10. レベルアップ
重厚な金属製の扉の前に立ち、陽斗は小さく息を呑んだ。インターホンに手を伸ばすが、その必要はなかった。
「βテスター、黒崎陽斗様ですね。衡田博士にお繋ぎします」
どこからともなく聞こえてきたのは、滑らかだが感情のない、人工的な声だった。人の気配は全くしない。代わりに、壁に埋め込まれたカメラが、陽斗をじっと見つめている。声紋認証と顔認証が行われているのだろう。
「……はい。衡田博士との約束で来ました」
陽斗がそう答えると、わずかな静寂の後、再びAIの声が響いた。
「認証完了。入館を許可します」
重々しい音を立てて、扉がゆっくりと開く。陽斗は、未来的なデザインの廊下に足を踏み入れた。白を基調とした無機質な空間は、シンクロニカ社が大企業であること、そして、最先端技術を扱っていることを無言で主張していた。
しばらく歩くと、広々とした研究室のような場所にたどり着いた。そこには、大型のディスプレイ、複雑な配線が絡み合う機器、そしてガラスケースに入った様々な鉱石や素材、そして何かの図面のようなものが並んでいる。
「やあ、黒崎君。待っていたよ」
部屋の奥から、落ち着いた声が聞こえた。声の主は、車椅子に乗った男性……衡田博士だ。その後ろには、白衣を着た女性と、カジュアルな服装の若い男性が立っている。女性は、陽斗が昏睡状態から目覚めた時に対応してくれた、あの田中だ。
「博士……約束通り、戻ってきました。……田中さんも、その節は……」
陽斗は、博士と、そして田中にも、感謝を込めて言葉をかけた。
田中は、陽斗の言葉に、少し驚いたような表情を見せた後、すぐに微笑んだ。
「陽斗君……お元気そうで、何よりだわ」
「突然の訪問、失礼します。実は……」
陽斗は、ここに来るまでの経緯を、順を追って説明した。母の容体が急変したこと。F級ハンターとして活動を始めたこと。ゲートでの初めての戦闘と、そこでの惨敗。そして……
「……ゲームの世界で使っていたスキルが、現実でも使えるようになったんです」
陽斗は、震える声で告白した。今はただ、強く、圧倒的に強くなりたい。そして、母を助けたい。その一心だった。
衡田博士は、陽斗の言葉に驚きの表情を見せた。しかし、それは一瞬のことだった。すぐに冷静さを取り戻し、鋭い眼差しで陽斗を見つめる。田中も、心配そうな、それでいて強い興味を隠せない表情で陽斗を見ている。
「……詳しく聞かせてもらおうか。スキルが発現した時の状況、感覚……できるだけ詳細に」
陽斗は、衡田博士の質問に、一つ一つ丁寧に答えていった。影刃を形作ろうとした時のイメージ、影縫いが発動した時の感覚……。
衡田博士は、真剣な表情で陽斗の話に聞き入っていた。後ろに控えていた田中と、カジュアルな服装の青年……緑川と呼ばれた彼も、陽斗の発言に強い関心を示しているようだ。
「……なるほど。非常に興味深い」
一通りの説明を終えた陽斗に、衡田博士はそう言った。
「黒崎君、少し見せてくれないか? 君のスキルを」
陽斗はこくりと頷き、意識を集中させる。しかし、影刃はうまく形にならない。
「す、すみません……まだ、うまく制御できなくて……」
「いや、構わない。今は、その“現象”そのものが貴重なデータなんだ」
衡田博士は、そう言うと、陽斗にいくつか質問を続けた。
「黒崎君、今、世界中の企業や研究機関が、ゲートから得られる資源に注目している。鉱石は新たなエネルギー源として、モンスターの素材は新素材や武器、防具の開発に利用できるからだ。……だが、我々シンクロニカ社が最も重視しているのは、それらではない」
衡田博士は、そこで言葉を切り、陽斗を真っ直ぐに見据えた。
「我々が研究しているのは、ゲートそのものの謎だ。なぜ、この世界にゲートが現れたのか。ゲートはどこに通じているのか。……そして、あの爆発事故以来、世界に何が起こっているのか、その全容を解明することだ」
陽斗は、息を呑んだ。爆発事故……それは、シンクロニカ社が引き起こしたとされる、ゲート出現のきっかけとなった出来事だ。
「……シンクロニカ社は……その事故の責任を……感じているんですか?」
衡田博士は、静かに頷いた。
「ああ。だからこそ、我々はこの現象を解明し、事態を収拾しなければならない。……そして、そのために、君の力が必要なんだ」
衡田博士は、陽斗の目を見て、真剣な表情で言った。
「我々は、君の能力を徹底的に調査したい。そして、もし可能であれば、そのスキルを制御し、強化するためのサポートをしたいと考えている」
「……! 本当ですか?」
「ああ。君の能力は、我々の研究……ゲートの謎を解き明かす上で、非常に重要な鍵となる可能性がある。もちろん、母親の治療についても、全面的に協力させてもらおう。我々が提携している最先端医療機関を紹介する。できる限りのことはさせてもらう」
陽斗は迷いなく答えた。
「……ありがとうございます、博士……! ぜひ、協力させてください!」
