1. 全接続
2030年6月3日、午前10時15分。
東京都品川区。シンクロニカ株式会社本社ビル、最上階の特別実験室。
重厚な金属製の扉が、音もなく左右に開いた。
室内は、白を基調とした近未来的な空間だ。壁一面には巨大なディスプレイが広がり、複雑なネットワーク図やニューロンの活動を模した光の点滅、そして、まるで意思を持っているかのように変化する幾何学模様が映し出されている。
中央には、複数のコンソールが配置されたコントロールデスクがあり、そこには数人のオペレーターが座っていた。
ここは、シンクロニカ株式会社が開発した脳波インターフェース型VRゲーム「シンクロ・ワールド」の、βテストを管理・監視するための部屋だ。
白衣を着た男――プロジェクトリーダーの衡田博士は、コントロールデスクの中央に立ち、ディスプレイを鋭い眼差しで見つめていた。
その表情は、科学者の探究心と、わずかな狂気を孕んでいるように見える。
「……始めるぞ」
博士は、静かに、しかし決意を込めた声で告げる。
「ついに、この日が来たんですね、博士」
若い女性社員が、期待と不安が入り混じった声で話しかける。彼女は、オペレーターの一人だ。
「ああ。15年だ……長かった」
衡田博士は、ディスプレイに映し出される映像を見つめたまま、遠い目をした。
その瞳には、これから始まる新たな時代への希望、そして、それを超える何か別の感情が宿っているように見えた。
「ニューロ・コネクトは、単なるゲーム用デバイスではない。脳と直接接続し、五感を完全に再現することで、現実と仮想の境界を曖昧にする……人類の進化の、次の段階へ進むための鍵だ」
衡田博士は、熱を帯びた声で説明を続ける。
「βテスターたちの反応が楽しみだな。……いや、彼らだけではない。世界がどう変わるのか……」
衡田はそう言うと、メインコンソールの前に座った。
その時、誰かが特別実験室へと駆け込んでくる足音が響いた。
「衡田博士!!」
慌てた様子で入ってきたのは、若手研究員の荒川真人だった。
「どうした? もう始めるぞ」
「その前に、少しよろしいでしょうか?」
衡田博士は、わずかに眉をひそめ、荒川とともに実験室の外へと出た。
廊下で二人きりになると、衡田博士は不機嫌そうに口を開く。
「こんな大事な時に、一体なんだ?」
「博士……本当に、今日からβテストを開始するおつもりですか?」
「ああ。これは人類の未来を拓く、大きな一歩となる」
「しかし、先日もお伝えした通り、ニューロ・コネクトの安全性は、まだ100%保証されていません! それだけではない……システムが、予測不能な影響を及ぼす可能性だって……!」
「わかっている。だが、科学の進歩にリスクはつきものだ。それに、この世に100%安全なものなど存在しない」
「……」
「君が何を言おうと、私は決めた。今日からβテストを開始する。万が一の際は、私が全ての責任を負う……いや、全てを受け入れよう」
「博士……!」
「実験室へ戻るぞ。……βテスターたちのデータは、全てここに集まる。君も……いや、私たち全員が、これから起こることの証人となるのだ」
衡田博士はそう言い残し、実験室へと戻って行った。
荒川は、絶望的な表情を浮かべながらも、博士の後を追った。
「では、気を取り直して……いや、全てを賭けて……システム、全接続」
衡田博士は、マイクに向かって、ゆっくりと、そして厳かに告げた。
その瞬間、ディスプレイに映し出されていた幾何学模様が、意思を持ったかのように複雑に絡み合い、輝きを増した――。
◇◇◇
一カ月前。
2030年5月3日、午後10時過ぎ。
「ふ~、今日もバイト疲れた。早く帰ってシャワー浴びたい」
家庭教師のアルバイトを終え、家路を急ぐ黒崎陽斗。
都内の大学に通う、ごく普通の大学生だ。
フルタイムで働く母と、高校生の妹との三人暮らし。
陽斗が幼い頃に父親は事故で亡くなったと聞かされている。
決して裕福ではないが、家族の仲は良い。
陽斗は、人気のない夜道を歩きながら、スマートフォンで銀行の残高を確認した。
「生活費、ちょっとピンチだな……」
画面に表示された数字を見て、思わずため息が漏れる。
大学の授業料は奨学金で賄っているが、生活費などは自分で稼がなければならない。
