第125話 お姫様からの宿題
ペンを置いて時計を見ると、勉強を始めてから一時間以上が経過していた。
「もうすぐ、父さん帰ってくるな」
父親の正志に会うのは、高校入学時以来だ。
そろそろ下に降りようかと立ち上がったところで、スマホのバイブが鳴った。
画面を確認すると、『双葉 彩花』の文字。
通話ボタンをタップして、スマホを耳に当てる。
「もしもし」
『翔君。今ちょっといい?』
「おう。どうした?」
『実はね、明後日の筋トレと勉強会なんだけど、明日の午後にずらせないかなって思って。美波と遊ぶことになっちゃってさ』
「あー……悪い。今日と明日で父さんが帰ってくるから、ちょっと無理そうだ」
翔が答えると、電話の向こうで彩花が小さく「そっか」とつぶやいた。
『お父さん、単身赴任だもんね。じゃあ、仕方ないか』
「悪いな」
『ううん、気にしないで。……でも、ちょっと空いちゃうね』
彩花の声が、わずかにトーンを落とした。
今日は彩花のほうにも用事があったから、次に筋トレと勉強会をするのは四、五日後だ。
「文化祭準備では会うだろ」
『そうだけど、やっぱりそれとは別じゃん。その……二人のほうが落ち着くし』
「まあ、お互い大人数は苦手だしな」
『……そうだね』
ふっと、息をこぼす音がした。
それからすぐに、声音が切り替わる。
『けどやっぱり、筋トレと勉強の間隔が空くのは、プロデューサーとして好ましくないな』
少しおどけた口調だった。
翔は思わず肩の力が抜けるのを感じた。
「じゃあ、前みたいに宿題出してくれよ」
『いいね。じゃあワークと……自重トレも入れとこうか』
「えっ、筋トレも?」
『もちろん。一応確認したいから、その日のうちに動画を送ってもらおうかな』
「ちょ、ちょっと待て。それはさすがに恥ずかしいって」
同級生の女の子に自分のトレーニング姿を送るなど、何の罰ゲームだ。
『自撮りの練習も兼ねてだよ。一石二鳥でしょ?』
「いや、それはまた別だろ」
『いいのいいの。後でそれぞれ範囲とメニュー送るね。それじゃ、ちゃんとお父さんに親孝行するんだよ』
「あ、おい、彩花——」
ツーツーという電子音が、無情にも耳元で響いた。
あの声の弾み方、絶対に楽しんでいたに違いない。
「マジかよ……」
スマホの画面を見つめながらがっくりと肩を落としたそのとき、インターホンが鳴った。
◇ ◇ ◇
久しぶりの四人での夕食は、時間がゆったりと流れた。
「それにしても翔。体つきが少しがっしりしたんじゃないかい?」
近況報告が一通り終わったあたりで、正志が翔に目を向けた。
「まあ、ちょっと鍛えててさ」
「そうなんだ。自分で腕立て伏せとかをやったり?」
「いや、ジム。友達がホームジム持ってて」
そのとき、隣で花音が勢いよく身を乗り出した。
「お父さんっ、その友達はなんと女の子で——」
「余計なことを言うのはこの口か?」
翔はすかさず手を伸ばし、花音の頬を両指でぐいっと引っ張った。
「いっ、ちょっと、やめ……っ」
抗議の声を上げる花音を見て、正志は穏やかに笑った。
「二人の仲も良好そうで何よりだよ」
「どこがだよ」
「どこがなの」
「「——あっ」」
見事に重なった声に、正志がふっと笑い声を漏らす。
翔と花音は互いに顔を見合わせ、同時に反対方向を向いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
玄関先で、靴を履き終えた花音が申し訳なさそうに振り返った。
「ごめん、せっかくお父さん来てるのに」
「気にしないで楽しんできなさい」
正志が穏やかに言うと、花音は「うん」と短くうなずいた。
「頑張れよ、花音」
「うるさい。そういうのじゃないから」
翔が正志の背後から揶揄うように声をかけると、花音はむっと眉を寄せて扉を開けた。
リビングに戻ると、正志がゆっくりと口を開いた。
「今日の相手、もしかして例の幼馴染の男の子かい? 北斗君と言ったかな」
「そ。誕プレ渡すみたい。誕生日は過ぎてるみたいだけど」
元々は誕生日の前日に渡すつもりだったらしいが、北斗に外せない用事が入ったらしく、今日に変更となったそうだ。
花音は「別にちゃんと約束してたわけじゃないから」などとぶつぶつ言っていたが、明らかに強がっている様子だった。
ここ数日は、特に刺激しないよう気を遣ったものだ。
「ああいう性格だから、素直におめでとうなんて言えなそうだけど」
「確かに、花音には少しハードルが高いかもしれないね」
翔と正志は顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
一息ついたところで、正志が不意にじっと翔を見つめてきた。
「……父さん、どうした?」
「いや……昨日から思ってたけど、前よりも表情が明るくなったね」
「そうか? まあ、確かに毎日が充実してるなーとは思うけど」
「何よりだよ」
正志は柔らかくうなずいた。
「けど、何かあったら遠慮なく相談していいからね。京香さんでもいいし、花音だって、いざとなったら真剣に寄り添ってくれるだろうから」
「それは、わかってるよ」
あの小生意気な妹が、いざというときに心配性なことはわかっている。
これまでだって、何度も助けられた。
「時に翔、ホームジムを持ってる友達は女の子だって?」
「……うん、まあ」
不意の問いかけに、翔は一拍置いてうなずいた。
なんとなく触れてほしくなかっただけで、嘘まで吐くつもりはない。
どうせすぐバレるし、やましいことも特にないのだから。
「どんな子なんだい?」
「別に、普通の女の子だよ。面白くて、一緒にいて落ち着く子。ちょっとおっちょこちょいだけど」
「そうか。一緒にいて落ち着くというのは、大事な要素の一つだと思うよ」
正志は少し遠くを見るように目を細めた。
「私が京香さんと人生を共に過ごしたいと思ったのも、それが一番の決め手だったからね」
「まあ……それはそうだよな」
どれだけ見た目がタイプでも、一緒にいて疲れる相手と長くやっていけるとは思えない。
「けど、別に彼女とかじゃないから」
「うん、そこは翔の好きにするといい。でも——」
正志の声が、わずかに真剣みを帯びた。
「可能性を否定してはいけないよ」
「……可能性?」
「そう。他人に対しても、自分自身に対してもね。それは、とても失礼なことだから」
「えっと……要は決めつけるな、ってこと?」
「うん、そういうことだね。今はまだよくわからないかもしれないけど、頭の片隅に入れておくといいよ」
「ああ、うん……わかった」
うまく言葉にはできないが、何かとても大切なことを教えられた気がした。
ただ、正志の言葉が何を指し示しているのか、このときの翔にはまだ、わからなかった。




