第106話 お姫様を抱きしめた
文化祭準備で活気づく教室は、人の出入りが激しく、熱気に満ちていた。
翔は一段落したところで、近くにあった完成済みの装飾品類が入った段ボール箱を一つ抱え上げた。
「あ、草薙君、ありがとう。助かるよ」
「おう」
すれ違いざまに宮城から声をかけられ、軽く会釈して教室を出た。
資材部屋となっている空き教室へ箱を運び込み、戻ってくると、廊下の向こうから彩花が歩いてくるのが見えた。
彼女もまた段ボール箱を抱えていたが、その上にはガムテープやマジック、モールといった細々とした資材が、今にも崩れ落ちそうなバランスで積まれていた。
おまけに、荷物の高さで前がよく見えていないようだ。
足取りもおぼつかない。
(……危ないな)
翔はすぐに駆け寄った。
「双葉、貸してくれ。持つよ」
「あ、草薙君……。気持ちは嬉しいけど、大丈夫だよ。これ、バランスが難しくて、下手に動かすと崩れちゃいそうで」
彩花が箱の上から顔を覗かせ、困ったように眉を寄せた。
確かに、絶妙なバランスで積み上げられている。一つでも引き抜けば、ジェンガのように全体が崩壊しそうだ。
「急げ急げ!」
翔がどう手を貸すべきか迷っていると、階段のほうから焦ったような野太い声と、慌ただしい足音が近づいてきた。
次の瞬間、野球部のポロシャツを着た大柄な男子が勢いよく姿を見せ、曲がり角にいた彩花に突っ込んできた。
「——おわっ!」
「きゃっ⁉︎」
彩花が驚いて、反射的に翔の方へ飛び退いた。
「っと!」
翔は咄嗟に腕を伸ばし、バランスを崩した彩花の体を受け止めた。
彼女が抱えていた荷物が大きく揺れ、一番上の小物が滑り落ちそうになっていた。
「あっ、やば——」
翔は反射的に反対側の腕も回して、荷物を挟み込むように押さえつけた。
結果、彩花を正面から抱きしめるような格好になった。
「「あっ……」」
鼻先が触れそうな距離に、目を丸くさせた彩花の顔がある。
甘い香りがふわりと漂い、重ねた体から柔らかさと温もりが伝わってきた。
「わ、悪いっ……!」
翔は心臓が跳ねるのを感じ、慌てて体を離そうとしたが、
「——待って、色々落ちちゃう!」
彩花の切羽詰まった声に、動きを止めた。
確かに、今ここで手を離せば、資材が床に散らばることになるだろう。
せっかくみんなが時間をかけて作ったものを壊してしまうわけにはいかない。
彩花だって、そんなことになれば責任を感じて落ち込むはずだ。
(……今は、動けない)
翔は腕に力を込めたまま、意識を外に逃すように、周囲を見回した。
すると、香澄の姿が目に入った。
彼女はまるで軽蔑するように、冷ややかな目で密着した翔たちを見ていた。
(……ちょっとくらい手を貸してくれてもいいだろ)
翔の胸に、わずかな苛立ちが走った。
ただ見ているだけなら、せめて荷物を支えるなりなんなりしてくれればいいのに、香澄に動くそぶりはない。
これ幸いにとくっついている、とでも思っているのだろうか。
「わ、悪い双葉さん。大丈夫かっ?」
「待て、新村」
ぶつかりそうになった男子が、彩花に手を伸ばそうとするのを、鋭い声が制した。
亮平だった。新村と同じ野球部のポロシャツを着ている。
「動くなよ。これ、扱いが繊細なやつもあるからな」
亮平は翔と彩花に近づくと、崩れかけていた小物を一つずつ慎重に引き抜いていった。
「よし、もういいぞ」
その言葉を合図に、彩花がパッと体を離した。
俊敏な動きだ。これなら、怪我もしていないだろう。
「ふぅ……」
彩花も小物も、なんともなくて良かった。
翔が安堵の息を吐きながら彩花に視線を向けると、彼女は耳まで真っ赤に染めて、うつむいていた。
その姿を見て、翔も遅れて体中がカッと熱くなるのを感じた。
「ま、今のは事故だろ。お互い、気にしなくていいと思うぜ」
亮平がさらりと言った。
「……サンキュー、桑田」
「ありがと。助かったよ」
「二人とも、怪我がなくて良かったな」
翔と彩花が礼を言うと、亮平は軽くうなずいて頬を緩めた。
顔は可愛い系なのに、今の仕切りや態度は、妙に男らしくてかっこよく見えた。
(ミスターギャップ萌えの異名は、伊達じゃないな)
あくまで非公式の呼称だが。
「あー、悪かったな、双葉さん。急いでて周りが見えてなかった」
新村は頭をかきながら彩花に謝ると、すぐに気を取り直したように言った。
「良かったら、荷物は俺が持っていくぜ」
「えっ? あ、ううん。大丈夫。草薙君が手伝ってくれるから」
