第107話 お姫様との接近、幼馴染の冷たい視線
「よし、こっちは一区切りついたな。双葉は?」
「私はあと少しだよ」
翔が筆を置きながら尋ねると、彩花は袖で額の汗を拭いながら答えた。
連動しているものの、それぞれ別の作業をしていた。
「ペイントが付いちゃったから、手を洗ってきていいか?」
「待っててくれてもいいんだよ?」
「いや、乾くと面倒だから行ってくるわ」
イタズラっぽく笑う彩花をかわして教室を出ると、背後から美波の声が飛んできた。
「草薙君。彩花が寂しくて泣いちゃうってー」
「そ、そんなわけないでしょっ!」
美波の揶揄いと彩花の慌てた声を背に、翔の口元が思わずほころんだ。
通りすがりの女子生徒に怪訝そうな眼差しを向けられ、慌てて表情を引き締めた。
トイレの手前にある共用の手洗いスペースには、すでに先客が数多くいた。
それぞれ、列に分かれて並んでいる。
ふと周囲を見回すと、翔の斜め前に香澄の姿があった。
彼女は順番が来ると、蛇口を勢いよく捻り、白い泡にまみれた手をこすり合わせた。
袖口が濡れそうになっている。というより、すでにいくらか水飛沫が飛んでいるようだ。
だが、少なくとも翔が口を挟むことではないだろう。
「香澄、袖をまくったほうがいいんじゃねえか?」
背後から、翼の声が聞こえた。
彼は段ボール箱を抱えていた。何かを運んでいる途中のようだ。
「……そうね」
香澄は短く答えると、泡のついた手を流した。
よく水を切ってから、慎重にハンカチを取り出している。
香澄が一番嫌いそうな、明らかに非効率な工程だ。
しかし、彼女は周囲の誰にも——翼にも助けを求めようとはしなかった。
翼が声をかけるだけでなく、手伝っていればよかった話ではある。
だが、先程のにべもない拒否の後では、彼に責任があるとは言えないだろう。
程なくして、翔の順番が来た。
一人を挟んで香澄の左隣だ。
翔は半袖なので、そのまま手を洗い始めた。
「——わっ」
「っ……!」
突然、耳元で声がして、翔は肩を跳ねさせた。
「あはは。草薙君、なかなかいい反応するねー」
「なんだ双葉か、びっくりした……。ずっと後ろにいたのか?」
「ううん。たまたま空いたからさ」
彩花は翔と香澄の間にポジションを取ると、蛇口から勢いよく水を出した。
イタズラが成功したからか、どこか得意げな表情だ。
「——って、双葉。袖が濡れるぞ」
「あっ」
手を擦り合わせてハンドソープを泡立てていた彩花が、間の抜けた声を漏らした。
彼女もまた、香澄と同じようなミスをしていた。
「驚かすことしか考えてないからだよ」
「うるさい。別にこのままでも洗えるもん」
翔が口角を吊り上げてみせると、彩花は反対に口の端をへの字に曲げて、そのまま手洗いを続行しようとした。
「待て、早まるな」
「でも、もう泡つけちゃったし、今から袖をまくるのは面倒くさいよ」
リスクとリターンが釣り合っていないのは、彩花もわかっているはず。
それなのに、意見を曲げようとしない。
翔に揶揄われたことで、珍しく意地っ張りモードになっているようだ。
こういうときは、議論をしてはいけない。
皮肉な話だが、香澄と過ごした日々で得た教訓だ。
「だったら、こうすれば万事解決だな」
翔は手を拭くと、すぐそばの彩花の左腕の袖口に手を伸ばした。
柔らかいニット生地を指先でつまみ、肘のあたりまで引き上げる。
「こんな感じでいいか?」
「うん……ありがと」
翔の確認に返ってきた声は、蛇口から落ちる水音に紛れそうなほど、小さかった。
彩花は唇を噛みしめ、視線を窓の外に向けていた。
その横顔には、さっきまでの得意げな色はなく、代わりにうっすらと朱が滲んでいる。
「っ……」
その変化を見て、翔の指先もピクリと強張った。
今更ながら、肩先が触れ合いそうだったことに気づいた。
(……いや、袖をまくってるだけなんだけどな)
それでも、普通の距離感ではないのも事実だ。
翔は周囲を見回した。
しかし、代わってくれそうな人物——美波や宮城など——は見当たらない。
「その……草薙君」
「ん?」
「どうせなら、右腕もお願いしていい?」
彩花は翔のほうを見ないまま、右腕をそっと差し出してきた。
「……わかった」
翔は努めて平静に答えた。
しかし、すぐに一つの問題点に気付いた。
遠いほうの腕に触れようとすると、それだけさらに密着する形になる。
反対側に回り込めばいいだけの話だが、彩花の右隣にいるのは香澄だ。
二人の間に割って入るのは、なんだか気まずい。
