第15話 お姫様からの視線と、不穏な気配
彩花と屋上で昼食を共にした翌朝。
翔が教室に入っても、誰かに問い詰められたり、睨まれたりすることはなかった。幸いというべきか、香澄と翼以外には見られていなかったようだ。
「なぁ。双葉さん、なんか困ってるくね?」
ふと、浩平たちのヒソヒソ声が耳に届いた。
見ると、彩花は不自然にキョロキョロしていた。
「えっ、マジじゃん」
「チャンスじゃね? 俺行っちゃおうかな〜」
そのとき、彩花の瞳が翔を捉えた。
すぐに逸らしたりはせず、むしろじっとこちらを見ている。——まるで、何かを訴えかけるように。
(助けてってことか? いや、俺がいきなり話しかけても変だよな。勘違いかもしれないし……)
尻込みする翔の脳裏に、昨日の自分の言葉がよみがえる。
『俺は別に周りの視線とかどうでもいいから。双葉もそこは気にしなくていいぞ』
横目で浩平たちを観察する。
明らかに浮き足立ってはいるが、実際に立ち上がっている者はいない。
翔はひとつ息を吐き、腰を上げて彩花のほうへ歩き出した。
その頬がほんのりと緩む。どうやら、翔の自意識過剰ではなかったようだ。
「双葉。どうかしたのか?」
声をかけると、浩平たち以外にも彩花の挙動に注目していた者は多かったのか、教室内のざわめきがぴたりと止んだ。
しかし、彼女は気にする様子もなく、拝むように両手を合わせる。
「消しゴム忘れちゃってさー。二個持ってたら貸してくれない?」
「なんなら三個持ってるぞ。ちょっと待って」
自席に戻り、筆箱から消しゴムを取り出す。
浩平たちからの鋭い視線を感じて、足がすくみそうになるが、なんとか堪えて彩花の元に戻った。
「これでいいか?」
「うん、ありがと。あっ、お尻のところよれてる」
「邪魔なら切っていいぞ」
「えっ、いいの?」
「おう。むしろ切ってくれるとありがたい」
面倒くさいからそのままにしているだけの話で、いるかいらないかで言えば、いらないのだ。
そのことに気づいたのか、彩花はじとっとした視線を向けてきた。翔はそっぽを向いた。
「……まあ、貸してもらってる身だし、それくらいはやってあげよう」
彩花が小さく笑いながらハサミを取り出したところで、美波が登校してきた。
「美波。おはよー」
「おはよ」
美波が彩花と翔を見比べ、怪訝そうな表情を浮かべる。
「二人の組み合わせって珍しいね。どうしたの?」
「消しゴム忘れちゃってさ。草薙君に借りたんだ」
「へぇ、そうだったんだ」
翔を見る美波の瞳がスッと細まる。
しかし、すぐに視線を外し、ゴソゴソとカバンの中を漁って、筆箱を取り出した。
「別に私の貸してもいいけど」
「ありがと。でも、せっかくだからこれ使うよ」
彩花が翔の消しゴムを掲げた。
余っていたカバーの部分が切り落とされ、幾分スタイリッシュになっている。翔は彩花の紹介で初めて美容院に行ったときのことを思い出した。
「あっ、そう? オッケー」
美波は軽く目を見開いたが、すぐに引き下がった。
そのタイミングで、翔も自分の席に戻る。
彩花と話しているときは気にならなかったが、浩平たちから発せられる空気は鋭いままだ。
特に浩平は、苛立ちを抑えるように貧乏ゆすりをしていた。その振動で、彼の椅子がギシギシと鈍い音を立てる。
「っ……」
背中を冷たい汗が流れる。
朝練を終えた潤に話しかけられるまで、翔は突っ伏して寝たふりをしていた。
◇ ◇ ◇
「翔。なんか今日ソワソワしてね?」
昼休み。潤がパンを片手に、まじまじと翔を見つめてきた。
「えっ? 別に普通だろ」
「いや、俺の勘が何かあるって告げてるぜ——なぁ、もしかして?」
「違うっつーの。お前と遊ぶのが楽しみなだけだよ」
