第112話 プール② —お姫様がしがみついてきた—
「ねぇ、草薙君。せっかくだから、これ使ってみない?」
彩花が指差したのは、琴葉から渡された浮き輪だった。
大人一人が乗れるくらいの大きさのボート型だ。
「おう、いいよ」
翔は空気入れの場所でパンパンに膨らませてから、プールに浮かべた。
「双葉。乗ってみろよ」
「う、うん」
彩花はおそるおそる足をかけたが、水面で揺れる浮き輪に不安を覚えたのか、すぐに足を引っ込めた。
「ちゃんと支えてるし、万が一落ちても助けるから」
翔は浮き輪を両手で固定し、安心させるように声をかけた。
彩花はしばらく躊躇していたが、意を決したように息を小さく吸い込み——翔の肩に手を置いた。
「じゃあ……信じるからね」
ほのかに香る日焼け止めの匂いと、体重を預けられた感覚に、翔の心臓がトクンと跳ねた。
しかし、ここで動けば、彩花が本当に落ちてしまう。
「よっ……と」
それから程なくして、彩花はなんとか浮き輪の中央に座ることに成功した。
しかし、その指先は相変わらず縁を強く握りしめている。
「そんなに掴んだら、浮き輪破けるって」
「だ、だって、ゆらゆらするんだもん……」
翔が笑いながら浮き輪を支えると、彩花は縋るように翔の腕を掴んできた。
「っ……ちょっと動かすぞ」
翔はわずかに身を固くしながらも、ゆっくりと浮き輪を押し出した。
水流に乗ってふわふわと進み始めると、彩花の手の力がさらに強まる。
「わ、わっ……動いてる」
「流れるプールだしな」
「そうだけど……っ」
こればかりは、習うより慣れてもらうしかないだろう。
ウォータースライダーも克服したのだから、ただの時間の問題のはずだ。
(辞めるとは意地でも言わないだろうしな)
翔は密かに苦笑を漏らしつつ、彩花を乗せた浮き輪を引いて、プールの中心部へと進んでいった。
しばらく流れるプールを漂っていると、彩花の肩から少しずつ力が抜けていくのがわかった。
最初こそ浮き輪の縁を握りしめていた指も、今はそっと添えているだけだ。
どころか、水面に指先をつけて、気持ちよさそうにしている。
(楽しんでくれてるみたいだな)
翔は内心で安堵した。
彩花の穏やかな横顔を見ていると、イタズラ心が芽生えた。
「おっと」
「——きゃっ⁉︎」
小刻みに浮き輪を揺らすと、彩花は悲鳴を上げて、反射的に翔の腕にしがみついてきた。
「ちょ、ちょっと草薙君っ⁉︎」
「悪い悪い。手が滑った」
「絶対嘘でしょ……!」
彩花がジト目で睨んできた。
頬はほんのり膨らんでいる。怒っているというよりは、拗ねているように見えた。
翔は笑いをこらえながら肩をすくめた。
「まあまあ、落ちてないんだからいいだろ」
「よくないよっ、心臓止まるかと思ったじゃん……。もうしないでよ?」
「善処する」
「善処じゃなくて、約束して」
真剣な眼差しに、翔は思わず吹き出した。
「わかったよ。もうしない」
「ほんとに?」
「本当だよ」
翔が両手を上げて降参のポーズをとると、彩花は腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。
「なら、特別に許してあげる。……ほら、いつまでもバンザイしてないで、ちゃんと支えてて」
「了解了解」
それから少しの間、二人はのんびりと流れるプールを漂った。
彩花はすっかり慣れたのか、足先で水面を蹴って遊んでいる。
かすかに水しぶきが翔の肩にかかるが、不快には感じなかった。
ふと、彩花が体を起こし、翔を見下ろした。
「ねえ、草薙君も乗ってみたら?」
「えっ、俺も?」
「うん。ずっと引っ張ってもらってるし、交代しようよ」
彩花はコースの端に捕まりながら水中に降り立つと、浮き輪をポンポンと叩いた。
確かに、翔にも少し休憩したい気持ちはあった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
翔は一度プールサイドに上がってから、ボートの中央に腰を下ろした。
体を預ける感覚は、思っていたよりも心地よい。
