第104話 お姫様の家での昼食
「二人とも、できたよー」
その声に翔が振り向くと、彩花がキッチンから顔を覗かせていた。
翔と弓弦がゲームを終わらせて、手を洗ってダイニングへ向かうと、テーブルの上には鮮やかな黄色のオムライスと、彩り豊かなサラダが並んでいた。
「すごい、豪華ですね……」
翔は思わず声を漏らした。
昼食にしては、気合いが入りすぎている気がする。
「大したものじゃないわよ。ありあわせで作っただけだから」
真美が笑いながらグラスを並べていく。
翔は自分の前に置かれたグラスを見て、わずかに息を呑んだ。
(薄い……)
指で弾けば高い音が鳴りそうなほど繊細なガラスだ。
下手に力を込めれば、シャボン玉のように割れてしまいそうな危うさがある。
(やっぱり、いいもの使ってるな……そりゃ、ホームジムのある家だもんな)
翔は感心しながらも、グラスには極力触れないようにしようと心に決めた。
「翔くん、見て見て!」
弓弦が自分のオムライスを翔のほうに傾けてきた。
ケチャップで何かが描かれている。
「あー……」
好意的に解釈すればソフトクリームのコーンより上のクリーム部分にも思えるが、弓弦のイタズラっぽい表情を見る限り、十中八九、アレだろう。
小学生男子が最も愛するモチーフだ。
「弓弦、汚いよ」
彩花が笑いながら、ポンっと弓弦の頭を叩いた。
「えー、うまいじゃん!」
「上手い下手じゃなくて、品がないって言ってるの」
「俺も小さい頃にやったことあるよ」
翔がフォローを入れると、真美が苦笑した。
「男の子は必ず通る道だけど、確かに客人がいるときにやることではないわね」
「お母さんまでー」
弓弦が頬を膨らませた。
彩花はくすくす笑いながら、翔のオムライスを覗き込んだ。
「翔君のも書いてあげよっか?」
「え、弓弦と同じものを?」
「書いてほしいの?」
「……別のやつでお願いします」
翔が真顔で答えると、彩花は声を上げて笑った。
そしてケチャップのボトルを手に取ると、翔のオムライスの上にすらすらと線を引いていく。
描かれたのは、ひらがなで『かける』の三文字だった。
バランスも良く、丸みを帯びた文字が可愛らしい。
「お姉ちゃん、うまっ!」
弓弦が身を乗り出して声を上げた。
「ほんと、上手ね」
「カフェとかで出てきそう。——これはさすがに記録に残しておくべきだな」
「ちょっと、やめてよー」
翔がスマホを取り出して写真を撮ると、彩花は口では抗議しつつも、止める様子はない。
むしろ、嬉しそうに口元を緩めている。
「じゃあ、翔くんもお姉ちゃんの書いてあげなよ!」
弓弦が無邪気な提案を投げ込んできた。
「いや、俺はいいよ」
「えー、いいじゃん。書いてよ。手先は器用でしょ?」
彩花が自分の皿とケチャップを翔の前に寄越してきた。
「こういうセンス系は普通に苦手なんだけど……」
手元の作業はともかく、芸術の才能は翔にはないのだが、彩花は期待するような眼差しを送ってくるのみだ。
(……これは、やるしかないか)
変な絵を描いて事故になるよりは、文字のほうが無難だろう。
翔は慎重に容器を逆さにし、彩花の名前を書こうとした。
しかし、一文字目の『あ』が予想以上に膨れ上がってしまった。
皿のスペースは、残り半分しかない。
翔は冷や汗をかきながら、なんとか次の文字を書き足した。
『あや』
そこで、スペースが尽きた。
——『か』が入る余地は、どこにもなかった。
「あら」
真美が口元に手を当てた。
「もしかして、二人のときは『あや』って呼んでいるのかしら?」
「ち、違います!」
翔は顔が熱くなるのを感じながら、慌てて否定した。
「あはは、翔くん顔真っ赤ー。ケチャップみたい!」
弓弦が翔を指差してはしゃぐ。
翔は深くため息を吐きながら、自分の椅子に戻った。
「さ。翔君と彩花は時間もあんまりないでしょうから、食べちゃいましょう」
真美がパンと手を叩いて場を切り替えてくれた。
翔は内心で感謝しながら、スプーンを手に取る。
「いただきます」
四人で声を揃えてから、翔はオムライスを一口頬張り、
「うまっ……」
「お口に合ったかしら?」
「はい。チキンライスも美味しいです。味付けが絶妙で……」
バターの香りとケチャップの酸味が、完璧なバランスで共存している。
翔が素直に感想を伝えると、真美がにっこりと笑った。
「このオムライスの味付けは、全部彩花がしたのよ」
「えっ」
翔は思わず彩花を見た。
彩花は少し照れくさそうに視線を逸らしている。
「……マジで美味しい。ありがとな」
「……うん、良かった」
彩花が、はにかむように小さく笑った。
翔は急に恥ずかしくなって、勢いよくオムライスを口に運んだ。
「翔くん、早食いは良くないんだよ?」
「ハイ、ごめんなさい」
弓弦に諭され、翔が素直に謝ると、彩花と真美が同時に吹き出した。
◇ ◇ ◇
「真美さん、皿洗いくらいはさせてください」
食事を終え、翔は立ち上がりながら申し出た。
まだ少し時間に余裕がある。何もせずに帰るのは、さすがに申し訳ない。
「あら、いいの? じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
真美は柔らかく微笑んだ。
「彩花、食洗機に入れるの、手伝ってあげて」
