第119話 お姫様の父親からのアドバイスと牽制
「——翔君」
卓球台から離れ、手洗いを済ませて戻ろうとしたところで、前方から声がかかった。
見ると、輝樹がこちらに向かってきていた。
「輝樹さんもトイレですか?」
「いや——少し時間をもらっていいか?」
「えっ? あ、はい。大丈夫ですけど」
輝樹は翔の横に並ぶと、廊下の端にあるベンチを顎で示した。
促されるまま腰を下ろすと、輝樹も隣に座る。
(改まって、何の用事だろう?)
彩花との接し方に、何か問題があったのだろうか。
翔は胸の鼓動が早まるのを感じた。
「翔君は運動神経がいいな」
輝樹がおもむろに口を開いた。
「何かスポーツをやっていたのか?」
「サッカーです。小学生までですけど」
輝樹が意外そうに眉を上げた。
「なぜ辞めたんだ? いいところまで行けそうだが」
「ちょっと体育会系っぽかったので気が引けたのと……しょうもない理由ですけど、元カノと過ごす時間がなくなるのが嫌だったので」
小学校の地元のクラブチームの練習は、多くても土日の週二回だった。
しかし、中学は週五日、多いときは六日は部活があった。
香澄といることが当たり前だったし、付き合ったのは入学してしばらく経ってからだが、その頃から惹かれていたのだろう。
「……そうか。すまないな」
輝樹が低い声でそう言った。
翔は首を横に振った。
「いえ、もう吹っ切れているので。その、彩花さんにも助けてもらいましたし」
自然と口をついて出た言葉だった。事実だし、隠すようなことでもない。
「ということは、彩花とは入学してすぐに仲良くなったのか?」
「いえ、弓弦を少し助けたことがあって、それから話すようになりました」
かわいい子がいるとは思っていたが、あまり彩花のことは意識していなかった。
それまでも、関わりはゼロではなかった。
だが、詳細も覚えていないくらいだ。彩花もきっとそうだろう。
少なくとも、こうして家族の輪に入れてもらえるなんて、想像もしていなかった。
「そうか。それで弓弦はあんなに懐いているのか……」
「えっ?」
「ああ、いや、こちらの話だ。それよりも、翔君」
「はい」
「彩花と、プールに行ったそうだな?」
翔は思わず背筋を伸ばした。
輝樹の眼光が鋭さを増した気がして、翔は膝の上で拳を握りしめた。
「……はい」
「そう身構えるな」
輝樹が苦笑し、背もたれに体を預けた。
「彩花は自分でしっかり判断ができる子だ。とやかく言うつもりはないさ。それに、前に彩花を任せてもいいかも、と言っただろう?」
「あ、いえ、僕たちはそういう仲では——」
「わかっている。それくらい、本人に任せているということだ。親が過干渉しても、ロクなことにはならんからな。あの子を悲しませない限りは、翔君も自由にすればいい」
「……ありがとうございます」
初対面時、なぜあそこまですんなり受け入れてもらえたのか不思議だった。
もちろん真美から話を聞いていたというのもあるのだろうが、それ以上に娘を信頼しているということだったのだ。
「——ただし」
輝樹の口調が、わずかに改まった。
「これは彩花の父親としてではなく、一人の男としてのアドバイスだが、若いころはできるだけ恋愛をしておくといい」
「……恋愛、ですか」
「もちろん、苦しいことや傷つくことも多いが、その経験はきっと何かにつながる。俺がこうして家庭を築けたのも、色々な経験のおかげだ」
輝樹の目が、どこか遠くを見ていた。懐かしむような表情だ。
翔から見ても彼はかっこいい。体格云々ではなく、男としての強さのようなものを感じるのだ。
当然、色々な恋愛もしてきたのだろう。
その横顔を見ていると、ふと潤の顔が浮かんだ。
「……失恋経験がある友達も、同じようなことを言っていました」
「そうだろう? 何事も経験だと考えれば、失敗なんて存在しないも同然だからな。難しいことを考えすぎず、欲望のままに行動してみろ。それは、大人になってからはできないことだ」
輝樹がニヤリと笑い、立ち上がった。
そして、弓弦と彩花、真美のいるほうへ歩いていく。
いつの間にか卓球は終わっていたらしい。
「恋愛……か」
翔は小さくつぶやいた。
もちろん、いずれは彼女がほしいとは思う。
だが、今はあまり誰かと付き合っている自分が想像できなかった。
それに、すでに充実した生活を送れているのも事実だ。
(それこそ、香澄に向上心がないとか言われそうだけど)
翔が独り苦笑していると、弓弦の声が聞こえた。
「翔くん、一緒に遊ぼうよー!」
「おう、今行くー」
翔がそちらに向かうと、弓弦が駆け寄ってきた。
「車運転するゲームでトーナメントしよ!」
そう言って、翔の腕をぐいぐい引っ張った。
子供の体力は凄まじいものだ。
「翔君——」
ふと、彩花が隣に並んだ。
「ん?」
「お父さんに変なこと吹き込まれてない?」
「なんだそれ」
翔は苦笑いを浮かべた。
