第108話 幼馴染との対峙
「えっと……見せつけたって、何が?」
翔は困惑し、眉を寄せた。
香澄は腕を組み、冷ややかな視線を向けてくる。
「手洗い場での私と翼のやり取りを、あんたは見ていたわよね。だから、これ見よがしに双葉さんの袖をまくっていたのでしょう?」
「いや、別に香澄のこととか気にしてなかったから。そもそも俺らと香澄たちじゃ、関係性が違うんだから、見せつけるも何もないだろ」
「どうかしらね? 私には、付き合ってないからこそのアピールに見えたけど」
「はっ? ……何言ってんだ?」
翔の声が低くなる。
香澄は鼻を鳴らし、口の端を歪めた。
「あんたは自信がないから、安易な優しさで相手を繋ぎ止めようとしてるだけ。——それじゃ所詮、いい人止まりよ」
「っ……」
翔は言葉に詰まった。
別に彩花にアピールしたわけじゃない。袖が濡れそうだったから、手を貸しただけだ。
けれど、「いい人止まり」という言葉が、喉の奥に小骨のように引っかかった。
「——赤月さんは何が言いたいの?」
凛とした声が、重い空気を切り裂いた。
彩花が不機嫌さを隠そうともせず、翔の前に割り込んだ。
「いきなり突っかかってきて、むやみやたらに草薙君のことを否定してさ。干渉しない桐生君のほうがいい男だ、とでもアピールしたいわけ?」
「まさか。感じ方は人それぞれだし、押し付けるつもりはないわ。まあ、少なくとも翼はご機嫌取りのようなことはしないし、優しさの押し売りもしないけど」
「なっ……⁉︎ それじゃ、まるで草薙君が——」
「双葉」
翔は彩花の肩を掴んだ。
不満げに見上げてくる瞳に、一つうなずく。
彩花に守られてばかりではいけない。
いい加減、自分のことは自分でなんとかしないと。
「……わかったよ」
「ありがとな」
しぶしぶ引き下がる彩花に小声で礼を言い、翔は香澄に向き直った。
「香澄の言う通りなのかもしれないけどさ。一つ、根本的なことを見落としてるぞ」
「……見落としているですって? 私が?」
「ああ。アピールとか以前に、困ってるクラスメイトがいたら助けるのは当然だろ。——その相手が恋人や仲良しだったら、なおさらな」
不要な一言だとわかっていたのに、翔は最後にその言葉を付け足してしまった。
案の定、香澄はキツく眉を寄せた。
「……なに、翼は薄情だとでも言いたいわけ?」
「いや、俺はそう思うってだけ。というか、翼が手を貸さなかったのは、元を辿れば香澄が最初に拒絶したからだろ」
「っ……あんたらみたいに馴れ合っていないだけよ。自律した人間同士でなければ、高め合うことなんてできないわ」
「そうかもな。けど、双葉は手伝ったらお礼を言ってくれた。俺にはそれだけで十分だよ」
誰かを助けて、喜んでもらう。
どちらもいい気分になれるのだから、やらない理由がない。
「っ……あんたはいつもそうやって、後ろ向きな考えばかりね。けど、変化を恐れて立ち止まるのは現状維持ですらないわ。——後退よ」
香澄が眉尻を吊り上げ、鋭く言い放った。
翔に向けた言葉のはずなのに、どこか自分に言い聞かせているような響きだった。
「……そうだな」
立ち止まるのは現状維持ではなく、後退。
正論なのだろうし、現に翔もその言葉を体現していた——香澄にフラれるまでは。
(別に、今だって前向きになれたわけじゃないけど)
特に人間関係については、未だにネガティブに考えてしまう癖があることも自覚している。
後から冷静になって考えれば杞憂だとわかるのに、その場ではなぜか、必要以上に不安を感じてしまうのだ。
けれど、少なくとも勉強や筋トレに関しては、目に見える成果が出てきている。
着実に、前進している感覚があった。
(それだってプロデューサーのおかげだから、偉そうな顔はできないけどな)
そのプロデューサーは、一見すると平静を保っているが、眉毛がぴくぴくと痙攣している。
静かに怒りのボルテージを溜めているその様子を見て、翔は反対に、スッと頭が冷えていくのを感じた。
思考がクリアになる。
香澄を言い負かしてやる、論破してやる——。
胸の内で渦巻いていた情動が、霧が晴れるように消えてた。
「……香澄からしたら、俺はだらしなくて情けないやつに見えてるのかもしれないし、それで苛立たせてるなら申し訳ないとは思うよ」
翔はゆっくりと切り出し、そこで言葉を止めた。
斜め後ろに立つ彩花をちらりと見てから、香澄に向き直った。
「けどさ。今はこうやって別々の道を選んだんだから、もう放っておいてくれよ」
「っ……!」
香澄の顔が歪んだ。
その表情は怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
「……そうね。私とあなたは、ただの幼馴染だもの。ほとんど無関係に等しいもの」
香澄は絞り出すように言うと、翔たちに目を向けることなく、踵を返した。
だが、数歩進んだところで足を止め、背中越しに声を投げかけてきた。
