「おう」
しばらくは互いに黙々と進めていたが、翔は七行目で手が止まる。
「双葉、ちょっといいか?」
「うん、なに?」
「この一文なんだけどさ。イマイチ訳せなくて」
「あー、それ結構複雑だよね。私も何回か読み直したよ。書き込んでいい?」
「もちろん。頼むわ」
プリントの該当箇所を指で示す。
彩花は隣から身を乗り出してきた。
「ここは主語が重くて、ここまでが主語を修飾してるから——」
(え、近っ……!)
不意に視界いっぱいに広がった端正な横顔と、鼻先をくすぐる石けんとシャンプーが混じったような風呂上がりの匂いに、翔は思わず喉を鳴らした。
「草薙君、どうしたの……」
彩花は振り向いたところで、言葉を失って固まった。
二人の顔は、吐息がかかるほど接近していた。わずかでも動いたら、触れてしまいそうな距離だ。
それなのに翔は、こぼれ落ちそうなほど見開かれた彩花の瞳から、目が離せなかった。
彼女も息をするのを忘れたように、こちらを見つめている。
お互いの心臓の音が聞こえそうなほどの静寂が、その場を包んでいた。
——ハッとなって顔を背けたのは、ほぼ同時だった。
「ご、ごめん!」
「い、いや、こっちこそ」
頭が真っ白になって、言葉が出てこない。彩花も頬を染めたまま、オロオロと視線を彷徨わせている。
しばしの間、部屋にぎこちない沈黙が落ちた。
「あー……じゃあ、直接概要だけ書き込んでくれるか?」
「う、うん。そうだね」
彩花は翔のプリントを引き寄せ、ペンを走らせ始めるが——「bag」が「bug」になっていた。
「双葉。俺、虫はあんまり好きじゃないんだ」
「えっ? あっ、ごめん」
「確かにバグではあるけどな」
「うるさいなぁ」
彩花は唇を尖らせたが、すぐに目元を和らげた。
少しだけ、張りつめていた空気が和らいだ気がした。
しかし、同時に翔の気も緩んでしまったのだろうか。
それから程なくして、猛烈な眠気に襲われた。
(やば、ねむ……)
視界がかすむ。字を追っているはずなのに、何一つ内容が入ってこない。
筋トレの疲労感も同時に襲ってきているようだ。
「寝ててもいいよ。起こすから」
「いや、平気……」
そう答えるものの、限界だった翔は、やがて机に突っ伏してしまった。
「——安心して。きっちり目覚めさせてあげるから」
寝落ちする直前、そんな声が聞こえた気がした。
そして、次に目を開けた瞬間。
巨大な黒い物体が、顔のすぐ下にいた。
「うおぉっ⁉︎」
跳ね起きると、彩花が吹き出す気配がした。
それでも、その物体はびくとも動かない。
「……おもちゃ?」
「弓弦のね。さっき揶揄った罰だよ」
彩花が得意げに胸を張る。「bug」のスペルミスに対する意趣返しとしては完璧だ。悔しいけど、認めざるを得ない。
「どう? 完全に目覚めたでしょ」
「……気分は最悪だけどな」
「ふふ。さぁ、ケーキを心から楽しむためにも、あとちょっと頑張ろ?」
「急に切り替わるな……」
学校でのお姫様モードといい、まるでスイッチを切り替えているかのようだ。
みんなに求められているお姫様の自分を体現するために、培われた技術なのかもしれない。
そう思うとなんだかやるせない気持ちになるが、今の彩花はイタズラが成功したためか、妙に機嫌の良さそうだ。
(ちょっと複雑だけど……)
それでも、どんな形にせよ肩の力を抜ける場所になれているなら、素直に嬉しい。
鼻歌混じりにシャーペンを動かしている彩花を見ると、自然とやる気が湧いてきて、翔も再度机に向かった。
◇ ◇ ◇
結局、弓弦が帰宅する頃には、宿題はすべて終わっていた。
「夕食前に宿題終わったの、久々かもしれない」
「私が眠気を飛ばしてあげたおかげだね」
「うるさい」
「ふふ。ほら、下行こう?」
彩花が弾んだ足取りで部屋を出る。
翔は肩をすくめた。頬が緩んでしまっているのを自覚しながら、その後に続いた。
「あっ、翔くん!」
「おう、おかえり」
「ただいま!」
荷物を下ろしていた弓弦は、翔の姿を認めるや否や駆け寄ってきた。
遊んだ後だというのに、相変わらず活力に満ちあふれている。
「ほら弓弦、手を洗ってらっしゃい。翔君がケーキ買ってきてくれたから」
「えっ、ケーキ!? やった!」
弓弦が大きな声を出した。まだ実物を見てもいないのに、頬が落ちそうになっている。
これだけ喜んでくれると、買ってきた甲斐があるというものだ。
四人でダイニングテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせるや否や、弓弦のフォークがタルトに伸びた。
「うまっ! めっちゃうまい!」
歓声を上げた弓弦は、二口目、三口目と立て続けにフォークを動かす。
「焦って食べちゃダメよ」
「うん!」
真美に注意されて元気よくうなずくも、一向にスピードを緩める様子はない。真美と彩花、そして翔は、そっと顔を見合わせて苦笑した。
勢いそのままに食べ終えた弓弦は、翔のお皿が空になると、待ってましたとばかりに立ち上がる。
「ねえ翔くん、またゲームやろうよ!」
「ちょっと弓弦、草薙君に迷惑でしょ。もう夕食どきなんだから」
翔が答えるより先に、彩花が弟をたしなめた。
「えー、ちょっとだけならいいじゃん! お姉ちゃんだって遊んだんでしょ?」
「トレーニングと勉強だから。別に遊んでたわけじゃないよ」
しかめっ面をする彩花の肩を、翔はポンポンと叩いた。
「宿題も終わってるし、俺は問題ないよ。もちろん迷惑でなければ、ですけど」
視線を向けると、真美は柔らかくうなずいた。
「じゃあ、ちょっとだけ遊んであげてくれる?」
「もちろん。よし弓弦、やろっか」
「やったー!」
椅子から飛び上がった弓弦が、そのままの勢いでゲーム機に突進していく。
その背中を見送っていると、彩花がこそっと耳打ちしてくる。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
「気にすんな。俺も楽しいから」
そう笑いかけると、彩花は瞳を丸くしたが、すぐに目尻を下げた。
「やっぱり優しいよね、草薙君って」
「え、あっ、いや……っ」
いつになく柔らかい声に、翔は茶化すことすらできずに口ごもってしまった。
鼓動が早まり、体中の血液が顔に集まり始める。
「……別に、そんなことないだろ」
翔は顔を背けると、慌てて弓弦の元へ向かった。
——だから、背後で口元を押さえてうつむく彩花の姿には、気づくことができなかった。