「二週間以上先だろ、それ」
軽口を交わしながらも、心のどこかが落ち着かないのは否定できなかった。
浩平たちのこともあるし、放課後に少し慣れない用事を済ませる必要があるため、自分でも知らないうちにソワソワしていたのかもしれない。相変わらずの野生の勘だ。
「無人島に一人連れて行けるとしたら、潤にするわ」
「ザリガニ獲りなら任せろ」
「ピンポイントすぎるだろ」
食用のザリガニが生息していない限り、他の人を選んだほうが無難そうだ。
◇ ◇ ◇
放課後。
彩花は相変わらずクラスメイトたちに囲まれ、お淑やかな「お姫様」の笑みを浮かべていた。
その先頭にいるのは浩平だ。いつもよりも、どこか距離が近い気がする。
(……まあ、俺が気にすることじゃないか)
集団の横を通ったとき、視線を感じた。
浩平が、口の端を吊り上げてこちらを見ていた。
翔は足を止めずに教室を出た。張り合うつもりはなかった。
それに正直なところ、今日ばかりは彩花を足止めしてくれていたほうがありがたいのだ。
しかし、そそくさと駅へ向かう途中だった。
「——草薙君」
背後から呼ばれ、振り向くと、彩花が近づいてきていた。
少しだけ息が乱れている。どうやら駆け足で来たようだ。
「もう、帰るの早いよ。一緒に行っちゃったほうが楽かと思ってたのに。消しゴムも返してなかったし」
「あっ、それはごめん。ジム前にちょっとだけ用事があったからさ」
「そうなの? ついでだし、全然付き合うよ」
「いや、それは悪いから先行ってて」
ほんのわずかに、彩花の眉間が寄る。
「……まあ、いいけど。遅くならないでよ」
「わかってる」
少し不満そうな声色に罪悪感を覚える。しかし、こればかりは着いてこられるわけにはいかない。
すぐに知られることにはなるのだが、翔にも男のプライドというものがあるのだ。
「それと、今後は連絡してね。わざわざ別々にやる理由もないんだから」
「そうだよな。ごめん、次から気をつける」
プロデュースしてもらっている側なのだから、連絡は徹底しなければならなかった。
翔が頭を下げると、彩花がひらひらと手を振った。
「別に、そんな気にしてないよ。——それにしても、よく私のアイコンタクトの意味わかったね」
助かったよ、と消しゴムを渡してくる。
「おう、勘違いじゃなくてよかった。けど、別に周りの女子とかから借りてもよかったんじゃないか?」
「美波ならいいんだけど、他の子だと意外と誰に借りるかが難しいんだよね」
「あー、そういうことか」
何気ない物の貸し借りでも、いや、だからこそ、頼ってもらえたか否かはステータスになるのかもしれない。
特にそれが彩花であれば、なおさら神経を尖らせる人がいてもおかしくないだろう。巡り巡って、彩花自身に牙を向くことすら考えられる。
「バカみたいだけど、女子ってけっこうそういう立ち回りも大事になるからさ。かといって下手に男子から借りちゃうと、もっと面倒な場合もあるし」
「それはそうだな」
そちらは想像に難くなかった。
「そういうわけだから、これからも頼らせてもらってもいい? 今回みたいに美波がいない場合もあるし」
「全然いいぞ」
翔は間髪入れずにうなずいた。
若干男扱いされているのか不安になるが、一応信頼してもらえているのだと思えば、悪い気はしなかった。
「そんなに時間かからないよね?」
「すぐに終わるし、電車の時間も報告するよ」
「ならいいけど。あんまり遅くなったらメニュー増やすからね」
「大丈夫だって」
寄り道するとでも思われているのだろうか。忠告に苦笑いを浮かべながら、ホームに降り立った彩花に軽く手を振った。
翔の目的地は、そこから二つ先の駅を降りたところにあった。