「だったら、最後に双葉さんに一つだけ忠告しておくわ」
「……なに?」
「これまでの努力が無駄にならない環境を選んだほうがいいわよ。特にパートナーは、一緒に高め合える人を選ばないと、あなたでさえもいずれ落ちていくことになるから。——それじゃ」
香澄はそれだけ言い残すと、今度こそ振り返ることなく去っていった。
教室には、重苦しい静寂が残された。
「……なにあれ。翔君が一緒に高め合える人じゃないって言いたいの?」
彩花の低い声が、教室内に響いた。
「双葉」
「なに」
「名前で呼んでる」
「——あっ」
彩花はハッとしたように口元を押さえ、目線を泳がせた。
翔は廊下から顔を出した。人の気配はない。
「大丈夫。誰も聞いてなかったと思う」
「……ごめん」
彩花は耳をほんのり赤く染めて、うつむいた。
「気にすんなって。俺も正直、ムカついたから」
「……その割には、冷静だね」
翔が教室を出ると、背後から不満そうな声が追いかけてきた。
「双葉がさ」
翔は彩花が横に並んだところで、前を向いたまま切り出した。
「プロデュースの提案してくれたとき、『見返そうよ』って励ましてくれただろ?」
「ああ、うん……言ったけど」
彩花は困惑したようにうなずいた。
「あれ、めっちゃ励まされたし、だからこそ最初の一歩を踏み出せたのは間違いないと思う。けど、なんか今はそもそも、あんまりそういうのを考えなくなったっていうか……」
以前は、香澄や翼と自分を比べても仕方がないとは思いつつも、そう考えることをどこか逃げだと感じていた。
けれど、最近は他人は他人、自分は自分だと、素直に考えられるようになった。
だから、思ったよりは冷静なのかもしれない。
翔がそう結論づけると、彩花はイタズラっぽく瞳を細めた。
「それがある意味、一番の見返しになってるかもよ」
「そうなのか?」
「うん。——多分、今の赤月さんにとっては特に」
彩花が昇降口を出ながら、遠くに目を向けた。どこか険しい眼差しだ。
しかし、その表情はすぐに和らいだ。
「とにかく、草薙君は自分に合った道を進んでると思うし、それでいいんじゃないかな」
「そうだな。優秀な導き手もいるし」
「ねぇ、やっぱりバカにしてるでしょ」
「違うよ。俺一人だったら、たぶん今も落ち込んでたし、劣等感の塊になってたかもしれない。少なくとも、香澄に言い返すことなんか絶対できてなかったよ」
もっと穏便に済ませられたとは思う。
だが、翔は自分の発言を少しも後悔していなかった。
どころか、パズルの最後のピースが埋まったような充実感すら覚えていた。
「——ありがとな、彩花」
その言葉は、自然と口からこぼれ落ちた。
「っ——」
彩花がぴたりと足を止めた。
目を見開いたまま固まる彼女の前髪を、そよ風が優しく撫でる。
「ん、どうした?」
「えっ、あ、いや……いきなり、名前で呼ばれたから」
「えっ、マジで?」
翔は慌てて口元を押さえ、周囲を見回した。
「……もしかして、無意識だったの?」
「お、おう……たぶん」
今度は翔が言葉を詰まらせる番だった。
「……そっか」
彩花は噛みしめるようにつぶやき、儚げに瞳を伏せた。
落ちた長いまつ毛が、夕陽に照らされて影を落とした。
不意に彩花が顔を上げた。
その瞳が、どこか慈しむような、熱を帯びた色で翔を捉える。
(っ、なんだ、この空気……)
翔は思わず息を詰めた。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥がざわつく。
その潤んだ瞳と真剣な表情は、何か重大な言葉が紡がれる予兆にしか見えなかった。
「草薙君」
「ど、どうした?」
翔が身構えると、彩花はふっと口元を緩めた。
「とうとう参加したんだね——ヘタレースに」
「……はっ?」
翔は間の抜けた声を漏らした。
あまりの急展開に、思考が追いつかない。
「ヘタレース……って、なんだっけ?」
「忘れちゃった? 二人きりじゃないときにこっそり名前で呼んで、周りにバレるかどうかを競うチキンレースだよ」
彩花が得意げに人差し指を立てた。
「ああ……」
そういえば、前に電車でそんなやり取りをした記憶がある。
張り詰めていた空気が一気に霧散し、翔は脱力して肩を落とした。
胸のざわつきも、呆れと共にどこかへ消え去っていた。
「無意識エントリー、高評価だよ」
「今すぐ取り消してくれ。——というか、双葉も二度とやるなよ」
「不定期で開催するから、またの参加をお待ちしてまーす」
彩花は冗談めかして敬礼をすると、軽やかな足取りで歩き出した。
「ちょ、おい、マジでやめろよっ」
翔は慌てて彩花を追いかけた。
その口元は、彼自身も気付かぬうちに、かすかに弧を描いていた。
第109話は「お姫様を誘ってみた」です!
香澄の言動を思い出してストレス発散がしたいと言い始めた彩花さんに、翔君が不安になりながらも提案した内容は——




