第101話 お姫様は何かを企んでいるようです
ジムから家に戻ると、真美がサンドイッチと飲み物を用意してくれていた。
「二人とも、勉強頑張ってね。これ、お昼までのつなぎにどうぞ」
「ありがとうございます」
翔が頭を下げると、彩花が早速トレイを覗き込む。
「翔君、どれ食べる?」
「あー、じゃあ……ツナで」
「オッケー」
彩花は特に気負った様子もなく、「じゃあ、私は王道の卵サンドで行こうかな」と手を伸ばしている。
(……普通に名前で呼んだよな、俺のこと)
翔はちらりと真美の様子を窺う。
年頃の娘が男友達を下の名前で呼ぶようになったのだ。親としては、多少なりとも反応してもおかしくない場面だろう。
しかし、彼女は一瞬彩花に目を向けただけで、口元に穏やかな笑みを浮かべながら洗い物を続けている。
どうやら、すでに伝わっていたようだ。
あるいは、彩花が家で翔の話をするときに、自然とそう呼んでいるのかもしれない。
なんだか胸の奥がこそばゆいが、同時に安堵もしていた。
翔は小さく息を吐き、手に取ったツナサンドを口に運んだ。
パンはふわふわで、具材の塩気とマヨネーズのコクが絶妙に絡み合う。
コンビニのものとは違う、家庭の手作りの味。
それが胃の腑に落ちると、翔の緊張はさらに和らいでいった。
「ごちそうさまでした。めっちゃ美味しかったです」
「ふふ、お粗末さまでした。勉強、頑張ってね」
真美に見送られ、翔と彩花は二階へと上がった。
彩花の机の前に並んだ椅子に腰掛ける。
わざわざ翔用に用意されたものではない。姉弟で一緒に勉強ができるようにと、もともと彩花の部屋にあったものだ。
とはいえ、弓弦はリビングで宿題をすることが多いため、あまり使っていないらしく、実質的に翔の椅子になっている。
翔はカバンから現代文のワークとノートを取り出した。
「一応、言われた範囲は解いてきたぞ」
「おっ、いいねぇ」
彩花が嬉しそうに瞳を細め、ノートを受け取った。
しかし、目を落とした瞬間、彼女の表情が変わった。
「えっ……間違え直しもほんとにやったの?」
彩花が目を見開き、まじまじと翔を見た。
「まあ、一応」
「……あれ、冗談って言わなかったっけ?」
「そうだけど……なんか、深夜テンションで」
翔はそっと視線を逸らした。
花音にも言われたが、昨夜の自分はどこか変だった。
「ふふ。そっか。でも、この量はすごいよ。ひとつひとつ、ちゃんと考えて書かれてるし」
「そりゃ、まあ……生半可な勉強じゃ、彩花に勝つなんて失礼だからな」
「それはそうだけどね……」
彩花がノートに視線を落としたまま、ふと真剣な表情で眉を寄せる。
よく見ると、翔に近いほうの腕——左腕がぴくぴく震えていた。
「どうした? 痺れたのか?」
「いや、うん、まあ……翔君のやる気には痺れさせられたけど」
「うまいこと言わなくていいから。じゃあ、どうしたんだよ?」
「いや、その……緑川君が、琴葉に頭ポンポンされて喜んでたなって」
「えっ——」
翔の口元が引きつる。
「……俺、マジでやめてくれって言ったと思うんだけど」
「翔君は嬉しくないんだ?」
「嬉しい嬉しくないじゃなくて、単純に恥ずか死ぬから」
潤を否定するわけではないが、同級生の女子に頭を撫でられて素直に喜ぶ趣味など持ち合わせていない。
たとえどんな間柄の相手であろうと、だ。
「ふーん……」
彩花は、何か考えを巡らせるような表情をしている。
(……いや、まさかやらないだろ)
そもそも、やるタイミングもないはずだ。
まさか、問題が解けた程度でやってくるとも思えない。
「まあ、それはいいとして、まずはやろっか」
「そうだな」
彩花の言葉にうなずき、翔は勉強に意識を切り替えた。
◇ ◇ ◇
「……やっぱり、見られながらは微妙に恥ずかしいんだけど」
勉強を終えて相変わらず彩花にしごかれながら筋トレをこなし、シャワーを浴びた後。
翔は洗面台の前の椅子に座り、自分で髪をセットしていた。
「だめだよ。成長の過程はちゃんと見ておかないと」
鏡越しに、彩花が険しい表情で首を横に振った。
腕組みをして仁王立ちをしているその姿は、プロデューサーというより監督だ。
「普段もちゃんとできてるだろ?」
「いいからいいから」
「……わかったよ」
翔は小さくため息をつきながらワックスを手に取り、いつも通りにセットを始めた……のだが。
背後の気配が、妙に落ち着かない。
右に左に歩いてみたり、視線が壁に行ったり鏡に戻ったりして、とにかく忙しい。
「……さっきから、どうした?」
「えっ? な、なにも?」
「……そうか」
翔は違和感を覚えつつも、セットに戻った。
家に帰って昼食を取ることを考えると、あまり時間もかけられない。
髪を立ち上げ、束感を作り、最後にスプレーで固める。
「よし。こんな感じだけど、どうだ?」
「うん……」
彩花は一瞬だけ口を開いて、すぐに閉じた。
そして、一度深呼吸をすると、意を決したように一歩踏み込んできた。
「彩花? どうし……」
問いかける間もなく、彩花の手が翔の頭上に伸びてきて——
ふわり。
「よくできました」
囁くような声とともに、温かくも柔らかい感触が、ポンポンと優しくリズムを刻んだ。
「えっ……?」
翔は石像のように固まった。
鏡に映るのは、呆けた表情の自分と、その頭頂部に添えられた——彩花の手。
「っ……!」
全身の血が逆流したかのように、顔中に熱が集まる。
「……、っ」
一拍遅れて、彩花もハッと息を呑んだ。
触れていた手が、まるで火に触れたかのようにパッと引っ込められた。
自身の行動に遅れて羞恥が追いついてきたのだろう。
彩花の頬が、耳の先まで、みるみるうちに熟れた果実のように赤く染まっていく。
翔も、それを指摘できる状況ではなかった。
居心地の悪い沈黙が、温度の上昇したシャワールームを支配した。
「……だから、やめてくれって言っただろ」
「……ごめん。調子乗った」
彩花は消え入りそうな声でつぶやくと、深くうつむいてしまった。
「……いや、別に嫌だったわけじゃないけどさ」
思った以上にシュンとしている様子に、翔はガシガシと頭をかいた。
「……ほんとに?」
彩花がふっと顔を上げたが、その瞳はまだ少し不安げに揺れている。
翔は自然と口元をほころばせながら続けた。
「褒められて悪い気はしないからな。もし俺が落ち込んでたら、またやってくれよ。たぶん、恥ずかしさで落ち込むどころじゃなくなるだろうから」
「……うん、わかった」
彩花が顔を上げ、ようやくはにかむような笑みを浮かべた。
翔は、ふっと肩の力を抜いた。
明るく強引な普段の様子とは裏腹に、意外と繊細な一面も持ち合わせているのだ、プロデューサーは。
「その代わり、私が落ち込んでたら、翔君もやっていいからね?」
「遠慮しておくよ」
元気になったようで何よりだ。
やっぱりできる人は切り替えが早いんだな、と翔は場違いな感心を抱いた。
第102話は「母からの電話と追及」です!
京香さんからの突然の電話と、真美さんからの唐突な追及。予想外の二つのイベントを、翔君と彩花さんは無事に乗り越えられるのでしょうか?そして、双方の母親の要件とは……