「何か、短期で稼げるバイトないかな……」
陽斗は、アルバイト情報サイトを検索し始めた。
すると、トップページに、目を疑うような広告が表示された。
『【急募】最新VRゲームβテスター募集! 参加報酬30万円! 抽選で選ばれた15名のみ!』
「……さすがに怪しすぎるだろ」
陽斗は、一旦はその広告を閉じた。
しかし、他のアルバイトを探しても、なかなか条件に合うものが見つからない。
しばらく歩いているうちに、陽斗は自宅のあるマンションに到着した。
古びた階段を上がり、2階の部屋のドアを開ける。
「ただいまー」
陽斗の声に、リビングから母の返事が返ってくる。
「おかえりー。夕飯は冷蔵庫にあるから、適当に食べてね」
「はーい」
陽斗は、自分の部屋に荷物を置くと、リビングに戻った。
母は、お気に入りのソファに座って、テレビドラマに見入っている。
「何見てるの?」
陽斗が尋ねると、母は、「最近話題のドラマよ。あなたも一緒に見る?」と、リモコンを手に取った。
「いや、俺はいいや。それよりさ……」
陽斗は、少し迷った後、スマートフォンを取り出し、先ほどのアルバイト広告をもう一度開いた。
「これ、どう思う?」
画面を母親に見せる。
そこには、先ほどと同じβテスター募集の広告が表示されていた。
今度は、「抽選で選ばれた15名のみ!」という文字が、赤く強調されている。
「30万か……」
母は、画面をじっと見つめた。
その時、テレビから、陽斗が見ていた広告と全く同じCMが流れ始めた。
「――シンクロニカが贈る、全く新しいVR体験! あなたも、シンクロ・ワールドの扉を開いてみませんか? βテスター、募集中!」
「あ、これのことね」
母が、テレビを指差す。
「でも、なんか怪しくない? 報酬30万って」
「大丈夫よ、シンクロニカって大企業だし。それに、新しい技術の体験もできるなんて、楽しそうじゃない。それに、抽選で15名よ! 当たったらラッキーじゃない!」
「まあ、確かに……」
陽斗は、母親の言葉に背中を押され、応募フォームへと必要事項を入力し始めた。
氏名、年齢、住所、連絡先、簡単なアンケート……そして、最後に「応募動機」の欄があった。
「応募動機、か……」
陽斗は、正直に「生活費の足しにしたい」と書こうかと思ったが、少し考え直し、こう打ち込んだ。
『新しいVR技術に興味があり、ぜひ体験してみたいです。ゲームも好きなので、βテストに協力できることを楽しみにしています』
送信ボタンを押すと、「応募を受け付けました」というメッセージが表示された。
それから一週間後。
大学の講義が終わった後、陽斗はスマートフォンでメールをチェックしていた。
すると、シンクロニカ社から「βテスター選考結果」という件名のメールが届いていることに気づいた。
「まさか……」
陽斗は、期待と不安が入り混じった気持ちでメールを開いた。
『黒崎陽斗様
この度は、シンクロニカ社「シンクロ・ワールド」βテスターにご応募いただき、誠にありがとうございます。
抽選の結果、あなたをβテスターに選出いたしました。
つきましては、後日、βテストに必要なVRデバイス「ニューロ・コネクト」一式をお届けいたします。
同封の取扱説明書をよくお読みの上、βテストにご参加ください。
シンクロニカ株式会社』
「まじか! ラッキー!」
陽斗は、思わず声を上げた。
周りの学生たちが、一斉に陽斗の方を見る。
陽斗は、少し恥ずかしくなりながらも、心の中でガッツポーズをした。
それからさらに一週間後。
陽斗が大学から帰宅すると、玄関に大きなダンボール箱が置かれていた。
送り主は、シンクロニカ社。
「ついに来た……!」
陽斗は、急いで箱を開けた。
中には、最新鋭のVRデバイス「ニューロ・コネクト」、取扱説明書、そして「シンクロ・ワールド」βテスト参加同意書が入っていた。
同意書には、βテストに関する注意事項や免責事項などが細かく書かれていた。
陽斗は、一通り目を通したが、正直、あまり頭に入ってこなかった。
それよりも、早く「ニューロ・コネクト」を試してみたくて、うずうずしていた。
しかし、この時の陽斗は、このβテストが、自分の運命、そして世界の運命を大きく変えることになるなどとは、夢にも思っていなかったのだ。
読んでいただきありがとうございます!