陽斗は、深々と頭を下げた。今は、とにかく強くなるための手がかりが欲しかった。
「よし。では、早速だが……」
衡田博士は、車椅子を操作し、陽斗を部屋の奥へと促した。
「田中君、緑川君、準備を」
田中と緑川は、頷き、手際よく機器の操作を始めた。
陽斗は、衡田博士に連れられ、さらに奥にある、別の研究区画へと足を踏み入れた。そこには、様々なセンサーや計測機器が設置された、特殊な空間が広がっている。
「ここが?」
「ああ。ここで、君の能力を測定させてもらう」
陽斗は、これから始まる検査に、期待と緊張、そして……わずかな恐怖を抱きながら、研究員たちの指示を待った。
「それでは黒崎君、まずは基本的な身体能力の測定から始めよう」
衡田の指示で、陽斗はまず、ランニングマシンに乗せられた。速度は徐々に上げられていく。普段運動をほとんどしない陽斗にとって、これはかなりの苦行だ。
「はぁ、はぁ……もう、無理……」
開始からわずか数分で、陽斗は息を切らし、額には汗が滲む。田中が心配そうに声をかける。
「陽斗君、大丈夫? 無理はしないで」
「だ、大丈夫です……まだ、いけます……!」
陽斗は、歯を食いしばって走り続ける。しかし、その足取りは明らかに重くなっていた。
その後も、垂直跳び、反復横跳び、握力測定など、様々なテストが行われたが、結果は散々だった。
「……これが、F級ハンターの平均値……か」
衡田は、測定結果のデータを見ながら、冷静に分析する。緑川も、興味深そうにデータを覗き込んでいる。
「次は、スキルの測定だ」
陽斗は、全身に様々なセンサーを取り付けられた。細いコードが、まるで血管のように陽斗の身体に絡みついている。
「では、黒崎君。影刃と影縫い、両方試してみてくれ」
陽斗は、深呼吸をして精神を集中させる。しかし、何度試しても、影は思うように動かない。薄ぼんやりとした影が、形になりそうでならない。
「くそっ……!」
焦りと苛立ちが、陽斗の心を支配する。
その時だった。
ピン!
陽斗の目の前に、突然、半透明のウィンドウが現れた。
《レベルが上がりました!》
《ステータスが更新されました》
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プレイヤー名:ハルト
レベル:2 → 3
タイプ:影使い
HP:100/100 → 130/130
MP:90/90 → 120/120
攻撃力:8 → 10
防御力:7 → 9
素早さ:10 → 12
装備:鋼鉄製の短剣(攻撃力+5)
スキル:
・影縫い(レベル1 → 2) 消費MP10 → 15 成功率:低 → 中
・影刃(レベル1 → 2) 消費MP8 → 10 成功率:中
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「……え?」
陽斗は思わず声をあげた。
「レベルアップ……したみたいですね」
陽斗は、目の前のウィンドウを指差しながら、衡田たちに言った。
「レベルアップ? 何のことだね、黒崎君」
衡田は、怪訝そうな表情で陽斗を見つめる。
「え、だから、ほら。ウィンドウに書いてあるじゃないですか」
陽斗は、ウィンドウを指差すが、衡田たちは何も見えないかのように首を傾げるばかりだ。田中も、緑川も、同じような反応だ。
「黒崎君、私たちには何も見えないが……」
衡田の言葉に、陽斗は初めて、このウィンドウが自分にしか見えていないことに気づいた。
「……え? 見えないんですか? このウィンドウ……」
衡田は、深く考え込むような表情で、陽斗に尋ねた。
「黒崎君、覚醒者たちが、それぞれ何らかの能力に目覚めていることは知っている。しかし、ウィンドウが見えるなどという話は聞いたことがない。……そのウィンドウには、何と書いてあるんだね?」
陽斗は、ウィンドウに表示されている内容を、一つ一つ読み上げた。
衡田は、陽斗の言葉を聞きながら、何かをひらめいたような表情になった。
「……なるほど。もし君の言うことが本当なら……有酸素運動や筋力トレーニング、そしてスキルの練習をすることで、レベルアップし、各種能力値や魔力、そしてスキルレベルも上がる可能性があるということか……?」
「た、たぶん……そうだと思います」
陽斗は、ウィンドウを見つめながら答えた。今まで、ただ漠然とスキルを使えるようになりたいと思っていたが、具体的な数値で成長を実感できるというのは、思いがけない発見だった。そして、努力すればさらに強くなれる。その事実に、胸が熱くなった。
「……これは、非常に興味深い。黒崎君、今後の研究方針が決まったよ。君には、徹底的なトレーニングを受けてもらう」
衡田の言葉に、陽斗は希望の光を見た。ゲームのように、努力すれば確実に強くなれる。その可能性に、胸が高鳴るのを感じた。
「……! はい! よろしくお願いします!」
陽斗は、力強く頷いた。