首を横に振るよりも先に、後方から輝樹の声が飛んでくる。
「彩花、最初にその問いが出るのはおかしくないか?」
「だってお父さんだし」
「よし、もう一回ダーツから学び直すか。腕が上がらなくなるまで極意を叩き込んでやろう」
「えー、それよりもトーナメントしようよー」
弓弦が不満げな声を上げた。
「もちろんだ、弓弦。ダーツはまた次回だな」
息子の言葉に、輝樹は即座にうなずいた。
「お父さん、立場弱すぎ……っ」
彩花がぷるぷると肩を震わせ、真美もくすくすと口元を押さえている。
二人に釣られて、翔も堪えきれずに笑い出してしまった。
難しいことを考えるのは後でいい。
今はとりあえず、この時間を楽しもう。
◇ ◇ ◇
車内には、穏やかな空気が流れていた。
輝樹の運転する帰りの車の後部座席で、翔はぼんやり窓の外を流れる景色を眺めていた。
左隣には弓弦、その向こうには彩花が座っている。助手席には真美だ。
遊び疲れた子供の電池が切れるのは早い。
車に乗り込んで数分もしないうちに、弓弦はすやすやと寝息を立て始めた。
翔の左肩に、小さな重みが預けられている。
規則正しい呼吸に合わせて、体温がじんわりとシャツ越しに伝わってくる。
「ごめんね、翔君。この子、眠ってるとき意外と重いでしょ」
彩花が申し訳なさそうに眉を下げた。
「大丈夫だよ。頭だけだし」
翔は苦笑しながら、弓弦の頭をそっと撫でた。
甘えてくれる存在というのも悪くない。むしろ、くすぐったいような嬉しさが胸に広がる。
(弟ができたみたいで……嬉しいな)
そんなことを考えていたときだった。
「——翔君」
輝樹の低い声が、車内に響いた。
「は、はい」
その鋭さに、翔は反射的に背筋を伸ばした。
弓弦を起こさないように気をつけながら、バックミラー越しに輝樹を見る。
「次のチェックは、これまでとは訳が違うからな」
「えっ……あ、はい。頑張ります」
出発前のチェックでは、この調子で続けていけばいいと言ってくれたはずだ。
いったい何がいけなかったのだろう。翔は内心で首を傾げた。
「もう、お父さん」
彩花が呆れたような声を出した。
「弓弦が翔君に懐いてるからって、ヤキモチ妬いちゃダメだよ」
「そんなわけないだろう。——彩花、弓弦の好きなアイスを三つ教えろ。もちろん、家に帰ってからこっそりな」
「翔君のことめっちゃ意識してるじゃん」
彩花が吹き出し、車内に柔らかな笑い声が広がった。
輝樹は「ふん」と鼻を鳴らしたが、その横顔はどこか楽しげだ。
車内を満たす温かな空気に、翔も自然と口元を緩めた。
窓の外では、夕日が街並みをオレンジ色に染め始めていた。
◇ ◇ ◇
やがて、見慣れた住宅街が見えてきた。
輝樹の車が草薙家の前でゆっくりと停車する。
「今日はありがとうございました」
翔は車を降り、開いたウィンドウ越しに頭を下げた。
「お金も出していただいて、送迎までしてくださってすみません」
「気にするな。弓弦の希望だったし、彩花も世話になっているからな」
輝樹はぶっきらぼうに答えたが、すぐにニヤリと口の端を吊り上げた。
「ただし、少しでもだらけたら、弓弦との接触と彩花の名前呼びは禁止だ」
「っ……肝に銘じておきます」
翔は笑いを噛み殺しながらうなずいた。
彩花との接触はいいのか、とはさすがに聞けなかった。
「ふふ、翔君、また遊んでね」
真美が目元を緩めて、柔らかく手を振った。
「はい、ぜひ」
「——翔くん!」
後部座席の窓から、弓弦が身を乗り出してきた。
眠気は飛んだのか、その瞳は夕陽を反射してきらきら輝いている。彩花の膝の上に乗っかるような体勢だ。
「今度は僕ともランニングしてね!」
「おう、約束な」
差し出された小さな小指に、翔は自分のそれを絡めた。
弓弦が満足げに引っ込むと、今度は彩花と目が合う。
「また明日ね」
彩花が手を上げかけて、ふと動きを止めた。
一度手を引っ込め、スカートの生地に手のひらをさっと擦り付ける。
それから、どこか恥ずかしげに、控えめに手を差し出してきた。
「おう、またな」
翔は照れくささを覚えながらも、彩花の手のひらに自分の手を重ねた。
触れた手は、ほんのり熱を帯びていた。
輝樹の車がゆっくりと発進する。
翔は門扉の前でそれを見送りながら、ふう、と息を吐いた。
(……楽しかったな)
心地よい疲労感がじんわりと体を満たしている。
車が角を曲がり、完全に見えなくなる直前だった。
「——げっ」
背後から、苦々しげな声が聞こえた。
振り返ると、花音と北斗が並んで歩いてきていた。
「えっ?」
翔は軽く目を見張った。
二人の間には、花音の白い手提げが揺れていた。
——その取っ手を、二人が左右から半分ずつ握りしめた状態で。
第120話は「妹の特大ブーメランと、お姫様の相談」です!
花音さんとの壮絶な揶揄い合いを終えた翔君の元に、彩花さんから「相談したいことがある」と電話がかかってきて——