「へぇ、けっこう気持ちいいな、これ」
「でしょ? けど——この辺、波が荒いから気をつけてね」
「おわっ⁉︎」
突然ボートが傾き、翔の視界がぐるりと回った。
「ちょっ、双葉⁉︎」
「さっきのお返しだよ」
彩花がイタズラっぽく笑いながら、さらに浮き輪を揺らす。
「待て、本当に落ちる!」
「しょうがないなぁ」
翔が彩花の腕を掴むと、彼女はようやく揺れを止め、くすくすと笑い声を漏らした。
「草薙君のあんな真剣な表情、初めて見たよ」
「ったく……」
その楽しそうな様子を見て、翔の口元が意思とは関係なしに緩んでしまった。
文句の一つでも言ってやろうと思っていたのだが、もうそんな気も起きなかった。
「これで貸し借りなしだからな」
「ふふ、わかってるよ」
彩花は目を細めて、満足げにうなずいた。
◇ ◇ ◇
ひとしきり浮き輪を堪能すると、翔と彩花はプールサイドにあるベンチに腰を下ろした。
「草薙君、泳ぎたくはない?」
ふと、彩花が口を開いた。
「え、なんで?」
「せっかくプールに来たのに、浮き輪遊びだけじゃ物足りないんじゃないかなって」
彩花が二人の膝を横断しているボートをポンポンと叩いた。
「そんなことないよ。それに、双葉が一人になっちゃうだろ」
「私、そんなに寂しがり屋じゃないよ?」
「ウサギ好きなのに?」
「シンパシー感じてるわけじゃないって」
彩花は呆れたように笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。
「本当に大丈夫だから、少し専用のコースで泳いできたら? ずっと付き合わせてるのも申し訳ないし、ちょっと泳いでいるの見てみたい気持ちもあるっていうか」
彩花がそこまで言うのなら、もしかしたら一人の時間がほしいのかもしれない。
ずっと翔が隣にいては、気が休まらないこともあるだろう。
「そうだな。じゃあ、少しだけ泳ぐけど、目の届く範囲にはいてくれよ」
「えっ、俺の泳ぎを目に焼き付けろって? 了解だよ」
「水が耳に詰まってるみたいだな。……そうじゃなくて、合流が大変だろ」
「確かに。スマホ持ってないもんね」
「そういうこと」
もっともらしい理由をつけると、彩花は納得したようにうなずいた。
◇ ◇ ◇
「——よし」
翔は軽く準備運動をしてから、水の中に身を沈めた。
周囲の喧騒が遠ざかっていく。
ゆっくりとクロールで進みながら、彩花のいる方向に視線を向けた。
彼女は穏やかな表情でこちらを見ていた。
目が合うと、どこかはにかむように微笑んだ。
(……見られてると思うと、なんか緊張するな)
翔は、ざぶんと水に潜った。
ひんやりとした水が頬を撫でる感覚に意識を向けながら、腕を大きく掻いた。
しばらく泳いでから顔を上げると、見覚えのある男たちの姿が目に入った。
「あの子、一人じゃね?」
「マジじゃん。ちょっと声かけてみるか?」
彩花のビキニ姿に熱い視線を送っていた、男子大学生らしき集団だ。
彼らの注目は、明らかに彩花に向いていた。
やっぱり、こうなるよな——。
翔は勢いよくプールサイドへ這い上がり、水しぶきを払い落とすのもそこそこに、小走りで彩花の元へ向かった。
「草薙君、どうしたの?」
彩花が不思議そうに首を傾げた。
「いや、ちょっと疲れたし、もう満足したからさ」
「そっか。じゃあ、少し休憩する?」
「そうする」
翔は息を整えながら、彩花の隣に腰を下ろした。
横目で確認すると、大学生たちはこちらを一瞥してから、別の方向へ歩いていくところだった。
「——草薙君」
彩花がふと口を開いた。
「なんだ?」
「ほんとは、ナンパから守ってくれたんでしょ?」
「っ……」
翔は息を呑んだ。
唐突な問いに、咄嗟に誤魔化すこともできなかった。
「やっぱりね」
彩花がくすりと笑った。
「疲れたにしては、明らかに急いでこっち来たもん。……ありがとね」
「……仮にも男女でいるんだから、それくらいは当然だろ。ナンパ自体がそんなに悪いことだとは思わないけど、しつこいやつらだっているかもしれないし」
