第115話 お姫様のスタンス
「っ……」
翔がクラスに足を踏み入れた瞬間、ちくちくとした視線が刺さってきた。
好奇、やっかみ、そしてほんの少しの敵意。
プールで誰かに見られていたな、と翔は瞬時に察した。
(こういう注目のされ方にも、慣れてきたな……)
苦笑しながらも、胸の奥がざわついた。
彩花がまた、周囲の目を気にして距離を取ろうとするのではないか。
こちらを拒絶するような背中が、ふと脳裏をよぎった。
——だが、その心配は杞憂に終わった。
「あ、草薙君。おはよ」
作業の手を止めた彩花が、屈託のない笑顔を向けてきた。
その隣にいた美波も、ひらひらと手を振ってくる。
「草薙君、おはよー」
「……おう、二人ともおはよう」
翔は安堵の息を吐きつつ、身構えた。
美波のことだ。早速プールの件で揶揄ってくるかと思ったが、
「ちょうど、もう一人必要かもって彩花と話してたんだ。手伝ってくれる?」
「それは、もちろん」
彼女は自分の隣の椅子をポンポンと叩くと、すぐに作業を再開した。
(……あれ?)
拍子抜けするほど、あっさりしている。
ただ、イジられないならそれに越したことはない。
翔はかすかな違和感を覚えつつも、ひとまず作業に加わることにした。
◇ ◇ ◇
「草薙、双葉——」
しばらく三人で作業をしていると、亮平が近づいてきた。
彼は翔と彩花を交互に見比べると、単刀直入に切り出した。
「お前ら、付き合ってんの?」
「いや、付き合ってないけど」
翔は即座に答えた。
名指しされた時点で、ある程度は予想していた。
「でも、プールでイチャイチャしてたって噂が広まってるぜ」
「プールに行ったのは事実だけど、潤と琴葉も含めた四人だからな。別行動してるときもあったけど、イチャイチャしてたのはあいつらだけだから」
「そうなのか」
亮平は拍子抜けしたように目を瞬かせ、それから大きく息を吐いた。
「なら、よかった」
「……えっ?」
翔はまじまじと亮平を見つめた。
亮平はキョトンとした顔をしたあと、すぐに慌てたように手を振った。
「ああ、いや、俺じゃなくて。前に双葉にぶつかりそうになったやつがいただろ?」
「ああ、野球部のガタイが良かったやつか」
翔がうなずくと、彩花が小首を傾げた。
「新谷君だっけ?」
「新村な。全然覚える気ないだろ」
亮平が呆れたように肩をすくめた。
彩花は曖昧な笑みを返すのみだ。新村についての会話を進めるつもりはないらしい。
「それで、新村がどうしたんだ?」
翔は亮平を促した。
「ああ、あいつがまあまあショック受けてたから、付き合ってないって知ったら安心するんじゃねえかなって」
亮平はそこで一度言葉を切り、翔と彩花に鋭い眼差しを向けた。
「——でも、逆に付き合ってねえのにプール行くんだな」
「っ……」
翔は思わず言葉に詰まった。
彩花は視線を逸らしたまま、亮平のほうを見ようとしない。
「いや、まあ、潤と琴葉に誘われたからな」
「ふーん……。ま、俺は別になんでもいいけど」
亮平は意味ありげにそうつぶやくと、「邪魔したな」と去っていった。
入れ替わるように、美波がニヤニヤと笑いながら口を開く。
「まったく、彩花も罪な女だねぇ。他にもショックを受けてる男子、たくさんいたよ?」
「別に誰と遊ぼうと私の自由でしょ。その人たちに何か匂わせてたわけでもないし。というか、そもそも私たち一回噂になってるじゃん」
「でも、あのあと彩花が距離を取ったから、逆にイケると思った男子も多かったみたいだよ?」
美波の言葉に、彩花がむっとした表情になる。
彼女は無言のまま、美波の脇腹を指先でつついた。
「ちょ、くすぐったいって!」
「うるさい」
彩花は美波の防御を見事にかいくぐりながら、突き攻撃を繰り出している。
子供のケンカのようなやり取りに、翔は思わず頬を緩めた。
仲が良いのはいいことだ。
そう思って眺めていると、彩花のジト目がこちらに向いた。
「……なんかその笑い、気に入らない」
「えっ、痛っ⁉︎」
今度は翔の前腕をつねってきた。
