第105話 幼馴染の異変
「赤月さん。その脚立、ちょっとぐらつくから気をつけてね」
宮城の声がして、翔はふと顔を上げた。
天井近くの装飾をしていた香澄が、慎重な足取りで脚立から降りようとしていた。
古い備品なのだろう。
彼女が体重をかけるたびに、金属が軋むような音が響いた。
「香澄、大丈夫か?」
近くで別の作業をしていた翼がすぐに駆け寄り、手を差し出した。
しかし、香澄は一瞥しただけで、すぐに首を横に振った。
「壁に手をつくからいいわ。逆にバランスが崩れるかもしれないし」
合理的だが、取り付く島もない拒絶だった。
翼の手が、行き場をなくして空中で止まる。
「……そうか」
翼は少しだけ不満げに眉を寄せたものの、それ以上食い下がることはなかった。
気をつけて、と言い残して、彼は元いた作業場所へ戻った。
「……」
離れていく翼の背中を横目に、香澄が小さくため息を吐いた。
かすかに苛立っているような表情だ。
本当は助けてほしかったのかもしれない。
(あいつ、素直に人を頼るの苦手だからな……)
香澄は気難しい性格だと思われがちだが、翔にとっては彩花よりもわかりやすいくらいだ。
幼少期からの付き合いだからだろう。
昔から、言葉と内面にギャップのある子だった。
——とはいえ、今の素っ気なさには驚かされたが。
「今のはさすがに翼が不憫だよね。優しくしただけなのに」
不意に横から声がした。
美波が、テープカッターを片手に翔の隣に立っていた。
「……まあ」
翔は答えに迷い、曖昧に言葉を濁した。
美波がこちらを見ながら小声で続ける。
「あの二人、やっぱりうまくいってないみたいだね」
「定期テスト終わったくらいで、一回仲直りしたっぽかったけどな」
「あれも見せかけだったと思うよ」
美波はあっさりと切り捨てた。
「だってあのときの赤月さん、わざと草薙君を拒絶するような態度を取ってたもん。彼氏とうまくいってる子が、あんなことしないでしょ」
「それはまあ、確かに」
翔にとっては耳が痛い話だった。
香澄にフラれた直後、潤に少し苛立ちを覚えてしまったことを思い出した。
潤は明るく慰めてくれていたのに、その底なしのポジティブさが癇に障ったのだ。
受け入れるだけの心の余裕が、あのときの自分にはなかった。
「って、草薙君の前でする話題じゃなかったね。ごめん」
「いや、それはもう気にしてないんだけど……」
今の翔にとっては、香澄と翼もクラス内の一カップルという認識だ。
ただ、先程の香澄の態度には、どうしても違和感が残った。
美波の言う通り、翼は助けようとしてくれたのだ。
お礼の一つくらいはあっていいはずだし、その後に苛立ちを見せるのも筋が通らないことくらい、香澄もわかっているはず。
「もしかして、赤月さんのこと心配してる?」
美波が顔を覗き込むようにして、翔に尋ねた。
「少しだけな」
「草薙君ってお人好しなんだね。普通はフラれた相手にそこまで感情移入しないよ。——むしろ、ざまあみろって思っちゃうかも」
「……え?」
冗談めかした口調だったが、美波の言葉には妙に実感がこもっていた。
一瞬見せた表情が、普段の明るいものとは違う、冷たい何かを孕んでいたような気がして、翔は思わずまじまじと彼女を見た。
美波ほどの女子を袖にする男子などそう多くはないと思うが、翔と似たような経験があるのだろうか。
しかし、彼女はすぐにいつもの小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ま、今の草薙君には余裕があるもんね」
「どういう意味だよ?」
「そのまんまの意味だよ」
美波がぱちっとウインクを決め、それから一瞬だけ視線を横に流した。
つられてそちらを見ると、宮城とともに作業している彩花の姿があった。
彩花もまた、こちらを見ていたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。
(……そうだけど、そうじゃない)
さすがの翔にも、美波の言いたいことはわかった。
心の余裕ができたのは、間違いなく彩花のおかげだ。
けれど、それを部分的にでも肯定してしまえば、さらに面倒な絡まれ方をするのは目に見えている。
早急に話題を変えるべきだろう。幸いにして、アテはあった。
「そういえばさ、吉良」
「ん?」
「クラスで遊んだときのカラオケ、尻拭いさせて悪かったな」
翔が小声で切り出すと、美波はきょとんとしてから、おかしそうに口元を緩めた。
「ああ、園田君のデュエット提案のこと? 私もどうすればいいのかわからなかったし、むしろ助かったよ。その後もちゃんと私のパスを決めてくれたしね。なかなか上手だったよ」
美波は快活に笑い、ポンっと翔の肩を叩いた。
