第116話 お姫様とのランニングと、近づいた距離
「お兄ちゃん。走りに行くのに髪セットしてるの?」
「っ……」
背後からかけられた声に、翔の肩が跳ねた。
ドライヤーを手に持ったまま振り返ると、花音が洗面所の入り口にもたれながら、半眼でこちらを見ていた。
「……一応外に出るし、練習だよ」
「ふーん」
花音はニヤリと口の端を吊り上げた。
「なるほど。彩花さんと会うわけか」
「……別に、それが理由でセットしてるわけじゃないから」
「お、ビンゴだったんだ」
花音が勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
翔はふと、その格好に目を向けた。
淡いピンクのトップスに、スカートは膝上。
アクセサリーも控えめながら、どこか気合いが入っているように見える。
「そういうお前こそ、今日は北斗君と遊ぶんだったな」
「っ……だからなに」
翔がニヤリと笑うと、花音の眉がぴくりと動いた。
「いや、ずいぶん気合い入ってるなって思っただけだよ。かわいいじゃん」
「はっ、なに? いきなりキモいんだけど」
花音は露骨に顔をしかめ、ふいっと視線を逸らした。
「私も洗面所早く使いたいから。さっさと終わらせてよね」
そう言い残すと、彼女は足音を立てて去っていった。
(勝った)
翔は妹の背中を見送りながら、小さくガッツポーズを作った。
◇ ◇ ◇
いつも弓弦と遊んでいる公園に着くと、彩花はすでにベンチに座っていた。
首にはタオルをかけ、隣にはペットボトルが置いてある。翔も同じ装備だ。
「お待たせ」
「ううん、私も今来たところだよ。じゃあ、さっそく走る?」
「おう」
彩花が軽やかに走り出し、翔もそれに続いた。
午前中と言えども気温は上がっているが、頬を撫でる風が心地よい。
「周りから見たら、どこの陸上部だと思うよな」
「どっちも帰宅部なのにね」
彩花がくすっと笑った。
「でも、ガチな運動部を除いたら、そこら辺の部活より活動してるんじゃないか?」
「基本的に週四だしね。いっそのこと、部活立ち上げちゃおっか」
「部活名どうするんだよ?」
「そりゃ、『草薙翔をプロデュースし隊』でしょ」
「部員二名で即廃部だな」
「自分で言ってて悲しくならない?」
「そっちが言わせたようなもんだろ」
軽口を叩きながら、二人は公園を出て歩道へ向かった。
道順は前回と同じく、周辺の地理に明るい彩花に任せている。
「ペース、大丈夫?」
「ああ、ちょうどいい」
並走しながら、翔は横目で彩花を窺った。
額にうっすらと汗が滲んでいるが、呼吸は乱れていない。さすがに鍛えているだけある。
しばらく走って公園に入ったところで、彩花が足を緩めた。
「ちょっと休憩しよっか」
「そうだな」
近くのベンチに並んで腰を下ろし、それぞれペットボトルを開ける。
翔は一口飲んでから、タオルで額の汗を拭った。
(……気持ち悪いな)
前髪を流してマッシュ風にセットしていたせいで、髪がおでこに張り付いている。
かといって、乱暴に拭いて髪型が崩れるのも本意ではない。翔は中途半端にタオルを押し当てたまま、どうしたものかと眉を寄せた。
「草薙君。どうしたの?」
「汗を拭きたいんだけど、髪の毛がぐしゃぐしゃになるのも嫌でさ」
「ああ、そういうこと。だったら、私に任せて」
彩花がひょいとタオルを取り上げた。
「えっ、いや——」
「動かないで」
彩花はベンチに片膝を乗せて翔のほうに体を向けると、タオルで根元を立ち上げるように汗を拭い始めた。
「前髪を上げちゃえば、走るときも邪魔にならないよ」
彩花は得意げに言いながら、翔の髪を整えていく。
おそらくはセンターパートにしてくれているのだろう。
しかし、翔にそんなことを気にしている余裕はなかった。
(っ、近い……)
翔の目の前にあったのは、身を乗り出すようにしている彩花の白く華奢な首筋。
一筋の汗がそこを伝い、鎖骨のくぼみをゆっくりと滑り落ちていく。
やがてその雫は、シャツの襟元の奥へ——
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
翔は咄嗟に顔を背け、彩花の両肩を掴んで引き剥がした。
彩花がそっと息を呑む気配がした。
「……ごめん。余計なお世話だった?」
「あ、いや、そうじゃなくてっ」
翔は首を振った。
どう伝えるべきか迷いながら、言葉を選ぶ。
「その……距離が近くて、目のやり場に困るっていうか……」
「えっ?」
彩花がきょとんと顔を上げる。
「その……見えそうで」
翔は視線を逸らしたまま、自分の襟元をつまんでみせた。
「あっ……!」
彩花の顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。
自分の胸元に手を当て、肩を縮こまらせる。
「ご、ごめ……っ、そういうつもりじゃ……!」
「わかってる。だから、その、悪いのは俺のほうっていうか……」
気まずい沈黙が落ちた。
蝉の声だけが、やけに大きく響いている。
「そ、そろそろ走らないか?」
「う、うん。そうだね! 体が冷えちゃったら良くないし」
二人は逃げるようにベンチから立ち上がり、再び走り出した。
そのペースは、それまでよりも少しだけ速かった。
住宅街を抜け、大通りに出る。
信号が赤に変わり、翔と彩花は足を止めた。
「ふぅ……」
翔は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
隣の彩花も、手で顔を扇ぎながら信号が変わるのを待っている。
——そのときだった。
滑らかなエンジン音とともに、一台の黒塗りの高級車が二人の横で停止した。
重厚なボディが、朝の日差しを鈍く反射している。
「……?」
翔が眉を寄せた瞬間、助手席のウィンドウが音もなく下がった。
「——翔君。彩花と何をしているんだ?」
「えっ……お父さん⁉︎」
車と同じく重厚感のある低い声に、彩花が驚きの声を漏らした。
サングラスの奥からじっと翔を見据えるその男性は、彼女の父親——輝樹だった。




