第114話 プール④ —それぞれの過去—
田畑たちや警備員に加えて、女性二人組も去ると、その場には翔と彩花の二人、そして少々気まずい沈黙だけが残された。
「……とりあえず、一回ベンチ座らないか?」
「う、うん……そうだね」
並んで歩き出し、先程まで使っていたベンチに再び腰を下ろした。
プールの喧騒が、やけに遠くに聞こえる。
「……あの、草薙君」
彩花がおずおずと切り出した。
「さっきはごめんね、勝手なことして」
「いや、もうそれはいいよ。無事に解決したんだし。……それに、俺らの会話、聞こえてたんだろ?」
「うん……。草薙君がバカにされてるの、黙って聞いてられなくて」
ぽつりと漏らされた言葉に、翔の鼓動が早まった。
(彩花はいつも、俺の代わりに怒ってくれるよな)
胸の奥がじわりと熱くなる。
けれど、それを素直に伝えるのは、少し恥ずかしくて。
「その気持ちは嬉しいけど……あの宣言にはさすがにびっくりしたよ」
「っ……!」
彩花が息を呑んだ。
みるみる色づいていくその頬を見ながら、翔は口の端を吊り上げた。
「双葉、意外と大胆なところあるよな」
「い、いや、あれは違くて! その、咄嗟の判断というかっ、あのくらいしないと効果ないかなって……そ、それに、それを言うならそっちだって私の腰を、だ、抱いたじゃん!」
「い、いや、それこそあれぐらいしないと信じてもらえなかっただろ? 疑われてたし、嘘ってバレたら絶対面倒なことになってたって」
「そ、そうかもだけどっ、あれはさすがに......!」
彩花はパーカーのフードをぐいっと引き寄せると、ベンチの上で体育座りのように膝を抱えて縮こまった。
膝元から、声にならない呻き声が漏れている。
翔は自分の指先を見つめた。
——薄い生地越しに伝わった体温。パーカーの下に触れた、華奢なくびれのライン。
「っ——」
一瞬で耳まで熱くなった。
翔は咄嗟に視線を正面に逸らし、膝の上で拳を握り直した。
(……やっぱり謝るべきか? いや、でも、謝ったら謝ったで、変に意識してるみたいになるし……)
頭の中で言い訳と理屈がぐるぐる回る。
結論が出ないまま、翔はちらりと隣に目を向けた。
彩花は膝に顔を埋めたまま、フードの中からじっとりとした眼差しを向けてきた。
「......草薙君って、意外にプレイボーイだったんだね」
「そんなわけないだろ」
翔は思わず吹き出した。あれだけヘタレとイジられていたのに、急に昇進したものだ。
笑うと、なんだか気分が少しスッキリした。
彩花もフードを外すと、にっと白い歯を覗かせる。
「確かに、ちょっと似合わないかも」
「本当だよ。今でこそ、どっかの誰かさんに扱かれて少しはマシになったけど、中学のころはもっとヘタレだったし。——田畑の言う通り、あいつから逃げてたからな」
翔がふと付け加えたその言葉に、彩花の表情が変わった。
揶揄うような色が消え、真剣な眼差しが翔に向けられた。
香澄にフラれたことに対する愚痴を聞いてくれたときと、同じ目だった。
「あいつさ」
翔は自然と言葉を続けていた。
「中学時代、事あるごとに突っかかってきてたんだ。多分、俺なんかが香澄と付き合ってたのが気に食わなかったんだろうけど……当時は怖くて何も言い返せなかった」
膝の上で組んだ指先に、力が入る。
「俺だって、ずっと変わりたいとは思ってたんだよ。馬鹿にされるのは悔しいしさ。けど、俺なんかが頑張ったらもっと馬鹿にされるんじゃないかって、怖かった。……今思うと、自分でも呆れるくらいヘタれてたよ」
翔は苦笑を漏らした。
しかし、彩花は笑わなかった。
「……その気持ち、わかるよ」
その言葉は静かに、しかし確かな重みを伴っていた。
翔が顔を上げると、彼女はどこか遠くを見つめていた。
「お姫様なんて呼ばれ出したのは高校に入ってからだけど、中学の途中からずっと、笑顔を張り付けて壁を作ってた。本当は素の自分でいたかったのに、嫉妬とかがもっとひどくなるんじゃないかって怖くて、仲良くしたい人と仲良くできなくて、逆に仲良くしたくないのに突き放せなかったりもして……」