彼女からすれば自然なスキンシップなのだろうが、将暉の視線が一段と鋭くなるので、やめてほしい。
物理的な痛みはないが、教室の隅から飛んでくるヒリついた気配を感じて、翔はわずかに身を引いた。
「というか、今更ではあるけどさ。吉良が双葉とデュエットしても良かったんじゃないか?」
将暉の狙いが「彩花とのデュエット」だったのなら、美波が彩花を指名して歌えば、角も立たずに解決したはずだ。
翔の問いに、美波は苦笑いを浮かべた。
「二人きりなら別にいいんだけどね……彩花と横並びっていうのは、女子にとってはなかなかハードルが高いことなんだよ」
「吉良なら大丈夫だと思うけどな。事実、そう言ってる人もいたし」
「一部はね。けど、女子って難しいんだよ。あんなかわいい子の親友なんてやってると、特にね」
「そういうものなのか」
「そういうものなんです」
美波はおどけてみせたが、その語尾は空気の中に溶けるように小さくなった。
直後に、短い呼気が漏れた。——ため息だった。
普段はクラスの中心で学校生活を謳歌しているように見える彼女にも、いろいろな苦労があるらしい。
「あー……まあ、なんだ。お疲れ様?」
「疑問形じゃなければ満点だったけどね。でも、ありがと」
美波がふっと頬を緩めた。
その表情は、いつもの小悪魔的なそれではなく、憑き物が落ちたような、無防備な柔らかさを帯びていた。
将暉が熱を上げる理由が、少しだけわかった気がした。
「——二人とも、ちゃんと作業してる?」
そのとき、背後からよく通る声が飛んできた。
振り返ると、宮城と一緒にいたはずの彩花が、どこか険しい表情で翔と美波を見比べていた。
「してるよ。休憩がてら、ちょっと話してただけ」
「そう。ならいいけど。向こうは一段落したし、私も手伝うよ」
彩花は翔と美波の間に腰を下ろした。ちょうど、正三角形を描く形だ。
「助かる」
「彩花がいれば十人力だね」
「……一応は十人分なのに、なんか馬鹿にされてる気がする」
「気のせいだって。ね、草薙君?」
「おう」
「適当すぎるでしょ」
美波がぷっと吹き出した。
それを見て、彩花も思わずといった様子で表情を和らげた。
そのまましばらく、三人で雑談をしながら段ボールの着色作業を進めた。
十分ほど経った頃だろうか。キリのいいところで、美波が筆を置いた。
「私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「わかった。いってらっしゃい」
彩花がひとつうなずいた。
「じゃ、二人ともごゆっくり〜」
「それ、どちらかというと俺らのセリフじゃね?」
「ふふ、そうかもね」
翔のツッコミに意味ありげに笑い、美波は教室を出て行った。
周囲の喧騒だけが残る空間に、奇妙な静寂が流れる。
翔が作業を再開しようと筆を握り直すと、彩花がそれまでよりも低い声で切り出した。
「……ねぇ、草薙君」
「ん?」
「美波のこと、気になってるの?」
翔は手を止めた。
顔を上げると、彩花はじっと手元の段ボールを見つめたままだった。
「えっ、なんで?」
「だって今日、最初からチラチラ見てたし」
「ああ、そういうことか。ほら、カラオケでちょっと厄介な役回り押し付けちゃっただろ。そのことを謝りたくて、タイミングを計ってたんだよ」
「律儀だね。——でも、本当にそれだけ?」
「そうだけど。……急にどうした?」
彩花は一体、何を気にしているのだろう。
翔が訝しげに問い返すと、彩花は不満そうに唇を尖らせた。
「……だって、あんな美波の笑顔、あんまり見たことないもん」
なるほど、そういうことか——。
翔の中で、合点がいった。
美波が、親友である彩花にすらあまり見せないような「素の笑顔」を、翔に向けていたのが面白くないのだろう。
翔は彼女を宥めるように、苦笑交じりに言葉を返した。
「たまたまだろ。それに、親友相手だと逆に、素の表情を見せるのって恥ずかしくなるしさ。気にする必要はないと思うぞ」
「ん? ……ああ」
彩花はきょとんと目を丸くし、それから数秒遅れて、脱力したように口元を緩めた。
「まあ、それはそうだね。……そういうことじゃないんだけど」
「え、なに?」
「ううん、別に。確かに、草薙君も緑川君相手だとツンツンしてるなって思っただけ」
「余計なお世話だ」
翔は肩をすくめてみせた。
潤への態度はツンツンしているわけではない。向こうが節操なく絡んでくるから、適切な距離を保とうとしているだけだ。
彩花は「ふふ」と小さく笑って作業に戻った。
それを見て、翔も再び手を動かし始めた。
本当は何と言っていたのか——。
脳内に浮かんだ問いは、あえて口には出さず、胸の内に留めておくことにした。
第106話は「お姫様を抱きしめた」です!
何がどうしてそんなことになったのか、お楽しみに!