翔は一瞬の逡巡の後、結局そのままの位置から身を乗り出すように手を伸ばした。
かすかに聞こえる吐息が、妙にくすぐったい。
視線を周囲に向けると、ちょうど香澄がその場を離れるところだった。
彼女がもう少し早く洗い終えていれば、翔がここまで彩花と密着する必要はなかった。タイミングが悪かったと言う他はない。
「よし、これなら落ちてこないと思う」
「うん。ありがとね」
「おう」
翔は彩花から距離を取り、詰めていた息をそっと吐き出した。
混雑する洗い場を抜け出すと、ハンカチで手を拭いている香澄の姿が目に入った。
彼女は気配に気づいたのか、ちらりとこちらを一瞥した。
——その視線は氷のように冷たく、鋭利だった。
何かを言いたげに唇を引き結んでいたが、結局何も言わず、足早に去っていった。
(……さっきからなんなんだよ)
翔は拳を握りしめた。
見下されているのか、呆れられているのか。
どちらにせよ、いい気分はしなかった。
◇ ◇ ◇
「はーい、今日の作業はそこまで! みんな、片付けよう!」
宮城のよく通る声が、教室に響き渡った。
気がつくと、陽が斜めに差し込むようになっていた。
その号令で、クラスメイトたちが一斉に動き出す。
散らかった資材をまとめ、机を元の位置に戻していく。
あらかた片付けが終わり、喧騒が落ち着いてきたころだった。
宮城が、教室の隅に残された段ボール箱を指差しながら、翔と彩花に歩み寄ってきた。
「草薙君、双葉さん。悪いんだけど、こいつらを資材部屋に置きにいってくれないかな?」
宮城は申し訳なさそうに手を合わせた。
「了解だよ。草薙君もいいよね?」
「もちろん」
「ありがと! その後はそのまま帰っちゃっていいからねー」
宮城は笑顔で手を振り、教卓の方へと戻っていった。
「双葉はこれにしとけよ」
翔が中身の少ないほうを選ぶと、彩花は不満げに唇を尖らせた。
「……新山君がぶつかってこなければ大丈夫だったし」
「体格差的に、俺が大きいほうを持つべきだろ。あと新村な」
「どっちでもいいよ」
彩花は箱を抱えながら、さらりと返した。
どうやら、名前を覚える気すらないようだ。
興味のない相手にはとことんドライなところは、確かにお姫様っぽいと言えるかもしれない。
「双葉。代わろうか?」
廊下に出たところで、亮平が彩花に声をかけた。
「ううん。このくらいなら大丈夫だよ」
「そうか、わかった。気をつけて」
「うん、ありがとね」
あっさり引き下がった亮平に、彩花が笑みを浮かべて軽く会釈した。
亮平は背中越しに、ひらひらと手を振った。
「ああいう所作も似合うのは、さすがミスターギャップ萌えだよな」
翔は歩き出しながら、小声で彩花に話しかけた。
「あれ、草薙君。キュンとしちゃった?」
「違うって。かっこいいとは思うけど、そっちの趣味はないから」
「じゃあ、女の子が好きなんだ?」
「女タラシみたいに言うな」
高望みするつもりはないが、翔とて、誰でもいいわけではない。
ため息混じりに返すと、彩花はくすくす笑った。
「でも、それを言うなら草薙君も、ミスターギャップ萌え予備軍だと思うけど」
「俺が? なんでだよ」
「草食系な感じで、けっこう筋肉ついてきたじゃん」
「後半部分だけで良かったんじゃないか?」
「いやいや、むしろ大事なのは前半部分だよ」
彩花はおかしそうに瞳を細めた。
どこかご機嫌な様子に、翔の頬も自然と緩んだ。
◇ ◇ ◇
「他のクラスも、けっこう準備進んでるっぽいね」
「だな」
目的の教室の扉は開いていた。
机が端に寄せられ、クラスごとに区切られたスペースに様々な道具や装飾が置かれている。
夕方になっていることもあり、人の姿はない。
通り道だったいくつかの教室にも、ほとんど人影はなかった。
「ここでいいよな」
「うん」
翔と彩花が指定の場所に箱を置き、踵を返そうとした、そのときだった。
ガララッ、と教室の扉が乱暴に開いた。
——そこには、険しい表情を浮かべた香澄が立っていた。
ちらっと背後を振り返ってから、ツカツカと一直線に翔の元へ歩み寄ってくる。
その瞳には、隠しきれない激情が渦巻いているように見えた。
「香澄? 何か用……」
翔の言葉を遮るように、香澄が低い声で言い放った。
「——さっきの、見せつけたつもり?」
第108話は「幼馴染との対峙」です!
見せつけ、アピール、いい人止まり……。香澄さんの口撃に、果たして翔君はどのように対応するのでしょうか?




