第110話 頬の柔らかさ
翔が歌い終えると、採点が表示されるのを待たずに、彩花がストローに口をつけた。
翔の歌唱中、彼女はずっと上の空だった。
「彩花、どうした?」
翔が声をかけると、彩花はストローから口を離し、こちらに顔を向けた。
躊躇うように視線を彷徨わせてから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「さっきのことが、気になって」
「……さっきのこと?」
「誤魔化そうとしたでしょ、赤月さんのこと。——本当は何を考えてたの?」
その声は静かだったが、どこか有無を言わせない響きがあった。
下手に気を回したことで、かえって機嫌を損ねてしまったらしい。
「そんな大したことじゃないんだけどさ……あいつ、大丈夫かなって」
彩花の眉間にぐっとシワが寄った。
「……翔君が心配する必要はないと思うけど。それこそ、桐生君あたりが寄り添うべきだし」
「そうだけどさ。あれだけ荒れてるのは、やっぱりちょっと変だろ」
翔から見ても、翼は間違いなく優良物件だ。
サッカー部でイケメンというステータスだけではなく、単純にいいやつだし、真剣に部活に打ち込むその姿は、同じく向上心を持つ香澄には合っているはず。
そもそも、香澄は自ら翼を選んだのだから、そこに不満を覚えるとは思えない。
(ということは、翼以外に原因があるのかもしれないな)
これ以上火の粉が飛んできてほしくないというのが翔の本音だが、気に掛かっているのも事実だった。
「確かに、付き合いの薄い私でも、最近の赤月さんはらしくない行動や言動が多いとは思うけど——私は草薙君のほうが心配だよ」
「えっ、俺? いや、もうあいつのことは引きずってないよ」
そうでなければ、放っておいてくれ、などと言えるはずもない。
「そうじゃなくて、悪い女の人に引っかかりそうってこと。泣き落としとかされたら、どんなに酷いことされた相手でも、なんだかんだ助けちゃいそうだもん」
「それはないと思いたいけど……危なそうだったら、ビンタでもしてくれ」
「了解。——言質は取ったからね」
彩花はそう言うなり、勢いよく手を振り上げた。
(う、嘘だろっ?)
翔は反射的に目をつむった。
しかし、痛みはやってこない。その代わりに、頬を引っ張られる感覚があった。
「……えっ?」
彩花の人差し指と親指が、翔の頬を挟んでいた。
痛くはない。
けれど、触れられた場所から熱が広がっていくのは止められなかった。
「……危なそうだったらって、言わなかったか?」
「だって、危なそうなんだもん。普通は翔君の立場で、赤月さんのことを気遣ったりなんてしないからね」
彩花は指を離すと、ふいっと顔を背けた。
翔はポリポリと頭を掻きながら、苦笑を漏らした。
「一応は幼馴染だからな。いきなり意識の外に放り出すのは、ちょっと難しいよ」
「……定期的につねっておく必要がありそうだね」
「勘弁してくれ」
慌てて両手を突き出し、こちらに伸ばされた彩花の指先をガードする。
顔を触られるのは、頭ポンポンよりも破壊力が高いかもしれない。
彩花はしばらくジト目を向けていたが、やがてふっと息を吐いた。
「ま、そういうところが翔君の良さでもあるんだけどさ」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、彼女はおもむろにデンモクに手を伸ばした。
迷いのない手つきで操作を始める。
何か歌いたい曲でも思いついたのだろう。
そう思って、翔がソファーに身をもたれかけさせると、ずいっとデンモクの画面が鼻先に現れた。
「ねぇ。せっかくだし、これ歌わない?」
画面に表示されていたのは、前に潤たちと来たときに歌ったデュエット曲だった。
「お、いいじゃん。五分で二人とも歌えるの、お得だし」
「だからなんでそんなに華のない発想になるかなぁ」
彩花が呆れたように笑いながら、曲を予約した。
軽快なイントロが狭い室内に響き渡り、空気がふと軽くなる。
彩花の横顔を伺うと、そこにはもう先程までの暗さはなかった。
翔はマイクを握り直し、モニターに視線を固定した。
潤と琴葉がいない分、前回よりもリラックスして歌えるだろう。
——そう思っていたのは、一緒に一番のサビを歌い終えるまでだった。
間奏に入ると同時に、ふつりと糸が切れたように静寂が落ちた。
スピーカーからは賑やかなメロディが流れているはずなのに、互いの呼吸音だけがやけに耳につく。
翔は逃げるようにグラスに手を伸ばした。
視界の端で、彩花も同じようにストローに口をつけているのが見えた。
視線が一瞬交差したが、すぐにお互い画面に目を戻した。
その後も、なぜか息が微妙に合わないまま、曲は終わりを迎えた。
二人揃って黙ったまま、採点画面を見つめる。
