第126話 お姫様は何やらテンションが高いようです
「返信がない……」
スマホの画面を見つめながら、翔は小さくつぶやいた。
彩花の最寄り駅に到着したというのに、いつものように迎えの姿はない。
電車に乗る前に送ったメッセージにも、既読すらついていなかった。
(もしかしたら、昼寝でもしてるのかもな)
スマホをポケットにしまい、ひとまず双葉家へと歩き出した、そのときだった。
「——わっ!」
「うわっ⁉︎」
背後から突然大きな声が響き、翔は肩を大きく跳ねさせた。
心臓がバクバクと鳴る中、振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべる彩花の姿があった。
「ドッキリ大成功!」
「……心臓に悪いって」
翔がため息を吐くと、彩花はくすくすと笑いながら並んで歩き始めた。
「ごめんね。数日ぶりだなって思ったら、何かしたくなっちゃって」
「だからって返事も寄越さないで待ち伏せするか、普通」
「普通じゃないからいいんだよ」
彩花は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張った。
その横顔を見ていると、怒る気力も失せてしまう。
「……それにしても、なんかテンション高くないか?」
「そう? まあ、久しぶりに草薙君を追い込めると思うと、腕は鳴るよね」
言いながら、彩花はシャツの袖をぐいっと捲り上げて、力こぶを作ってみせた。
日々のトレーニングの成果か、健康的に引き締まってはいる。
だが、やはり女の子らしい華奢なラインが際立っており、決して筋肉質とは言い難い。
(前も思ったけど、絶妙にコメントしづらいんだよな……)
「あ、今細いなってバカにしたでしょ」
「してないって。そもそも、女の子は細くていいだろ」
「そういう問題じゃないの」
彩花はむっと眉を寄せ、捲った袖を戻そうとして——ふと、手を止めた。
何かを思いついたような顔で、翔に腕を差し出してくる。
「触ってみて」
「えっ」
「意外と筋肉ついてるって、証明してあげる」
翔は反射的に首を振った。
「いや、別にいいって。疑ってないし」
「いいから」
彩花は有無を言わせず、翔の右手を取ると、自分の二の腕へと導いた。
「っ……」
指先が、彩花の腕に触れる。
すべすべとした滑らかな肌の感触が、直接伝わってきた。
表面は女の子特有のふっくらとした柔らかさがあるのに、軽く指を押し当ててみると、内側からはしなやかで引き締まった筋肉の確かな反発を感じる。
——いや、待て。
翔は途中で我に返った。冷静に考えて、今の状況は普通じゃない。
だんだんと顔に熱が集まってくるのがわかり、パッと手を引っ込めた。
「……ちゃんと筋肉がついてるのは、わかったよ」
「でしょ?」
彩花は得意げに胸を張る。けれど、その頬にはほんのり赤みが差していて、視線も少しだけ泳いでいた。
彼女なりに、恥ずかしさを堪えていたらしい。
「でも、やっぱり一人だと追い込みがきかないというか、味気ないよね」
「ああ……それはそうだな。勉強でも、見られてると思うといい感じの緊張感があるし」
「だよね。——というわけで、一分一秒も無駄にしないようにしよっ」
そう言い残すと、彩花は早足で歩き出してしまう。
翔は一瞬ぽかんとしてから、慌ててその背中を追いかけた。
「おい、ちょっと待てって」
「待たないよー」
前方から軽やかな声が返ってきて、翔は思わず頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
双葉家のホームジム。
「そういえば、動画どうだった?」
翔はベンチプレスの重りを調節しながら、ふと思い出して尋ねた。
正志が帰省している間、彩花から出された宿題の一つが、トレーニング動画の提出だった。
自撮りの練習も兼ねて、とのことだったが、正直なところ、恥ずかしさのほうが勝っていた。
「ああ、あれね。うん、フォームも綺麗だったし、ちゃんと言われた通りこなせてたよ」
彩花はプロデューサーらしい口調でうなずいた後、スマホを取り出して画面を操作し始めた。
「毎回のセットの最後らへん、腕がプルプル震えてて、頑張ってるのが伝わってきたよ。ほら、特に最後とか生まれたての子鹿みたい」
ニヤリと笑い、スマホの画面を翔に向けてくる。
そこには、腕立て伏せの終盤で、腕を小刻みに震わせながら必死に体を持ち上げようとしている自分の姿が映し出されていた。
「……いや、そんな細かいところまで見なくていいから」
「えっ? ——あ、いや、そういうつもりじゃないし! たまたま気づいただけだから!」
みるみるうちに、彩花の耳の先まで赤く染まっていく。
(俺も、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけどな……)
