第103話 お姫様の母からの追及
「真美さん。本当にお昼をいただいてもいいんでしょうか?」
「もちろんよ。たくさんあるから、食べていって」
翔がキッチンに立つ真美に改めて確認すると、彼女は笑顔で快諾してくれた。
だが、不意に包丁を置いて手を拭くと、翔に向き直った。
「その代わりと言ってはなんだけど、ひとつ聞いてもいいかしら?」
「はい。なんでしょう?」
改まった口調に、自然と背筋が伸びる。
「大したことじゃないんだけどね——」
真美はそう前置きをすると、翔と彩花を見比べた。
「二人は、いつの間に名前で呼ぶようになっていたの?」
「「っ……!」」
翔と彩花は、同時に動きを止めた。
真美は口調こそ穏やかだが、その目は笑っていないように見えた。
(やばい、怒ってる……?)
翔の背中に、冷や汗が滲んだ。
勉強前に彩花が自然に「翔君」と呼んだときは、特に驚いた様子もなかった。
だから、すでに伝えてあるものだと思っていたのだが、あのときは聞き流していただけで、実は気になっていたのだろうか。
いくら普段は温かく受け入れてもらえているとはいえ、年頃の娘が異性の同級生と名前で呼び合っているのだ。
親として思うところがあっても、おかしくはない。
「べ、別にいいじゃん。呼び方なんて、お母さんには関係ないでしょ」
彩花が唇を尖らせた。その声は、わずかに上ずっていた。
真美は娘の顔を静かに見返して——ふっと表情を和らげた。
「ええ、そうね」
「……えっ?」
翔は思わず声を漏らした。
真美がくすっと息を漏らしながら、イタズラっぽく瞳を細める。
「あら、翔君。私が本気で怒っていると思った?」
「あ、えっと……はい」
「冗談よ。そこまで口出しするほどお節介じゃないから、安心してちょうだい」
真美がひらひらと手を振った。
「彩花の言う通り、呼び方なんて本人の自由だもの。好きにしてもらって構わないわ」
「あ……ありがとうございます」
翔は自然と頭を下げていた。
胸の奥で、詰めていた息がゆっくりほどけていく。
「ただ、やっぱり報告もないと気になるじゃない? 母親としては」
「それは、そのっ……お互いの家で名字呼びだったのが、そもそもおかしかったじゃん」
「まあ、それもそうね」
絞り出したような彩花の言葉をあっさりと受け入れると、真美は翔を見てパチリとウインクをした。
翔は脱力しながらも、その懐の深さに感謝した。
一方、彩花は少しバツが悪そうな表情で、じっと床を見つめている。
耳の先がほんのり赤い。
居心地の悪い沈黙が降りる中、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまー!」
弓弦の元気な声が聞こえてきた。
「あ、帰ってきたみたい」
彩花がパタパタと玄関に向かった。
翔は、助かったと大きく息を吐き出した。
「ただいまー! って、あれ、翔くん⁉」
弓弦は勢いよくリビングの扉を開けると、翔の姿を見て目を丸くした。
「よう、弓弦。おかえり」
「どうしたの? もう帰るって言ってなかった?」
弓弦が、翔に駆け寄りながら尋ねた。
「予定が変わってさ。お昼をいただくことになったんだ」
「えっ、ほんと⁉ じゃあ、この後遊べるね!」
弓弦はぴょんぴょんと飛び跳ねて喜び、それから思い出したように胸を張った。
「そういえば今日、最後のミニゲームで得点王になったんだよ!」
「おー、すごいじゃん」
「まあ! 弓弦、頑張ったのね」
「うん! すごいでしょー」
翔と真美が口々に褒めると、弓弦は得意げにピースを繰り出した。
そこへ、彩花が玄関から戻ってきた。
「弓弦、手洗いうがいはした?」
「あっ、忘れてた!」
弓弦はくるりと踵を返し、洗面所へスタスタと向かった。
「まったくもう」
彩花は腰に手を当てて、苦笑混じりにそうつぶやいた。
今の一瞬で、すっかりお姉様モードに切り替わっているようだ。
少し経って戻ってきた弓弦は、彩花と翔を交互に見ながら声を上げた。
「ねぇ、お姉ちゃんと翔くん、一緒にゲームしよ!」
「あ、えっと……私はパスで」
「えー、なんで?」
「その……お昼ご飯作るの、手伝うから」
彩花は一瞬だけ翔を見た後、すぐに視線を逸らした。
(……やっぱり、あれはそういうことだったのか)
翔は胸の奥がくすぐったくなるのを感じながら、口を開いた。
「……ありがとな」
「べ、別に。私から誘っておいて、お母さんに丸投げするのは無責任でしょ」
彩花は早口でそう言うと、そそくさとキッチンへ向かった。
「ほら、お母さん。すぐに作り始めようよ。あんまり時間もないし」
「ふふ、そうね」
真美がくすりと笑いながら、彩花の後に続く。
「じゃあ、二人でゲームしよ!」
弓弦が翔の腕を引っ張る。
翔はその頭をぽんと撫でた。
「ありがとな、弓弦」
「ん? 何の話?」
弓弦が無邪気に首を傾げた。
「……いや、なんでもない」
翔はゆっくり首を振ると、「じゃあ、さっそく始めるか」とテレビの前に向かった。
◇ ◇ ◇
「くっそー、もう一回!」
翔のキャラが喜んでいる画面を前に、弓弦が悔しそうに声を上げた。
「いいぜ。何回でも付き合うよ」
コントローラーを握りながら、翔はキッチンの方へ視線を投げた。
エプロン姿の彩花が、真美の横で野菜を切っている。
母娘で並んで料理をする姿は、なんとも言えない温かさを感じさせた。トントン、というリズミカルな音が心地よい。
「お姉ちゃん、最近お料理を練習してるんだよ。夏休みに入って少ししてからかなぁ」
弓弦が、対戦画面を操作しながら教えてくれた。
「……そうなのか」
「うん。前までは卵焼きしか作ろうとしなかったのに、なんでだろうね?」
弓弦が不思議そうに首を傾げた。
単に、学校があるときよりも時間があるからだろう。それ以上の意味はないはずだ。
「——あっ、やば」
指先が狂った。
画面の中で、翔の操作キャラが間抜けに落下していく。
「翔くん、へたー」
「うるさい。もう一回だ」
第104話は「お姫様の家での昼食」です!
小学三年生男子の弓弦君が、オムライスにケチャップで何を描くのか、ぜひ予想してみてください!笑