「うん、わかった」
彩花がうなずき、翔と一緒にキッチンへ向かう。
「軽く擦って汚れを落としてくれればいいから。汚れてないやつは、水ですすぐだけでいいよ」
「このグラスも?」
「あ、それは食洗機じゃなくて手洗いでお願い」
「了解」
翔はスポンジを手に取り、まずは慎重にグラスを洗い始めた。
薄いガラスを割らないように、指先に神経を集中させる。
泡を流し、水気を切ってから、隣の彩花に手渡す。
「はい」
「ん、ありがと」
指先が触れそうな距離での受け渡し。
彩花が丁寧に布巾で水滴を拭き取り、食器棚へしまっていく。
グラスが終わると、今度は皿だ。
必要ならスポンジで汚れを落とし、彩花に渡す。彩花が食洗機のカゴに、手際よくセットしていく。
特段、会話はない。
けれど、水音と食器が触れ合う音だけが響く空間は、不思議と居心地が良かった。
(なんか、前からこうしていたみたいな感じだな……)
翔がふと、そう思ったときだった。
「今の二人、お父さんとお母さんみたいだねー」
「「っ……!」」
翔と彩花は同時に動きを止めた。
顔を見合わせると、お互いの頬が熱を持っているのがわかる。
翔は慌てて視線を逸らした。
(……食器を持っていなくて良かった)
手の中にあったのが、あの繊細なグラスだったら、今頃粉々になっていただろう。
「じゃあ、学校いこっか」
洗い物を終えると、彩花が当然のようにカバンを持ってきた。
「そうだな」
ここから別行動をするほうが、かえって不自然だろう。
もし誰かに見られても、習い事から直行したと言えばいい。
翔は彩花と一緒に玄関へ向かった。
靴を履きながら、真美のほうへ向き直る。
「真美さん。今日は朝からお邪魔して、お昼までご馳走になってすみませんでした。美味しかったです」
「ええ、またいつでもいらっしゃい」
真美が柔らかな笑顔で見送ってくれる。
その横で、弓弦が手を振っていた。
「翔くん、また遊ぼうね!」
「おう。またな」
翔は軽く拳を突き出し、弓弦とコツンと合わせた。
温かな空気を背に感じながら、翔は午後の日差しの中へと踏み出した。
◇ ◇ ◇
彩花と並んで教室に入ると、相変わらず多くの視線が突き刺さった。
だが、以前ほどの鋭利さは失われていた。
認めてもらえた、という言い方は違う気もするが、少しは受け入れてもらえたということだろうか。
視線の量以上に決定的な違いは、将暉の態度だった。
彼は翔や彩花には見向きもせず、美波の隣で作業をしながら、彼女に何事かを熱心に話しかけている。
美波は相槌を打ちながら、適当にあしらっているようにも、楽しんでいるようにも見えた。
少なくとも、嫌がっている様子はない。
だが、それとは別に、美波には一度ちゃんとカラオケの件を謝っておくべきだろう。
——そう思ったのだが。
(離れない……)
少し待ってみても、将暉は一向に美波の元から去ろうとしなかった。
「草薙君。とりあえずこっちからやっちゃおう?」
「え、あ、ああ」
彩花に腕を引っ張られ、翔はよろめいた。
彼女にしては珍しく、強引な手つきだった。
翔はそのまま彩花に引きずられる形で作業スペースへと連行された。
割り当てられたのは、段ボールの組み立てと色塗りだ。
二人で作業を始める。
手は動かしているものの、翔の意識の半分は、やはり教室の反対側に向けられていた。
ふと、顔を上げて様子を窺う。
——将暉はまだ、美波の横に張り付いて何かを熱弁していた。
(……今日は、タイミングがないかもな)
謝罪はなるべく早めに済ませたいが、無理に割って入るほどの話でもない。
翔が小さく息を吐き、視線を戻そうとしたときだった。
「……」
彩花の手が止まっていた。
ハケを握ったまま、じっとりとした瞳で翔を見つめている。
「……どうした?」
「……ううん、なんでも」
彩花は短く答えると、ぷいっと顔を背けた。
その眉間には、ほんのりとシワが寄っている。
怒っているというよりは、何かを我慢しているような、あるいは拗ねているような表情だ。
翔はハッとして、申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、えっと……ごめん。集中してなくて」
サボっていたわけではないが、心ここにあらずだったのは事実だ。
「うん……そうだよ。ちゃんとこっちに集中して」
彩花は、翔の顔を見ないまま、ぽんぽんと二人の間の床を叩いた。
その言葉は、作業に戻れという指示にしては、どこか歯切れが悪かった。
(……なんか変だな)
翔は、筆を動かしながらも、胸の奥でわずかな違和感を覚えた。
普段の、論理的で堂々と指導するプロデューサーとしての姿とはかけ離れている。
本当は何か、作業のこと以外で言いたいことがあるのではないだろうか——。
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。
だが、確証はない。
仮にそうだとしても、今の彩花が素直に答えてくれるとは思えなかった。
翔は小さく首を横に振り、目の前の段ボールに向き直った。
第105話は「幼馴染の異変」です!
一時は仲直りしたように見えた香澄さんと翼君。しかし、二人の間に再び不穏な気配が——