そう思ったが、口に出せる雰囲気ではなかった。
互いに視線を合わせられないまま、数秒の気まずい沈黙が流れる。
「その……変なことさせてごめん」
やがて、彩花がぽつりとこぼした。
「自撮りの練習っていうのもほんとに思ってたし……あのときはちょっと、変なテンションで」
翔は電話越しに楽しそうにメニューを送ってきたときの声を思い出した。
確かに、いつもよりテンションが高かった気がする。
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただ、その……動画は消してくれると助かるんだけど」
「いや、部活で引退したときの映像で使えるかもしれないから取っておくよ」
「それ以外に動画の素材ないだろ」
「まず部活がないんだけどね」
彩花がふっと笑い、空気が少し軽くなった。
彼女は立ち上がると、ぱんぱんと膝を叩いた。
「よし、それじゃあ今日のメニュー始めよっか」
「了解」
完全に話題を切り替えるように告げられ、翔は大人しくベンチに背中を預けた。
(……結局、消してくれてないな)
頭の片隅でそう気づいたが、どうせトークルームには残っているのだ。
これ以上しつこくお願いするのも、変に意識しているみたいで余計に恥ずかしい。
(……まあ、いいか)
翔は小さく息を吐き、フォームを確認しながら腕を動かし始めた。
◇ ◇ ◇
トレーニングを終え、勉強に移ってからしばらく経った頃だった。
彩花がペンを置いて、不意に口を開いた。
「そういえば、花音ちゃんは幼馴染君に誕プレ渡せたの?」
「いや、渡してないっぽい。机に置かれてるの見えた」
「え……」
彩花は目を見開いたが、すぐに小声で尋ねてきた。
「もしかして、喧嘩したとか? 花音ちゃん、大丈夫なの?」
「それが、大丈夫じゃなさそうなんだよな」
今朝も部活に行ったが、明らかに元気がない様子だった。
「ここ数日、憎まれ口も叩かれてないし、これは異常事態だぞ」
「それはそれでどうなの……ま、草薙家兄妹の在り方についての議論は置いておくとして、確かに心配だね」
彩花が困ったように眉を寄せた。
「どうにかできないか? 家の空気もどんよりしてるから、なんとかしたいんだよな」
「とか言って、純粋に心配なんでしょ?」
「っ……妹の心配をするのは、当然だろ」
翔が視線を逸らすと、彩花はくすりと笑った。
「そうだね。でも、女の子は複雑だからなぁ。よほど危なそうじゃなければ、向こうから相談してこない限りはノータッチのほうがいいと思うよ」
「まあ、それは俺も思うけど……」
確かに、下手に踏み込んで逆効果になるのは避けたい。
けれど、花音のことだ。一人で抱え込んでしまわないだろうか。
「翔君的には理解できない感覚の話かもしれないしね。女の子って、男の子からしたら『そんなことで?』みたいなのを気にするし、結構引きずるから」
「そういう話は聞いたことあるけど。彩花も?」
「もちろん。だから、翔君も気をつけてね」
彩花が人差し指を立てて、軽く翔の方を指した。
「今のところ、俺は大丈夫か?」
「まあ、基本的には大丈夫なんじゃないかな。なんせ、紳士だから」
「……それ、言われすぎると逆に安っぽく感じてくるんだけど」
「ずっとそう思ってるから、何回も言ってるだけだよ」
彩花が真っ直ぐな目で言い切る。
「……なら、いいけど」
翔は咳払いをして、視線を自分のワークに落とした。
「ま、とりあえず、花音ちゃんはもう少し様子見かな」
彩花がペンを回しながら、思案顔で続けた。
「むしろ、幼馴染君のほうから攻略したほうがいいような気もするけど。連絡はできる?」
「いや、遊んでたのはあいつらが小さい頃だから。花音に聞くわけにもいかないし……でも、家は知ってるから、もうちょい今の状態が続くなら、行ってみようかな」
翔が答えると、彩花は少し迷うように視線を泳がせてから、意を決したように口を開いた。
「ねぇ、そのときは私も行っていい?」
「えっ、彩花も?」
「うん。花音ちゃんには幸せになってほしいし、私たちのおかげで付き合ったら思いきりイジれるじゃん」
「……彩花のほうがいい性格してるよな」
翔が呆れたように言うと、彩花は肩をすくめた。
「でも、正直ありがたいかも。女の子目線の意見は絶対必要だろうし」
「でしょ? 任せてよ」
彩花が胸を張る。
その表情は頼もしくもあり、少しだけ楽しそうでもあった。
◇ ◇ ◇
勉強会を終え、翔は彩花に最寄り駅まで送ってもらっていた。
駅が近づいてきたところで、ふと前方に人影が見えた。
見覚えのある後ろ姿だった。
肩を落とし、足取りは重い。まるで、何か大きなものを背負っているかのように。
翔にはその背中が、つい数時間前に見送った覇気のない妹の背中と重なって見えた。
「——北斗君!」
気づけば、翔は声を上げていた。




