第117話 二度目の筋トレチェックと、遊びの約束
「さて、翔君。——シャツを脱げ」
……どうしてこうなった。
信号待ちで輝樹の車に遭遇したのは、つい三十分ほど前のことだ。
車内から顔を覗かせた輝樹は、家に来るようにと翔に命じて去っていった。
今日と明日は休みが取れて、帰宅途中だったらしい。
まさか無視するわけにもいかず、彩花とともに双葉家にお邪魔すると、まずは汗を流すよう勧められた。
汗だくでウロウロするのも失礼なので、翔は素直に従った。
いくら双葉家といえども、家にお風呂は一つしかない。
当然そちらは彩花に譲り、翔はホームジムのシャワーを利用した。
そして、庭を通り抜けて家に戻ってきたところで、仁王立ちをした輝樹に先の指令を受けた。
「前回と同じく、筋トレの成果を見せてもらおう」
「えっと……」
翔はシャツに手をかけながら、隣に立つ彩花をちらりと見た。
彩花は頬をほんのり染めていたが、視線を逸らさずにうなずいた。
「……わかりました」
翔は意を決して、シャツを頭上へ抜いた。
輝樹は腕を組んだまま、肩から胸、腹へと順番に視線を滑らせていく。
彩花は相変わらずオロオロと瞳を泳がせていたが、これまでよりは落ち着いているように見えた。プールのおかげだろうか。
「ふむ」
輝樹が重々しくうなずいた。
「前回よりも輪郭がはっきりしてきたな。腹の線も深くなっている。——合格だ」
「……ありがとうございます」
翔は安堵の息を漏らしながら、シャツを着直した。
輝樹のお古を借りているので、少しダボっとしている。
ランニング後は解散すると思っていたので、着替えは持ってきていなかった。
「名前呼びをし始めたと母さんから聞いたときは、思わずペンを二、三本へし折ったがな」
「えっ?」
翔は思わずまじまじと輝樹を見つめた。
彼は腕を組み、表情を和らげた。
「この調子で頑張るなら、認めてやろう」
「は、はい。ありがとうございます」
翔は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
(絶対に慢心なんてしないようにしよう……)
心の中で固く誓っていると、玄関のほうからバタバタと足音が近づいてきた。
「ただいまー!」
弓弦がリビングに飛び込んできて、目を丸くした。
「あれ、翔くん? ——って、お父さんも⁉ お父さん、帰ってくるって言ってた?」
「昨日の夜に帰れることが決まってな。今日は泊まる予定だ。——弓弦、このあとは何か予定あるか?」
「ないよ!」
弓弦は即答すると、翔と輝樹の袖をそれぞれ引っ張った。
「ねぇねぇ、そしたら今日はみんなで遊ぼうよ!」
「えっ、俺も?」
突然の指名に、翔は戸惑った。
「翔君、予定は大丈夫?」
「あ、うん、予定は大丈夫だけど……」
彩花の問いに、翔は言葉を濁した。
せっかくの機会だ。家族水入らずのほうが良いのではないだろうか。
「弓弦」
輝樹が息子の頭にそっと手のひらを乗せた。
「翔君も一緒がいいか?」
「うん! お父さんも翔くんもいたほうがいい!」
「彩花は?」
「弓弦もこう言ってるし、それこそせっかくだから一緒に遊ぼうよ」
彩花は小さく肩をすくめて、翔を見た。
「だそうだ。——まさか、俺の娘の誘いを断る男はいないだろう?」
輝樹がニヤリと口の端を吊り上げるが、その目は笑っていない。
それに、弓弦の期待に満ちた眼差しを前に、断れるはずもなかった。
「じゃあ、すみません。ご一緒させていただきます」
「やったー!」
弓弦がその場でぴょんぴょん飛び跳ね、彩花もふっと口元を緩めた。
翔は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
弓弦の希望に全員が賛同する形で、郊外にある大型のアミューズメント施設に行くことが決まった。
ボウリングにカラオケ、ゲームコーナーにスポーツエリア。
ありとあらゆる遊びが詰め込まれた、一日遊び尽くせる施設だ。
「ごめんね、急に巻き込んじゃって」
隣を歩く彩花が、申し訳なさそうに眉を下げた。
翔は彼女と駅に向かっていた。家に戻って外出の支度を済ませるためだ。
その後は、車で家まで迎えに来てもらう手筈になっている。
「いや、受け入れてもらえてるみたいで嬉しいよ」