「そうだね。でも、優秀な騎士がいるから私は安心だよ」
「お姫様のお役に立てて何より——いててっ」
不意に、頬をつねられた。
彩花が唇を尖らせて、不満そうにこちらを見ている。
「その呼び方、好きじゃないって言わなかった?」
「先に騎士とか言い始めたのはそっちだろ。というか双葉こそ、外ではやめてくれって言ったよな?」
頭ポンポンや頬つねりは、外ではやらないとカラオケで約束したはずだ。
翔が頬をさすると、彩花は息を詰まらせて、ぷいっとそっぽを向いた。
「……だって、頬以外攻撃できるとこないじゃん」
「あ……」
言われてみれば、今の翔は上半身が裸だ。
二の腕も脇腹も、いつも彩花が攻撃してくる箇所は、全て素肌が露出している。
直視すらもままならない彼女にとって、普段は隠れている肌に触れるのはハードルが高すぎるのだろう。
(……別に、男の上半身くらいどうってことないと思うけどな)
翔が視線を逸らしてガシガシと頭を掻いた、その瞬間だった。
「——やめてください」
鋭い拒絶の声が、喧噪を切り裂いて届いた。
少し離れた場所で、二人組の女性が男四人に囲まれていた。
「いいじゃん、ちょっと遊ぶだけだって」
「いえ、けっこうです。二人で楽しんでいるので」
「そんな堅いこと言うなって。な、いいだろ?」
男たちはニヤニヤしながら、強引に距離を詰めている。
典型的なナンパ、いや、もはや絡みに近い。
翔は周囲を見渡して警備員を探したが、あいにく近くには見当たらなかった。
「いたね、しつこいナンパ」
「——双葉、待て」
翔は、立ちあがろうとした彩花の肩を掴んだ。
「なに? 警備員さん呼んでくるだけだよ」
「それでも、ああいう連中に目をつけられたら危ないから。俺が行ってくるよ」
「危ないのは草薙君も同じじゃん」
「俺は男だから。なっ?」
「……わかったよ」
彩花は渋々といったように、腰を下ろした。
「助かる。——あ、それと」
翔は歩き出してすぐ、背後を振り向いた。
「一応パーカーは羽織っておいたほうがいいぞ」
彩花は小首を傾げ、パチパチと瞳を瞬かせた。
「……隠密作戦の合言葉?」
「違うよ。体が冷えちゃうだろうし……それに、一人でいるならその格好じゃないほうがいいだろうから」
「えっ? ——あっ」
彩花が自分の体を見下ろして、ほんのり頬を染めた。
自分の体を抱くように腕をクロスさせると、翔にじっとりとした眼差しを向けて、
「……えっち」
「そ、そういうことじゃないって! さっきみたいなこともあるからさ」
「ふふ、わかってるよ。——じゃあ、気をつけてね」
彩花はイタズラっぽく瞳を細めた後、真剣な表情に戻った。
「双葉もな。変なやつに絡まれたりしない限りは、ここで待っててくれ」
「わかった」
翔と彩花は反対方向に歩き出した。
更衣室はすぐそこだ。過剰な心配は無用だろう。
それに、こうしている間も、男たちは退く様子を見せていない。
どころか、さらに距離を詰めている。猶予はあまりなさそうだ。
(急がないとな)
翔は早足で歩き出した。
少しでも牽制になればと、その横を通り過ぎたところで、
「いいじゃんかよっ」
ちょうど男の一人が、近くにいた女性の腕を掴みにかかっていた。
「やめろよ」
翔は考える間もなく割って入り、男の手首を掴んでいた。
「あぁ? なんだおま——」
男が凄みながら振り返る。
しかし、翔の顔を見た瞬間、その目が驚愕に見開かれた。
「っ、お前……草薙?」
「えっ? ……あっ」
翔もまた、息を呑んだ。
派手な金髪に日焼けした肌。雰囲気こそ変わっているが、その顔立ちには見覚えがあった。
『幼馴染じゃなかったら、お前なんて見向きもされてねえよ』
翔の脳裏に、嘲笑混じりの声が響いた。
記憶の中の声のほうが少しだけ高いが、間違いなく目の前の男——田畑の声だった。
第113話は「プール③ —同級生との対峙と、お姫様の乱入—」です!
田畑君たちからの嘲笑や罵声に苛立ちながらも淡々と対応する翔君でしたが、そこに彩花さんが飛び込んできて、衝撃的な言葉を放ちます……!