「わ、悪かったって。ただ、仲良しだなって思っただけだから」
翔は慌てて彩花の手を捕まえた。
防御が難しいなら、そもそも攻撃させなければいい。
「草薙君。人間の手って二つあるんだよ」
「——はいはい。彩花、そこまでね」
翔に拘束されていない方の手で攻撃を続けようとした彩花を、美波が呆れたように制した。
「そんなことしてたら、もっと噂広まっちゃうよ?」
「別にいいよ。……むしろ、大して仲良くもない人とプール行くとは思われたくないし」
彩花はぷいっと顔を背け、作業に戻ってしまった。
「ま、それは確かにね」
美波は納得した様子でうなずきながら、ふと翔のほうをチラッと見た。
「……?」
翔が首を傾げると、美波はすっと視線を逸らし、何事もなかったかのように作業に戻った。
何か伝えたいことがあったのは、間違いないだろう。
だが、それがなんなのかは見当もつかなかった。
◇ ◇ ◇
「草薙君——」
三人での作業が一段落して、翔が資材置き場に段ボール箱を置きに行っていると、美波が小走りで追いかけてきた。
「吉良、どうした?」
「彩花に風除けみたいに使われてるの、許してあげてね」
「えっ?」
唐突な言葉に、翔は目を瞬かせた。
「ほら、あの子モテるからさ。その分、安易な下心にはちょっと敏感なんだ。だから、草薙君を盾にしちゃう部分があるっていうか」
「ああ、そういうことか」
続けられた言葉に、翔はようやく美波の言いたいことを理解した。首を横に振る。
「俺は全然気にしてないよ。むしろ、少しでも力になれてるなら嬉しいくらいだし」
「……そっか」
美波はそう小さく漏らすと、考え込むように瞳を伏せた。
しかし、それは一瞬のことだった。
彼女はすぐに顔を上げると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「草薙君は相変わらず優しいねぇ。彩花が頼りにするわけだ」
「ヘタレ認定されてるけどな」
「信頼してるからこそでしょ」
「そういうものか?」
「そういうものなんです……って、前もやったね、このやり取り」
美波は照れたように舌を出した。
そのイタズラっぽい表情は、少しだけ彩花に似ているような気がした。
「ま、なんにせよ、草薙君が嫌がってないなら良かったよ。今回は前よりも信じてる人も多いみたいだし」
「だから揶揄わないでくれたのか」
「まあね」
美波はウインクして、翔の肩をポンポンと叩いた。
「これからもあの子のこと、よろしくね。何か困ったことがあれば、私も相談くらいは乗るから」
「おう、ありがとな」
美波と別れた直後、手元のスマホが震えた。
画面を確認すると、美波から猫のスタンプが届いていた。
翔が気楽にメッセージを送れるように、という気遣いだろう。さすがだ。
翔は無料で使える、ぐっと親指を立てた無難なスタンプを返しておいた。
◇ ◇ ◇
作業の終了時刻になり、翔が使った道具を片付けていると、彩花が近づいてきた。
「草薙君。向こうは終わったから、手伝うよ」
「おう、助かる」
雑談を交わしながら片付けを終わらせると、彩花は素早く手提げを肩にかけて、翔の横に戻ってきた。
(……一緒に帰ろうってことか)
なんだかくすぐったい気持ちになるが、断る理由はない。
翔もリュックを背負うと、並んで教室を出た。
廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちの視線が刺さる。
「やっぱり……」
「あの二人……」
そんなひそひそとした声が漏れていた。
翔はちらりと彩花の様子を窺ったが、彼女は気にした様子もなく、穏やかな表情のままだ。
昇降口を出て、周囲に人がいなくなってから、翔は口を開いた。
「前はあんなに気にしてたのに、今回は平気なんだな」
「琴葉と緑川君とプールなんて行ったら、私たちもそういうふうに見られるのはわかってたことじゃん」
「まあ、それはな」
彩花の声には、どこかムキになっているような響きがあった。