表示された点数は、前回よりも低かった。
「……なんかさ」
「うん」
「なんだかんだで、盛り上げ役って必要だと思うんだ」
「そうだね」
彩花も同じことを考えていたのか、照れたように笑った。
採点画面が終了すると、歌唱中は薄暗くなっていた照明が、以前の柔らかな暖色を取り戻した。
翔はストローをくわえ、妙に乾いていた口内を潤した。
すると、横顔に視線が刺さる気配がした。
——彩花がじっと、翔の頬の辺りを見つめていた。
「えっと……どうした?」
「……翔君の頬、男の子なのにけっこうぷにぷにしてたなって」
「知るか」
翔はぶっきらぼうに答え、顔を背けた。
次の瞬間——
ぷに、と頬をつままれた。
「っ……」
翔は反射的にのけぞった。顔が一気に熱くなる。
「あれ、頬赤いよ? そんなに痛くしたつもりはなかったんだけどな」
彩花はすっとぼけたように手をひらひらさせるが、その表情は活き活きしていた。
「……女の子のほうが柔らかいだろ」
翔は半ば無意識に、彩花の頬をつまみ返していた。
やられっぱなしは癪だった。
「っ……⁉︎」
彩花はびくっと肩を震わせ、みるみるうちに赤くなって縮こまった。
翔は手を離すと、半分以上残っていたジュースを一気に飲み干した。ふぅ、と息が漏れた。
「……外ではやるなよ。頭ポンポンも」
「や、やらないよ。誰にでもこんなことするって思われたら困るし……」
彩花がグラスを両手で抱えながら、ゴニョゴニョと言葉をこぼした。
それから、窺うように流し目を向けてくる。
「でも……外ではってことは、二人きりならやってもいいってこと?」
「さっきの空気感に耐えられるならな」
「……精神的に成長できそうではあるよね」
「ストイックを拗らせないでくれ」
◇ ◇ ◇
カラオケ店を出ると、陽はだいぶ傾いていた。
「この時間になると、けっこう気温も下がるんだな」
「ね、ランニングとかしたら気持ちよさそう」
「確かに」
翔は、前に一緒に走らないかと誘われていたことを思い出した。
(確か、彩花から言い出したよな、あれ……)
それに、カラオケの誘いにも乗ってくれたのだ。
きっと大丈夫だろう。
「……あのさ、双葉」
「ん?」
「筋トレだけじゃなくて有酸素運動もしたいし、ランニングマシーンよりも景色とか見ながら走りたいから、今度一緒に走らないか?」
「あ、いいね! やろうやろう」
食い気味の返事に、翔はふっと肩の力を抜いた。
彩花はビシッと人差し指を立てた。
「明日の今の時間帯とかどう?」
「明日は勉強会と筋トレじゃないか?」
「あ……そうだった」
風船が萎むように、彩花の声がしゅん、と小さくなった。
「珍しいな。双葉が予定を忘れてるの」
「わ、私だって、全部覚えてるわけじゃないし」
「それもそうか」
自分から誘った以上、積極的に予定を立てるべきだろう。
翔はポケットからスマホを取り出し、カレンダーアプリを起動した。
「あっ」
覗き込んできた彩花が、小さく声を漏らした。
「どうした?」
「ううん、その……名前にしてくれてるんだなって」
彩花の白い指が、『彩花と筋トレ・勉強会』という欄を指差した。
「何回も見るものだからな。双葉のままだったら、またうっかり呼んじゃいそうな気がして。実際、さっきも呼んじゃったし」
「いい心がけだね。私も直しておいたよ」
「そうか」
翔は、自分だけじゃなかったことに安堵すると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「今度の文化祭準備の後とかにするか?」
「でもいいけど、いっそのこと、朝はどう?」
「あー、なるほど。確かに、朝も涼しいっちゃ涼しいもんな」
むしろ、昼間の熱気が残る夕方よりも気温は低いかもしれない。
「うん。それに、何かの予定の後よりも、確実に時間が読めるし、朝のランニングは一回やってみたかったんだよね」
「生産性が上がるってどこかで聞いたな。朝活ってやつか」
「そうだね。しっかり二度揚げしておくよ」
「二度揚げ? ……ああ、朝カツか。たぶん、ランニングよりしんどいぞ」
「間違いない」
彩花がけらけらと笑った。
今日はしょうもない駄洒落が多い。ご機嫌なのはいいことだ。
「どうする? 早速明日、やってみるか?」
「うん」
彩花は間髪入れずにうなずいた。
夕陽に目を向けながら、ふとつぶやく。
「——楽しみだね」
「っ……そうだな」
頬を撫でる風が、先程よりも冷たく感じられる。
この短時間で急激に冷えたわけではないことは、翔自身が一番理解していた。
「……やっぱり、今から走るか」
「駅、すぐそこだけど」
第111話は「プール① —琴葉の囁き—」です!
二対二で別れるときに琴葉さんが彩花さんに何かを囁くと、彩花さんは真っ赤になり——