「……そっか。なら、よかった」
翔が素直な心情を伝えると、彩花は照れくさそうに微笑んだ。
わざわざ駅まで送ってもらう必要はないのだが、「なんかここでバイバイするのは追い返したみたいになるじゃん」と付いてきた。
知り合った直後にも、似たような趣旨のことを言っていた気がする。
案外、寂しがり屋なのかもしれない。
「でも、家族ぐるみの付き合いだってクラスの人とかに知られたら、また色々な噂が広まりそうだね」
「確かに」
ただでさえ注目を集めているのだから、周辺が騒がしくなるのは容易に想像がついた。
だが、別に嫌だとは思わなかった。
誰かに問い詰められるのは面倒だが、それだけだ。
「というか、なんか楽しんでないか?」
「そんなことないよ?」
彩花がすっとぼけてみせるが、口元が微妙に緩んでいる。
意外とリスキーな状況に楽しみを覚えるタイプなのかもしれない。
さすがはヘタレースの主催者だ。
「あ、あとさ。これは嫌ならいいんだけど……」
彩花は一転して視線を落とし、もじもじと指先を絡ませた。
何かを言い淀んでいるような仕草だ。
「どうした?」
「その、この後みんなで遊んでるときなんだけど……名前で、呼び合わない?」
「えっ……」
翔は思わず瞬きをした。
彩花は早口で続ける。
「だ、だって、お父さんも知ってるのに今更名字で呼ぶのはちょっと変だし、弓弦も変に思っちゃうかもしれないじゃん?」
「それはそうだけど、学校の連中に聞かれたりしたら、それこそ色々な噂が広まるぞ?」
アミューズメント施設なら、同級生に遭遇する可能性もゼロではない。
しかし、彩花は迷うことなくうなずいた。
「うん、構わないよ。というか、それこそ今更じゃない?」
「あー……」
翔としては、まだ「今更」の境地には達していない気がした。
火に油を注ぐ行為なのでは——そんな懸念が頭をよぎる。
だが、ここで反論すれば、名前呼びを敬遠していると思われかねない。
それはなんだか、嫌だった。
「じゃあ、今日はそうするか」
「うん」
彩花がふっと目元を和らげた。
けれど、すぐにその表情が揺らぐ。
「……なんか、改まって決めると、呼びづらいんだけど」
「そっちから言い出したんだろ」
「だって、普段は自然に呼んでるから、意識しなかったんだもん」
確かに、いつも通りのやり取りの流れで呼び合うのと、これから名前で呼びますと宣言するのとでは、心構えがまるで違う。
翔自身、胸の奥がむず痒いような、落ち着かない感覚を覚えていた。
「……ちなみに、今みたいに二人で外にいるときとか、学校ではどうするんだ?」
「まだ名字呼びでいいんじゃないかな。ほら、噂になるのと確定しちゃうのは、また違うし」
「まあ、それはそうだな」
同級生に遭遇する可能性はあるとはいえ、わざわざ自分から確定させに行く必要はない。
そう思っていると、彩花がちらりとこちらを窺った。
「でも、草薙君がそうしたいって言うなら、別にいいよ?」
「いや、色々面倒そうだし、双葉が望まないなら遠慮しておくよ」
「ヘタレ」
「これに関しては彩花もだろ」
「う、うるさい」
彩花がむすっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。
耳のあたりが、ほんのり色づいている。
「……その代わり、学校ある日は毎日一回ヘタレース開催するからね」
「落ち着け、話し合おう」
その頻度ならいつかはバレるし、それ以上に気が休まらない。
それならいっそのこと、公にしたほうがマシなくらいだ。
「ふふ、冗談だよ」
慌てる翔を見て、彩花は満足げに瞳を細めた。
◇ ◇ ◇
駅に着くと、改札の手前で足を止めた。
ここから先は、翔だけが電車に乗る。
「じゃあ、送ってくれてありがとな」
「うん。また後でね——翔君」
不意打ちだった。
はにかむような笑顔と、柔らかな声色。
「っ……」
翔は言葉に詰まった。
その一瞬の隙をつくように、彩花はくるりと踵を返した。
「……二人で外にいるときは名字呼びって約束だろ」
人混みに紛れていく華奢な背中を見送りながら、翔はガシガシと後頭部を掻いた。
第118話は「お姫様の父親の懸念」です!
屋上でサッカーをする三人を微笑ましく見守る真美さんとは対照的に、輝樹さんが抱いた懸念は——




