第122話 映画の約束
彩花の机の前に並んで座り、それぞれワークを広げる。
翔は現代文の問題に取り組みながら、わからないところは彩花に質問した。
反対に彩花は、数学の問題で詰まると翔に助けを求めた。
「翔君。この問題、どうやって解くんだっけ?」
彩花がペン先でノートを示す。
翔は身を乗り出して問題を覗き込み、式を書き込みながら説明した。
ふわり、と甘い香りが鼻先をくすぐる。
シャンプーの残り香だろうか。翔の鼓動が、わずかに速まった。
「なるほど。ありがと、翔君」
「おう」
翔は短く答えて、自分のワークに視線を戻した。
「ふわぁ……」
しばらく勉強を続けていると、ふいに睡魔が襲ってきた。
(やば……眠い)
運動とシャワーによるじんわりとした心地よい疲労感と、エアコンの効いた部屋の快適さが、翔のまぶたを重くした。
「翔君、眠そうだね。ちょっと寝てていいよ。起こしてあげるから」
「いや、大丈夫……」
口ではそう答えたが、もう限界だった。
翔は机に突っ伏すようにして、意識を手放した。
——どれくらい時間が経っただろうか。
くすぐったい感触が、脇腹を撫でた。
「んっ……」
もぞもぞと身じろぎする。
しかし、くすぐったさは止まらない。それどころか、どんどん激しくなっていく。
「ちょ、まじでやめ……っ⁉︎」
翔は反射的に飛び起きて——息を呑んだ。
目を見開いて固まる彩花の顔が、すぐ目の前にあった。
「っ……!」
翔の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
二人の顔は、吐息がかかるほどの距離だった。
「あ、えっと……っ」
彩花の瞳が揺れ、頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
翔は咄嗟に身を引いた。
「……突然どうしたんだよ?」
なんとか声を絞り出すと、彩花も慌てて距離を取った。
「その、前に虫ドッキリはやったし……弓弦が寝てたせいで、少しこちょこちょ欲が溜まってたっていうか」
「そんな欲あるか。というか、普通に起こすって選択肢を持ってくれ。一応、異性を部屋に入れてるわけだしさ」
翔が苦言を呈すると、彩花はほんのり唇を尖らせた。
「……そうやって言ってくれる時点で、翔君は大丈夫でしょ」
「いや、まあ、それはそうだけど……」
翔は語尾を濁した。
何を言えばいいのか、そもそも何かを言うべきなのかもわからなかった。
「……ちょっとお手洗い行ってくる」
彩花はどこか素っ気なく言い残すと、振り返ることなく部屋を出ていった。
一人残された翔は、天井を見上げて大きく息を吐いた。
「なんか、伝え方まずかったかな……」
彩花の不満そうな表情が蘇る。
少しばかり読解力が上がっても、実生活にはあまり効果はないらしい。
幸い、トイレから戻ってくると、彩花はいつも通りの調子を取り戻していた。
翔はわずかに釈然としない思いを抱えつつも、話を蒸し返そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
勉強を終えた後、翔はいつも通り、彩花に駅まで送ってもらっていた。
夕暮れの空を見上げながら、二人で並んで歩く。
「三人でのランニングもそうだし、勉強後のゲームも付き合ってくれてありがとね」
彩花が穏やかな声で言った。
「気にすんな。俺も楽しませてもらってるから」
「それなら良かったけど、弓弦がまた草薙君と映画とかも観たいって言ってるから、いつかもう一回くらい付き合ってもらうことになるかも」
「スケジュールが合えば、二回でも三回でもいいぞ」
「ふふ、そっか。でも、弓弦があんまり懐いたら、お父さんがまたペンを折っちゃうね」
彩花がくすくすと笑う。
翔も口元を緩めた。輝樹なら本当にへし折ってもおかしくなさそうだ。
「映画と言えば、草薙君は恋愛映画とか興味あるって言ってたよね? 今はなにか、気になってる作品とかある?」
彩花が何気なく尋ねてきた。
「うーん、そもそもあんまり知らないんだよな。どんなのがやってるんだ?」
「えっとね、これとか評判いいみたいだよ」
彩花はすぐにスマホを取り出し、画面を翔に見せてきた。
映し出されたのは、クラスメイトの男女が入れ替わる青春映画のポスターだった。
「あれ、これって、弓弦と三人で行ったときにポスターになってたやつか?」
「そう! よく覚えてたね」
彩花の声が、一段明るくなった。
「あのとき、草薙君が興味あるって言ってたし……えっと、その……」
彩花の言葉が急に勢いを無くした。
彼女はオロオロと視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように翔を見た。
「良かったら、一緒に観に行かない?」
「……弓弦と三人で、ってことか?」
「ううん。あの子はこういうの、まだ興味ないよ」
翔が確認すると、彩花は首を横に振り、早口で続けた。
「その、琴葉は緑川君と見るみたいで、美波はこういうの興味ないし。それにほら、前に草薙君も言ってたけど、一人で観に行くのはちょっと腰が引けるっていうか」
「ああ、確かにそれはあるよな」
「うん……それに、二人で見たら楽しいだろうし」
「えっ?」
「あ、い、いやっ、一人で見るよりってことだよ⁉」
彩花が慌てて付け加える。
翔はその勢いに気圧されるようにうなずいた。
「あ、ああ、それはわかってるよ。俺でいいなら、行こうぜ」
「ほんと? じゃあ、決まりね。いつにする?」
彩花が前のめりになって尋ねてくる。
瞳が輝いていて、楽しみにしているのがひしひしと伝わってきた。
翔はこほん、と咳払いをした。
「ん、どうしたの?」
「いや、ちょっと喉乾いてさ」
翔はペットボトルを取り出し、水を一口飲んだ。
喉を通る冷たい感覚が、やけに心地よい。
「ふぅ……混んでるだろうし、夏休み後にするか?」
「でも、学校に加えて文化祭準備も佳境に入るだろうから、忙しそうじゃない?」
「確かに」
二人はスマホのカレンダーを見ながら、日程を調整した。
どちらも空いている日を見つけるのは、あまり難しい作業ではなかった。
「じゃあ、この日で」
「うん。楽しみだね」
彩花が笑顔でうなずく。
その表情を見て、翔はふと思い出した。
「そういえば、前に電話で言いかけてたことってなんだったんだ?」
「ああ、あれはもう大丈夫。ごめん、紛らわしいこと言っちゃって」
「いや、それはいいけど……」
用事はすでに済んだ、ということだろうか。
だとすると——
翔は思わず彩花の横顔を見つめた。
しかし、その表情はいつもと変わらないように見えた。
(……考えすぎか)
翔は小さく首を振り、駅へ向かう足を進めた。