翔は黙って聞いていた。
彩花がこんなふうに過去を語るのは、彼女の陰口を聞いたとき以来だ。
「でもね」
彩花の瞳がふと、翔に向けられた。
「そんなとき、草薙君に勇気をもらったんだよ」
「えっ……俺に?」
翔は思わず聞き返した。
彩花は小さくうなずいた。
「うん。古田君たちが草薙君に絡んだとき、私から突き放したこと、あったでしょ?」
「ああ……あのときか」
浩平たちに、「彩花に付きまとうな」と詰め寄られた日のことだ。
うつむいたまま「家以外では話しかけないで」と告げた彩花の震える肩が、翔の脳裏によみがえった。
「それなのに、草薙君は歩み寄ってくれた。自分も怖かったはずなのに、私を気遣ってくれた。あのとき、すごい勇気をもらったし、私も周りの目なんて気にしないようにしようって思えたんだ」
「っ……」
翔は言葉を失った。
あのとき、自分はただ彩花を放っておけなかっただけだ。
それが彼女にとって、そんなに大きな意味を持っていたなんて。
「まあ、そんなこと言いながら、もう一回避けちゃったけどね」
彩花はそう言って、照れたように鼻の下をこすった。
翔には、その言葉の意味がすぐにわかった。
弓弦と三人で映画を見に行った後、付き合っているのではないかという噂が広まって、彩花は数日の間、翔を避けていた。あのときのことだろう。
何か言うべきなのだろうか。
翔は口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。
「前に赤月さんが、安易な優しさじゃいい人止まりだって言ってたじゃん。——私も、それはその通りだと思う」
「……そうだな」
翔の胸が、チクリと痛んだ。
あれだけモテるのだ。「安易な優しさ」など、彩花は嫌というほど享受してきたのだろう。
「けど、草薙君のは安易なんかじゃないよ」
「えっ……」
翔は息を呑み、まじまじと彩花の横顔を見つめた。
彼女は穏やかな眼差しを翔に向け、はにかむように笑った。
「ヘタレな部分もあるけど、草薙君は誰かのために本気で行動できる、強い人だよ」
「っ……それは大袈裟だって」
「大袈裟じゃないよ」
彩花はほんのり唇を尖らせると、指折り数え始めた。
「まず、私から突き放したのに声をかけてくれたのがそうでしょ。ヤンキーから弓弦を助けてくれたのも、園田君の強引なデュエットを阻止してくれたのもそう。それに、今みたいに知らない人でも躊躇なく助けるのとか、入学してすぐに私も——って、わわ、今のなし!」
彩花が突然、弾かれたように口元を手で覆った。
顔が一気に沸騰したように赤くなる。
「えっ、なに?」
「な、なんでもない! ほんとになんでもないから!」
彩花は両手をぶんぶんと振った。
その勢いに気圧されて、翔は口をつぐんだ。
「と、とにかくっ、草薙君の優しさは本物だってこと! それよりほら、せっかくプールに来たんだから、もう少し泳ごっ!」
彩花は勢いよく立ち上がると、翔の腕を引っ張ってズンズン歩き出した。
「わ、わかったから落ち着け。プールサイドを走ったら危ないだろ」
翔が引きずられながら声を上げると、彩花はハッとした表情になり、歩幅を緩めた。
続いて、パッと翔の腕を離した。その視線は、頑なに翔のほうを向こうとしない。
(今、なんて言いかけたんだ……?)
翔は首を傾げたが、この様子ではどれだけ追及しても答えてくれないだろう。
ひとまず、その疑問は胸の奥にしまっておくことにして、翔は黙って彩花の隣に肩を並べた。
——そんな彼らの背中を、少し離れた物陰から見つめる二対の視線があった。
「……このまま別行動するか?」
潤は隣の琴葉に小声で意見を求めた。
合流するために戻ってきたのだが、何やら真剣な表情で話していて、声をかけ損ねていたのだ。
「いいね。——尾行しよう」
「……は?」
「せっかくのデートだもん。邪魔はしないけど、見守る義務はあるでしょ? 私たちが用意した舞台なんだから」
楽しげに目を輝かせる琴葉に、潤は呆れたように肩をすくめた。
「……そういうつもりじゃなかったけど、悪くねーアイデアだな」