「遠慮すんなって。俺ならそれくらいの量は軽く持てるし、迷惑かけちゃったからさ」
新村はアピールをするように、二の腕に力コブを作ってみせた。
「えっと……」
彩花は困惑したように眉を下げた。
翔が口を開きかけたそのとき、またしても亮平が割って入った。
「本人たちがいいって言ってんだから、それでいいだろ。あれだったら俺も手伝うし。そもそもお前、なんか急いでたんじゃねえのか?」
「——あ」
新村は思い出したように時計を見た。
「……そうだったわ。じゃあ、双葉さん。また何か力仕事とか必要になったら言ってくれ。力になるからさ!」
新村はそう言い残すと、慌ただしく走り去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、彩花は少し不満そうに頬を膨らませている。
「とりあえず、なんともなくて良かったな」
「……うん。まあ、そうだけど」
翔が声をかけると、彩花は曖昧にうなずいた。
どうやら、怪我の有無や荷物のことを気にしているわけではなさそうだ。
「あいつ、草薙には謝らなかったよな」
「そう! 私もそのことが気になっちゃって」
亮平のつぶやきに、彩花が我が意を得たりとばかりに同意した。
「俺はちょっとだけ巻き添えを喰らっただけだからな」
「それにしても、しつこく手伝うって言う前に、一言くらいはあるべきでしょ」
彩花はまだ納得がいかない様子だ。
自分のことよりも、翔が蔑ろにされたことのほうが腹立たしいらしい。
「全くその通りだけど、他クラスにとっては、双葉と話せる滅多にない機会だからな。周りが見えなくなってたんだろ」
「ああ、それは確かにそうかもな」
亮平の苦笑交じりの言葉に、翔もうなずいた。
入学当初は、イケてる男子たちが教室まで彩花を見にきていたこともあった。
「ちょっと、なに納得してんの」
「いや、別に。それよりほら、桑田のおかげでうまく分けられたし、早く運んじゃおうぜ」
これ以上、ここで立ち話をしていても仕方がない。
翔は話題を切り上げ、残った荷物を持ち直した。
「……そうだね」
彩花はまだ少し納得のいかない様子だったが、渋々といった様子で歩き出した。
翔は、その場に残る亮平に向き直った。
「桑田。改めてありがとな」
「いや、こっちこそチームメイトが迷惑かけた。悪いな」
亮平はすまなさそうに頭を下げた。
どうやら性格もかっこいいようだ。
亮平と別れ、二人で荷物を運びながら歩く。
廊下には他の生徒の姿もあるが、皆それぞれの作業に忙しそうだ。
少しの沈黙の後、翔は口を開いた。
「……さっきは、悪かったな」
「えっ?」
「その……抱きしめる感じになっちゃって」
口に出すと、改めてその事実を突きつけられたようで、胸の奥がざわついた。
彩花は一瞬きょとんとしていたが、すぐにぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、全然気にしてないよ! 元はと言えば、私が一度に運ぼうとしたせいだし……むしろ、助けてくれてありがと」
「……おう」
素直にそう言われると、悪い気はしなかった。
翔が頷くと、彩花は少し間を置いてから続けた。
「でも……草薙君でよかった」
「……えっ?」
「だ、だって、他の男子とかだったら、ちょっと面倒なことになるかもじゃん」
彩花が早口でまくし立てた。その頬はほんのり色づいていた。
「……まあ、確かにな」
翔はそっと息を吐き出した。
新村の勢いを思い出せば、彩花の懸念は大袈裟ではない。
だが、今のはただの事故だ。
先程のセリフも、変な気を起こさない相手だと信頼してくれているからこそのものだろう。
——頭では理解しているのに、意識はどうしても体に残る感触に向いてしまう。
柔らかい感触と、鼻先をくすぐった甘い匂い。
それらが鮮明な記憶となって脳裏に焼き付いて離れない。
顔が熱い。胸の鼓動も、微かに早くなっている気がする。
思わず彩花を横目で伺うと、彼女はそっと資材に顔を埋めていた。
荷物の影になって表情は見えない。
けれど、その隙間から覗く頬は、熟れた果実のように真っ赤に染まっていた。
「っ……」
翔は息を呑んだ。
心臓が、一際大きく跳ねた。
(……見るんじゃなかった)
第107話は「お姫様との接近、幼馴染の冷たい視線」です!
同じような場面で同じように強情を張る彩花さんと香澄さん。しかし、翔君と翼君の対応は少し違っていて——