美波の言う「安易な下心」への対抗心だろうか。
「それに……周りの目なんか気にしないで、仲良くしたい人と仲良くするって決めたもん」
「っ……そうか」
真っ直ぐな言葉に、翔は少し動揺した。
彩花も自分の発言が恥ずかしくなったのか、ほんのりと頬を染めている。
そのとき、二人の間にふと風が吹いた。
木々がさらさらと揺れ、火照った肌に心地よい涼しさが触れる。
「この時間になると、けっこう気温も落ち着いてくるんだな」
「ねー」
彩花の返事はのんびりしていた。
自然の癒し効果か、いつもの穏やかさを取り戻したようだ。
「ランニングとかしたら気持ちよさそう」
「確かに」
翔は同意しながら、前に一緒に走らないかと誘われていたことを思い出した。
(確か、彩花から言い出したよな、あれ……)
それに、以前はカラオケの誘いにも乗ってくれたのだ。
きっと大丈夫だろう。
「……あのさ、双葉」
「ん?」
「筋トレだけじゃなくて有酸素運動もしたいし、ランニングマシーンよりも景色とか見ながら走りたいから、今度一緒に走らないか?」
「あ、いいね! やろうやろう」
食い気味の返事に、翔はふっと肩の力を抜いた。
彩花はビシッと人差し指を立てた。
「明日の今の時間帯とかどう?」
「明日は勉強会と筋トレじゃないか?」
「あ……そうだった」
風船が萎むように、彩花の声がしゅん、と小さくなった。
「珍しいな。双葉が予定を忘れてるの」
「わ、私だって、全部覚えてるわけじゃないし」
「それもそうか」
自分から誘った以上、積極的に予定を立てるべきだろう。
翔はポケットからスマホを取り出し、カレンダーアプリを起動した。
「あっ」
覗き込んできた彩花が、小さく声を漏らした。
「どうした?」
「ううん、その……名前にしてくれてるんだなって」
彩花の白い指が、『彩花と筋トレ・勉強会』という欄を指差した。
「ああ、まあ……二人きりのときに、うっかり間違えないようにと思ってさ」
「いい心がけだね。私も直しておいたよ」
「そうか」
翔は、自分だけじゃなかったことに安堵すると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「今度の文化祭準備の後とかにするか?」
「でもいいけど、いっそのこと、朝はどう?」
「あー、なるほど。確かに、朝も涼しいっちゃ涼しいもんな」
むしろ、昼間の熱気が残る夕方よりも気温は低いかもしれない。
「うん。それに、何かの予定の後よりも、確実に時間が読めるし、朝のランニングは一回やってみたかったんだよね」
「生産性が上がるってどこかで聞いたな。朝活ってやつか」
「そうだね。しっかり二度揚げしておくよ」
「二度揚げ? ……ああ、朝カツか。たぶん、ランニングよりしんどいぞ」
「間違いない」
彩花がけらけらと笑った。
しょうもないが、ご機嫌なのはいいことだ。
「どうする? 早速明日、やってみるか?」
「いいね」
彩花は間髪入れずにうなずいた。
「あ、でも、弓弦はどうする?」
彩花との約束よりも前に、弓弦と三人で走る約束をしていた。
蔑ろにするのは申し訳ない。
「明日の午前中はサッカースクールじゃなかったかな。だから、今回は弓弦のことは気にしなくていいよ」
「そうか。でも、今度誘ってあげないとな」
「私から言っておくよ。知らない間に私たちだけで走ってたなんて知ったら、あの子拗ねちゃうかもしれないからね」
「そうだな。頼む」
もしも弓弦が怒って口を聞いてくれなくなったら、本気で落ち込む自信がある。
「にしても、まさか草薙君から誘ってくれるとは思わなかったな。……この前のカラオケも」
「あ、その……やっぱり変だったか?」
「ううん、そんなことない。——嬉しいよ」
彩花は夕陽に目を向けながら、はにかむように微笑んだ。
「っ……そうか」
頬を撫でる風が、先程よりも冷たく感じられる。
この短時間で急激に冷えたわけではないことは、翔自身が一番理解していた。
「……やっぱり、今から走るか」
「駅、すぐそこだけど」




